1.4 年上の後輩
昔の夢を見ていた。
今の自分の記憶は断片的で、どこから覚えていないのかもわからない。
夏の日にあった一場面。
数ヶ月前のような、昨日のことのような、鮮明に思い出せる夢。
あそこにいたはずなのにという思いが、こちらに来てから――記憶を失ってから大きくなっていく。ふとした拍子に、あちら側に帰れるのではないかという希望の糸は日に日に細くなっていく。
人間、人を忘れてしまう時に最初に忘れるのはその人の声だという。美幸先輩や比嘉はうまくやっているのだろうか。幸い声は忘れていなかったが、今やそれが本当に彼女たちの声なのか確かめる手段はないのだ。
つい後ろ向きの思考にとらわれていることに気づき、気分を切り替えるためにベッドから降り窓に掛かるカーテンを開きに行く。カーテンを開くと、差し込む柔らかな暖かい日差しに少し目がくらむ。ガラス越しに垣間見える朝焼けは、この世界が現実の続きであることを感じさせるように昔と変わらない。
「ふぁぁああ~」
まだ眠たそうにしている身体を起こすためにも、伸びをすると欠伸が出てしまった。昨日の桜との模擬戦の疲れが抜けきっていないのだろうか。随分と早くに起きなけらばならなかったということもあるだろう。今日は桜の願いであるお出かけに付き合うことになっている。「朝早くから一日中遊び倒しますから、中尉、夜更かししないでくださいね!」そう桜は意気込んていた。
約束の時間までは確かまだ時間があったはずだが、たいしてやることもない。自分の部屋を見回しても、娯楽の「ご」の字一つすら見当たらない殺風景な部屋だった。士官には個室が与えられると聞いたことはあるが、言うほど広くないというのが率直な感想だ。
寝るのに困らない程度の硬さの簡易なベッドに、服をかけるための小さなクローゼット。書類仕事を行うための小さな執務机と椅子。他には私物などを保管するための棚が置いてあるぐらいだった。
棚の中身はほとんど空っぽで、全く使っていなかった引き出しもあるのか、立て付けが悪くなかなか引き出せないところもあった。今までの自身の経緯を追うためにも、多少の私物を漁りたかったのだが、掴める手がかりはないと言っていいほど少なかった。見つけたのは軍学校か何かの集合写真と、大災害に関わる多数の資料のみ。
写真にうつる中で見覚えのある顔はいくらかあって皆、軍人という道を選ばざるを得なかったのだろうか。そう邪推してしまう。
自分も巻き込まれたという大災害の資料は、数が多く何のためにこんなにも集めていたのか見当もつかない。何か調べていたことは確かなのだが、それに関する記憶は勿論なく、煩雑にまとめられた資料の山は半ばゴミ同然だ。
結局、部屋の中で時間を潰すものは見つけられず、ベッドに座り込む。ふと思い立って、自身の武器を右手に創り出す。頭の上に掲げると、室内灯の光を反射し透き通るような輝きを放つ。金属感はなく、全体的に水色ががっていて、武器というよりは装飾品のような印象を受ける。かと言って、華美な装飾が見られるわけではなく、凍てつく氷のような誰も寄せ付けない雰囲気をまとっていて、総じて言えばどっち付かずの形容し難い剣だ。これまでずっと、自分の得物として付き合ってきたはずの武器に問う。どうして軍人と言う道を選んだのか。何を思って今まで戦ってきたのか。剣はその凍てる煌めきを変えぬまま応えない。
「中尉、起きていらっしゃいますか?」
扉をノックする音に続き、桜の声が聞こえる。時計に目を移せば、もう約束の時間になっていた。思ったよりも時間を潰せていたようだ。「開いてるよ」と返事したのだが、「中尉のお部屋に勝手に入れません」と返され、鍵のかかっていないドアを開きに行く。
その先にいた桜を見て、言葉を失ってしまった。今まで桜の私服を見たことがないわけではない。しかし、学生の頃の幼さの残る可憐な容姿ではなく、大人として成長した婉麗な彼女の姿は軍服を着たところしか見ていなかった。
