1.6 三回目
「……美幸先輩?」
「…………」
彼女は再び俯いて応えようとはしない。先の表情からこちらに気づいているのは間違いないだろう。ただこの状況でどう彼女に声をかければ良いのだろうか。
「なんだ、お前ら知り合いか?」
ドスを利かせた声で美幸先輩の隣の男が話しかけてくる。美幸先輩の肩を抱え、下衆に笑う。無精髭を生やし、髪も整えられていない様子だが、相反してその服装はまともだ。
「申し訳ないんだがな、兄チャン、この女は俺が買ったんだ。随分高かったんだぜ、全財産の半分は叩いちまったよ」
聞いてもないことをベラベラと喋りまた笑う。悪い予感は見事に的中していた。そして心の中で何かが沸々と音を立てて、大きくなっていく。
「美幸先輩、こんな男は置いておいて行きましょう」
気づけば、美幸先輩の腕を掴みこちらに連れて行こうとしていた。しかし、俺の伸ばした手は彼女には届くことなく、間に男が入って阻まれた。
「おいボウズ、どういうつもりだ? さっきも言っただろう、この女は俺が買ったんだ」
その一言で、俺の中で膨らんでいた何かが弾けた。
「さっきから買った買ったって…… この人が怯えているのが、嫌がっているのが分からないのか?」
俯いている美幸先輩の表情は読み取れない。ただその肩の震えを俺は見逃していなかった。そしてここに来るまでに見た、迷いと恐れの表情。買う買われる、そこに彼女の意志なんて存在しなかったんだろう。この世界で流されるまま、生きてきた結果がこれなのだ。
美幸先輩は誰が見ても分かるぐらい小柄だ。抵抗一つすらできなかったに違いない――声を上げる、そんなことすら。
「ふん、だからなんだっていうんだよ。この女はオレのものなんだ。生かそうが殺そうが、焼こうが煮まいが、それすらオレに委ねられてるってわけよ。日本語は分かるだろ、ボウズ。知り合いかもしれないが、残念だな」
ここで美幸先輩を力尽くでも取り返してしまえば、事は解決するのだろうか。
面倒事はできるだけ避けてくださいね。先輩はたまに周りが見えなくなっちゃう時がありますから。桜の言葉を思い出す。申し訳ないが、その約束事は守れそうにない、と心の中で謝っておく。
今の自分には《力》がある。その使い方が果たして正しいのもなのかは分からない。ただ今この眼の前で起きていることを、今更何もなかったかのように無視することなどできない。
心は決まっていた、あとはいつ、どのタイミングで実行するだけかだ。
「急に黙りこくってなんだ? これ以上、邪魔しようっていうんなら……」
男は懐から拳銃を取り出しこちらへ向ける。
「言わなくても分かるだろ? 命ぐらい見逃してやるからよ、諦めてどっかへ行くんだな」
動じることはない。何かしらの武器を隠しているだろうと思ったが、これぐらい屁でもないだろう。男が油断している今が絶好のタイミングだ。
自身の武器を思い描く。右手に剣の柄の感触、そしてその重さを感じる。迷うことはなかった。男の持つ拳銃に向かって剣を滑らせた。
軽い感触とともに、男の手から拳銃は空へ向かって飛んで行く。そのまま剣の切っ先を男の胸元に突きつけた。
「……死にたくなかったら、その人をおいてどこかへ行け」
「まさか制有者だとはな。こりゃあ敵わん。わかった、わかったよ、いきゃあいいんだろ」
男は両手を挙げ、後ずさりながら、口を開いた。
「残念だったな、ボウズ」
ニヤリと男が不敵な笑みを浮かべる。――何か来る。本能がそう告げていた。
「フン――ッ!」
男の唸り声。突如、黒い大きな物体を視界の端に捉え、間一髪のところで後ろへ飛んで回避する。
「これを避けられるとは……流石は制有者といったところか。ただそんなひ弱な武器でこれを止められるかな」
男が創り出した武器は、禍々しく黒い槌だった。桜の大剣と同じような巨大な武器。しかし彼女のものとは違って、その色に輝きはなく、男の性格そのものを体現したかのような闇に染まっている。一撃でも貰えば、そのダメージはひとたまりもないだろう。
対人戦の心得はないわけではない。負けたと言えど桜と一度戦っている。戦闘はこれで三度目。今回は頼むぞと剣に語りかけながら、正中に構える。
「来ないならこっちから行かせてもらうぜ」
地を蹴り男が距離を詰めてくる。
――遅い。
巨大な鈍器を抱えているからだろうか。その一挙一動が目でしっかり捉えられるほど、男の動きは遅すぎた。単純な上からの叩き振りを避ける。槌はその速度を緩めることなく、地面へ衝突し路地にヒビを産んだ。
その硬直の隙を見逃さなかった。槌の伸びている取っ手部分へ渾身の斬りを入れ、またも男の手からその武器を飛ばした。間髪入れず、男との距離を詰め、がら空きの腹に蹴りを入れた。
倒れた男の首元に剣を当てる。
「まさかこうも簡単にやられるとはね」
「実力差は分かっただろ、彼女を置いてここから去れば命までは取らない」
「オレを殺せるか? ボウズ」
明らかに負け、俺が剣を一振りさえすれば死ぬという状況だというのに、男はその醜悪な顔に笑みを浮かべている。
つい柄を握る手に力が入り、刃の先端が男の首筋に食い込んだ。赤黒い血がすっと刀身にしたたり、男は痛みで少し顔を歪める。が、そこに浮かぶ笑みは未だ消えない。
「……何がおかしい?」
男に問う。この状況で、こちらが不利だと思わされるぐらい余裕に溢れていた。隠し手があると? まさか、そんなものがあるならとっくに使っているはずだ。
「こう身体から溢れる雰囲気に似合わん言動だとは思ったが……お前、人を殺したことないだろ。いや、人を殺したことを覚えていないが正確か」
男の言葉にハッとする。人を殺したことがない、そのことはハッタリでも言えることだろう。しかし彼は言い直した。人を殺した記憶がない、と。まさか記憶喪失だと知っているはずがない。いや、過去にもこの男と会ったことがあって、それを覚えていなかったから? 思考が頭の中で連鎖する。最も重大な事実を避けようとするために。
「……そういう甘さが命取りになるんだよ」
気づけば男から遠く離れていたはずの黒槌は男の手元にあった。いつの間に取り戻した? 眼前に迫る黒槌。無理だ、避けられない。俺は来る衝撃を恐れ、目を閉じた。