1.3 夢という名の日常
「先輩、そんなに入れ替わりネタやりたいんですか?」
正人はため息をつく。確かに、別世界に行くだの、同じ時間をループするだの、入れ替わりだのは最近のブームではあるのは確かだ。だからと言ってそれが百パーセント受けるかというとそれは別の話である。
「別に流行に乗っかってって訳じゃないから! こう、なんて言うか頭にピーンと来てるんだよね」
机を隔て向かいに座る美幸先輩は、パソコンに台本を打ち込む手を止め、必死に訴える。
「次の公演までもう一か月足らずなんですよ、今から新しいの書き始めるなんて……」
「だって神様が私にこれを書け、これをやれって言ってるんだから!」
「はぁ」
「そんな文句言うやつには手伝ってもらうからな」
そう言うと美幸先輩はパソコンを抱えて立ち上がり、最近足にガタが来始めた机を回って正人の横までやって来る。無言のまま空いた片手で指図され、正人は椅子を少し後ろに引く。
「よいしょと」
そんな一言とともに美幸先輩は正人の膝の上に座った。
「おむッ……、何でもないです」
「今、重いって言いかけたよね」
「いや、絶対ないです、はい。アアコンナカワイイセンパイガボクノヒザノウエニイルナンテシアワセ」
「……なにその呪文? 流行ってるの?」
「ははは……」
奥寺美幸――その人はここ、演劇部の役者としては絶対的エースであり、ほとんどの公演で脚本も担当している。詳しくは知らないが脚本もいくつか賞を取っており、演劇の才に関して先輩より前に出れる者はうちにはいないだろう。ただその引き換えとしてなのか、性格や言動、ひいては容姿までが子供っぽい。
「むむむ……、何かろくでもないこと考えてない?」
なんだこの人、超能力者か何かかよ。
「何のことですかね……。そんなことよりもう少しで皆来るんですから降りてください先輩」
「ええぇぇえ、こっちの方が原稿が進む気がするんだよねー」
こうなるのはいつもの事であり、先輩が素直に降りるとは欠片も思っていなかった。別に耐えられないほど重いわけではないし、目の前にある先輩の透き通るような黒髪から漂う香りにある種の安心感を覚えていないわけではない。何とも抵抗する気が失せていくのだ。
「あれ、今日はなんか大人しいね。もしかして私の魅力にやられちゃった……?」
「まさか、ちょっと眠いだけですよ」
「ほんとかなぁ? 私のこの大きな果実が気になってるんでしょ??」
そう言って先輩は、突き出した胸を揺らそうと座りながら少し跳ねる。いや、それ普通に重いんですけど。
確かに美幸先輩のそれは小さな身長からは不釣り合いなほど豊かであるし、それを理由に校内にいくらかのファンがいることは紛れもない事実だ。
「そういう言動が子供っぽいから大人のレディとして扱われないんですよ、先輩」
「そういうこと言っちゃう? あ、座らせてくれるお礼として揉んでもいいからね」
ニヒヒと笑いながら悪魔的な提案を投げかけてくる。この人と真正面からやってはペースに飲み込まれてしまう。邪な思考から脱するために、俺は部室を一回り見渡した。
演劇部の部室は教室ではなく、生徒からは北原寮と呼ばれる三階建ての建物の二階にある。過去に寮として使われていたかは定かではないのだが、二階は食堂として使われていたようで、部屋の奥には長机の上に椅子が積み上げられている。
一階にはお風呂、三階には三段ベッドが大量に設置されているため、他部活も合宿で利用している、そんなよくわからない場所だ。そもそも学校の敷地の東側に位置しているのに『北』なんて名前がついているあたり、謎の多い場所であることは明らかだ。さらにはもともとはお墓があったとか、落ち武者の幽霊が出るだとか言われる始末。ボロイし、一般生徒は基本立ち寄らないこともあって噂の絶えない、いわくつきの建物なのである。
入り口上に掛けてある、今にも落ちそうな格好をしている時計へと目を移す。十五時二十分。もうそろそろ委員会も終わり部員が集まってくる時間だ。
「先輩、本当にもうそろそろ皆来ちゃいますから」
「……そんなに二人だけのひ・み・つにしたいの? 変態さんだねえ、君は」
「俺は何もやってませんからね!」
ガラガラと立て付けの悪い扉の開く音、間髪入れず何かが顔の横を通り過ぎ、夏の生ぬるい空気を頬に感じる。
「また先輩をたぶらかしてるんですね、このロリ悪魔!」
時計から視線を下せば、そこには後輩の桜美琴が怒りの形相とともに立っていた。
「ふふーん、これは桐島君たっての希望でね。美琴君には関係のない話だよ」
何を言いやがるこの悪魔。急いで弁明をせねばならない。
「先輩、まさかそんなことありませんよね?」
笑顔を取り繕ってはいるものの、桜の目は笑っていない。
「ホントにホント、そんなことはないよ、ない、天のお日様に誓ってないから」
馬鹿か俺は。これじゃあまるで俺がやりましたと言っているようなものではないのか。振り返れば飛んできたものはどうやら英和辞書らしきものだし、多少の命の危険を感じないわけではない。言えば、体はひしひしとその危険を感じ取っている。だが体は凍り付いて動きそうにない。これが蛇に睨まれた蛙の気持ちか、そんな悠長なことを考えるしかなかった。
「ですよね、正人先輩がこんなことするわけないですよね。……今日こそ、そこの猫被ったロリババアの化けの皮はがしてあげますよ!」