「その、実は、学生の頃に来ていたのを引っ張り出してきたんです。やっぱりもう似合わないですよね……」
「いや、その……」
艶やかな長髪の黒髪とは対照的な真っ白なワンピース。その天衣無縫な格好にただただ見とれてしまい、返す言葉がなかった。確かに今の彼女の容姿には似つかわしくない服装かもしれない。ただこの心を撃ち抜かれたような感情は何なのだろうか。正しく表現する術がないことがもどかしい。
「こっちの方が見慣れてるかなって思ったんですけど……。年甲斐もないですね!」
桜はこちらの様子には気づかないようで、一人で延々と自虐を続けている。彼女なりに気を使って学生時代の服を着てきてくれたのだ。しかし桜がそれを着ていた記憶すらも自分の頭に残っていないことが心惜しい。
だんだん声が消え入りそうになっていく桜の頑張りに応えなけらばならない。自身の混乱する頭をなんとか揺り動かし、言葉を紡ぐ。
「……似合ってるよ」
もっと気の利いた事を言えないのか。後輩だった桜が、急に年上の綺麗なお姉さんになっただけでこんなにも動揺してしまう自分に呆れてものも言えない。
「……本当ですか?」
半分涙目の桜が上目遣いにこちらを見る。それすらも十分破壊力抜群で、こちらが卒倒しそうなのだが、ぐっと耐えて言葉を続ける。
「ホントだって。その、気を使ってくれてありがとう、桜」
「せんぱ……、中尉! これを選んできて良かったです!」
桜はこのところ情緒不安定かと心配になるぐらいに、感情表現が豊かで激しいような気がする。見ているこちらとしては嬉しいのだが、こうも千変万化していただろうか。
「あ、もしかして中尉、見とれちゃって何も言えなかったんですか?」
こんな風にケロッとからかい始めるのは昔の桜ではありえない。どこか美幸先輩に悪い意味で影響を受けてしまったような印象を受ける。ただ、こういうのはまともに取り合わないのが吉だと俺は知っているのだ。
「なんとでも言っといてくれ。ほら、早起きしたんだし、行かないか」
「えっと、そのですね、中尉。軍服で外を出歩くのはあまり推奨されてないんです」
「……そうなのか?」
「はい。良い印象を持っていない人がいたり、金品目的で集団で襲われることもあったりで……」
軍人が狙われるというのは少し不思議に感じたのだが、ここ数日、軍で過ごすうちに気づいたことがある。規則という名の下にある程度縛られているはずなのだが、治安が悪いのだ。
絶対数の少ない《制有者》は、社会的にも経済的にも階級的にも恵まれた立場を得ることが出来る。自分と大して変わらない年の、さらには年上の制有者でない部下を私的に使い走らせ、のうのうと娯楽に勤しんでいるのを見かけたことが何度もある。おそらく外でも一般人相手に肩書を盾に似たようなことをしているのだろう。
「かと言っても、俺の部屋に私服なんてなかった気が……」
「だと思って、中尉の私服も用意させていただきました!」
嬉しそうな笑顔を携えて、桜は紙袋を差し出してくる。受け取らざるを得ず、中身を覗くと俺が学生時代に好んで着ていた服が詰められていた。
「これをどこで……?」
「ひ・み・つ、です」
いたずらっ子ぽく答える桜には、やはり美幸先輩の影が見え隠れしている。数年前に着ていたものと同じ服を持ってくる桜にある種、恐怖を禁じ得ないがこれ以上詮索する必要もないだろう。
「中尉が着替え終わるの、外で待ってますね」
桜はご機嫌そうに身体を翻し、ワンピースの裾ををふわっと靡かせながら部屋を出ていった。
扉を閉め、軍服から着替えて鏡を覗いたが、自身の姿に苦笑してしまった。
「俺は大人びたというよりは老けたんだな」
つい独り言つ。学生の頃より成長した体躯にも服がピッタリだったことには、もう突っ込むことはできず、何とも似合わないなあと思いながら外で待つ桜のもとへ歩みを進めた。