1.5 『先輩』
軍の関係者とバレないように、基地の裏口から半ば逃げるようにして大通りまでやって来た。荒廃した近未来の光景――例えば時代が一つ戻ったかのような風景と、廃れ植物の生い茂る建造物――を予想していたのだが。
「想像したより、随分とまともだな」
「基地周辺は良くも悪くも栄えてますからね」
通りを歩く人の数は多くはないが、朝早くという時間から考えれば、明らかに多い部類に入るだろう。大通りに面した店は半分ほどが開店していて、幾つかの店にはもう客が入っている。学生時代にも見たような、栄えた都会の風景と相違ない。
「ただ、細い路地だったり、基地から離れた場所はあまり近づかない方がいいですから、気をつけてくださいね、中尉」
「……桜。最近思っていたことなんだが」
「なんでしょうか、中尉?」
桜がこの世界で使い続ける『中尉』という呼称。当初は自分が呼ばれていることに気づかないこともあったが、最近では流石に慣れてきた。とはいっても、数日前まで桐島『先輩』と呼ばれていたわけで、中尉と呼ばれると首元が痒い。そもそも軍人とバレないために私服に着替えたはずなのに、階級で呼んでいては元も子もない。
「中尉って呼び方やめてもらってもいいか? 外っていうのもあるし」
「私としたことがつい……。ではなんとお呼びすればいいでしょう?」
「そうだな……。昔みたいに先輩でいいんだけど……」
桜の返事はない。何か口をもごもごさせながら悩んでいる様子だ。今の年齢で言えば、桜の先輩であることは確かだが、精神年齢で言えば彼女は自分の先輩だ。正直な話、桜が傍にいなければ俺はこの世界でまともに生きていくことは出来ないだろう。
「……やっぱり流石に先輩はあれだな。その、普通に名前とかでいいよ」
「違うんです、ち……、ああ、その……」
中尉と言いかけて、結局俺をなんと呼ぶべきか決めきれないのか、しどろもどろしている。人間染み付いた習慣はなかなか直せないというやつだろうか。俺はかけるべき言葉が見当たらず、起きた時とは打って変わって雲の立ち込めた空を見上げる。
「……ぱい。……先輩。正人先輩。なんか懐かしいというか恥ずかしいですね」
どうやら『先輩』と呼ぶことに決めたらしい。恥ずかしそうに笑みを浮かべる桜を見て、また喉の奥の方に熱がこみ上げるような感覚を覚える。どうも今日は調子が良くないらしい。軽く咳払いをして狂った調子を整えようと試みる。それを見て体調が悪いと思ったのか桜が「大丈夫ですか、先輩」と顔を覗き込んできたが、顔を背けながら「大丈夫」とだけ詰まる言葉を押し出した。
桜は心配そうな顔をしていたが、それ以上追求することはなく、スキップするような足取りで正人の先を行く。過去、こんな風に彼女と出かけたことはあるのだろうか。頭をひねり思い出してみようとするが、霞がかった記憶の中に見つかるものはない。
「キュルルルルル」
唐突に前方からそんな音が聞こえた。またさっきとは違った赤面した顔で、桜がこちらを振り返る。
「……聞こえました?」
鳥の鳴き声か何か……と思うのはやはり苦しい。先程の音は紛れもなく桜のお腹がなった音なのだろう。確かにまだ朝食すら摂っていないのだから、しょうがない話である。が、ここで素直に「聞こえた」だなんて言うのは男が廃るのではないだろうか。
「……何の話だ?」
「……いえ、なんでもないんです」
これが大人の男の対応というやつだろう。しかし、わざわざ聞こえたかなんて質問するのはそれこそさっきのは自分でしたと言わんばかりの行動だと思う。こんなことを昔は口に出していたから、比嘉なんかに「ひねくれた奴」と言われていたのだが、今回はぐっと堪えることができた。
歳相応の落ち着いた男になる――それとも演じると言うべきなのかもしれないが、これで一歩近づけただろう。もう一言ぐらい気の利いた言葉をかけるべきかもしれない。
「もうそろそろ朝ご飯でも食べに行かないか?」
我ながらに見事なフォローだと感じていた。すると桜の顔は、それはもうみるみるうちに茹でたタコよりも赤く、今にも蒸気が吹き出しそうなほどになって――
「やっぱり聞こえていたんじゃないですか!」
爆発した。
桜と朝食をとるためにに訪れた喫茶店は、少しレトロな雰囲気の落ち着いたお店だった。大通りから少し離れた、静かめの路地にある隠れ家のようなところだ。外を一望できる窓際の席に案内され、メニューを渡される。