「いやいや、怖いなあ」
美幸先輩は桜から目を離さず俺の膝から降りる。刹那、また宙を切って飛んでいく辞書が見えた。今度は和英辞典だ。華奢な体からは想像できない速さで飛んでくる辞書に俺は戦慄した。そもそも桜はもっと物を大切にする子だったはずなのだけど。
「安心してください先輩、これはそこの狐野郎の辞書ですから」
そういう問題じゃないと思うぞ、桜。心を読まれていることに突っ込む気力すら失せてしまった。この異次元戦闘に関わるべきではない、そう脳が警鐘を鳴らしている。
「それじゃあ、桐島君、また後で会おう!」
美幸先輩はそう言い残して、食堂奥の扉へと駆け出す。確かそこは非常階段に繋がっていたはずだ。逃がしません! そんな声とともに三撃目、国語辞典が空を飛ぶ。しかし積み上げられた机椅子に阻まれ攻撃は届かず、そのかわり掛けられていた椅子がガラガラと音を立てて崩れ落ちる。
「すみません先輩、後で直しに戻ってくるので」
俺の傍らに落ちている英和辞典を拾いに来る桜。もう何も言うことはない、好きにやってくれ。その隙に非常階段へと逃げたのだろうか、食堂に美幸先輩の影はない。
「あんなもの付けてながら足だけは速いですね……」
桜は和英辞典、さらには崩れた椅子をかき分けながら国語辞典を回収し奥の扉へ、そして外の非常階段へ出てしまった。
部室に平穏が戻る。一瞬で吹き抜けていった風だった。一つ深呼吸をし、伸びをしてから南側にあるベランダへ向かう。外に出ると蝉の喧騒に混ざって美幸先輩と桜の声が聞こえる。見上げれば、今日は雲一つない素晴らしい天気だ。
公演日まであと一か月。脚本も出来上がってなければ、部室にいる部員は俺一人。この部活に未来はあるのだろうか。吐いたため息は夏風に乗って真っ青な空へと吸い込まれていった。
「空なんか見上げて何してんの、あんた」
振り返れば、はたから見ても分かる不機嫌さに溢れる同級生こと、比嘉加奈が部室の入り口をくぐるところだった。その不機嫌さに追い打ちをかけるかの如く、入り口上にある時計が……落下した。まるでスロー映像も見ているかのようだった。その時計は待ってましたかと言わんばかりに比嘉の頭に直撃する。
「ンン――ッ!」
声にもならないような悲鳴を上げて、頭を抱え座り込む。人間相当痛いときは「痛い」って言葉が出ないものだ。そんなくだらないことを考えていると、比嘉は涙目になりこちらを恨めしそうに睨んでいる。
いや、俺がやったわけじゃないし、無言の訴えを返す。それを理解してくれたのか、今度は頭を押さえながら自身に危害を加えた時計と俺の間で視線を行き来させる。……戻せっていうのかい。
「きっとヒガカナの声で落っこちたんだろ、自分で戻しとけ」
「ひらがなみたいに呼ぶな! ……はぁ」
納得いかないなんて顔をしながら、比嘉は頭に落ちたおかげか傷一つない時計を睨みながら拾い上げる。そして入り口上の中途半端なでっぱりにひっかけようと、ちょこちょこ飛び跳ねている。
そもそもの話、そんな不安定なところに置くからこんな悲しい事件が起こるのでは、と喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込む。今の比嘉は不機嫌中の不機嫌だ。触らぬ神に祟りなし、そっとしておこう。
未だ時計を戻せず悪戦苦闘している比嘉は、もちろん気づいていないだろうが、ジャンプするたびにスカートがひるがえり、その中が見えそうになっていた。椅子を使うという単純な発想にすらたどり着いていないのか、それとも意地になっているだけなのだろうか――比嘉の性格上、後者ではあると思う――どちらにしろ、このまま眺めているのは目に毒だ。
今度は眼下にあるプールの方へと目を移し、ため息をつく。今日はこれでもかというぐらいの夏真っ盛り。このまま水に飛び込みたいほどの暑さなのだが、それには残念ながら距離が足りない。この天気で忙しく泳いでいる水泳部員たちを少しうらやましく思っていると、こちらに手を振る人影が見える。クラスメイトだろうか、それともただの同級生か。申し訳ないが、今一つ名前が浮かび上がって来ない。
こういう時は自分以外に手を振っているものだが、振り返っても一瞬ピンクの何かが見えただけで人はいない。しょうがなく気だるげに手を振り返しておく。すると彼らは満足したようで練習へと戻っていった。俺に向けて、というのは間違っていなかったらしい。
日照量不足を補うためベランダまで来ていたが、流石に夏の日差しは身体に堪える。先輩と桜は帰ってこないし、比嘉は悪戦苦闘しているし、他の部員は来る気配がない。皆が集まるまでソファで惰眠を貪ることに決め、部室端に鎮座するそれに向かう。
いつかの公演で必要だということで買ったものだが、今やただのお昼寝スペースだ。ソファ以外にも畳だったり、電気ケトルや布団、色々なものが無造作に転がっている。演劇部らしいと言えばそうなのかもしれないが、ここで生活できるぐらいにものが充実しているのもどうかと思う。
購入してから日の浅いふかふかのソファに飛び込む。横になるだけで睡魔が襲ってくる、素晴らしいソファだ。夏の喧騒がだんだん遠くなっていく、眠りはすぐ目の前まで来ているようだ。睡魔に身を任せ、数秒もしないうちに正人の意識は暗闇へと溶けていった。