よほどさっきのことが恥ずかしかったのか、つんけんした態度で「オススメのお店があるんです」とだけ言われ、素直についてきたがまともな場所でつい安堵する。ここまで来る途中に見かけた、お洒落でキラキラしたカップルの聖地のような店に連れて行かれたらどうしようかと思っていたが、その心配は杞憂だったようだ。
朝ということもあり、桜がモーニングプレートとセットの飲み物を注文する。それに倣って、俺も同じものを注文した。店員が離れた後、桜は少し驚いた顔で聞いてきた。
「先輩、ブラックコーヒーじゃないんですね」
確かに頼んだのはウインナーコーヒーでブラックではないのだが、驚くようなことなのだろうか。それとも先の出来事の仕返しで、甘いものを頼んだことをからかわれているだけなのかもしれない。
「からかってるわけじゃなくてですね……、先輩はブラック派だったんです」
表情から見て取れたのか思考を先読みされたが、それは初耳だ。
「どちらかというと甘党のはずなんだけど……」
「たしかに昔の先輩は、苦いもの全般飲めない食べれないでしたね……」
それは今は違うということなのだろうか。ブラックコーヒーはじめ、ゴーヤも食べられないし、さらにはビターチョコレートも苦さが先行して好んで食べていた記憶はない。
「あれ? でも砂糖入りのコーヒーすら無理とか言ってませんでしたっけ?」
「ああ、いや、確かにそうなんだけど……」
何を隠そうコーヒーという飲み物自体苦手なのである。ただ桜が目の前でいとも簡単にコーヒーを頼んだ手前、ココアだとか紅茶だとかに素直に逃げられなかった。いえば、少し見栄を張ったわけなのだ。
「もしかして少し見栄張りました?」
「……んぐぐ。桜、もしかしてまださっきのこと気にして」
「さっきのことって、な・ん・で・す・か?」
やっぱりまだ怒っているようだが、納得行かない。不可抗力というか、別にお腹の音一つぐらい聞かれたところで減るもんなんてないだろう。「口に出さなくてもそういうことを考えるのがダメなんだよ」そう美幸先輩に言われたことを思い出す。
比嘉も美幸先輩も今は何をしているのだろうか。桜は自分から彼女らのことを未だ口にしていない。俺の家族がこの世にはいないこと、それも未だ現実味のない話である。逆にだからこそ平常心を保てているのかもしれない。
桜に変に言いくるめられ会話が途切れていたところに、助け舟のように先程頼んだメニューが運ばれてくる。桜のお腹がまた鳴り始めないうちにと思いながら、「いただきます」と二人とも食事を始めた。
プレートはキノコとほうれん草のキッシュにヨーグルト、彩りよくまとめられているサラダが一緒になっていた。これはこれで洒落ていた気もするなあと思いながら、食後の珈琲に口をつける。生クリームの甘さが苦さに完璧に打ち勝ち、これならいけると思った束の間、コーヒーらしい苦味が口の中に広がり思わず顔をしかめる。
「ついこの前までは、コーヒーはブラック以外許さないって感じだったのに……」
「それはにわかには信じがたいというか……」
「なんだか本当に学生時代の先輩なんだなって感じがします」
そう言って桜は笑う。いつも通りの会話のはずなのにどうも緊張してしまう。気を紛らわすために再びコーヒーを口にするが、どうもまだこの苦味の美味しさは理解できそうにない。
「今の自分より少し背伸びしてみせようっていうのが、今も昔も先輩らしいんですよね」
桜が唐突にそんなことを言うものだからむせてしまった。また「大丈夫ですか」と心配する桜を横目に、テーブル横のペーパーナプキンを取ろうと窓側に視線を移す。
古びたネオン電飾の光る、細い路地に入っていく一組の男女が目に入った。その片方に心覚えがあった。数年後の世界だから記憶違いかもしれない、そう思ったが、下衆そうな顔の男に引かれ決心しきれないような気乗りしない表情をした彼女の顔にはやはり見覚えがあった。
考えたくはないが、悪い予想が頭の中を駆け巡る。考えるよりも先に体が動いていた。
「ごめん桜、すぐ戻ってくるから」
そう言い残して急いで店を飛び出す。勘違いであってくれたら、多少の厄介事にはなるかもしれないが、何も困ることはない。
数十秒でそこにたどり着いた。どうやら、まだ入るのを渋っていたらしい。男はなんだといった顔をこちらに向けてくる。その隣の女はうつむいていたが、異変に気づき顔を上げる。そして俺の顔を見てハッとした表情をした彼女の顔は、もう見間違うことはない。
桐島正人の目の前に立つ小柄な女性、それは学生時代の先輩――奥寺美幸その人に他ならなかった。