1.8 刹那の戦闘
十数メートルあった男との距離はすぐに詰まる。さらに一歩踏み込めば剣の間合いに入るが、それでも男は一歩も動こうとはしない。明らかにこちらを待っている。
対人戦は駆け引き――いかに相手の行動を先に読めるかだと模擬戦後、桜は語っていた。先は何かにつかれたような衝動で飛び掛かってしまったが、今は自分でも驚くほど頭は冷え、思考は冴えわたっていた。
駆け、宙に浮いている状態で重心を後ろに移し、石畳の出っ張りに踵をひっかけるようにして着地する。両脚に随分と負担はかかるがそこで踏ん張り、前方へ進んでいく体を無理やりその場に止めた。
その行動とほぼ同時、風切り音と共に、そのまま踏み込んでいれば自身の頭部があった場所を黒槌が尋常でない速さで横切って行く。
「おっと、流石にあからさますぎたかね」
「…………」
何かしら仕掛けてくると予想できていたが、それでも冷や汗をかいた。自分の目の前にいる男は、明確な殺意を持っている。
「今度はこっちから行かせてもらおうか」
相も変わらず、下賤なニタニタ笑いを携えた槌使いは、巨大な鈍器を体の脇に構え低姿勢を取る。互いの距離は、両者の武器の届く範囲ではないが数メートルほどしかない。判断を間違えれば確実に痛打をもらう。
「ハァッ!」
男は威勢よく地面を蹴り出し、一瞬で交戦圏内ギリギリまで近づかれる。すること考える事、何か一つのミスが命取りになる。入ってくる情報全てに感覚を研ぎ澄ます。
右に構えたハンマーの横払いだ。素直に受けきることはまず不可能だと判断し、取るであろう軌跡を避けるためバックステップを試みる。
再び後ろ重心を取りながら膝を曲げたタイミングだった。僅かではあったが、横払いを行うなら下がるはずの男の肩が、不自然に上に動くのが目に入る。
その場から動くことはやめ、体を丸めたような状態でさらに男の動きに神経を集中させる。左半身を前面にして突っ込んで来たその後方、隠すようにしていた右肘がクイッと引き上げられたのを俺は見逃さなかった。
その予備動作から導かれる結論はただ一つ。
予想されるなぎ払いを放ち始める位置で立ち止まることなく、さらに加速するために一歩踏み込んでからの斜め縦振り。根拠に乏しい見立てで大きくジャンプして回避していたら、方向制御のきかない空中で、その会心の一撃を見舞われているだろう。
勝ちを確信したような力強い男の踏み込みに合わせ、こちらも前方へ軽く地面を蹴る。身体の低い位置に重心があったことで、姿勢を変えることは容易だった。
模擬戦を思い出すような懐への入り。しかしこの状況で蹴りを入れるは不可能だ。がら空きの胴体へゼロ距離の斬撃を食らわせられれば、確実にこの男を屠る――命の灯火を消し去ることができる。
ただこの黒槌持ちが、俺が命を奪っていいほどのことをしたのだろうか。美幸先輩を買ったこと、そして俺の命を躊躇なく奪おうとしただけ。それ以外の悪徳を彼が積んでいないはずがないが、それが殺しの免罪符になるとは到底思えない。
思考よりも先に動き出していた剣筋を下半身の足へと変える。移動能力さえ無くしてしまえば、それ以上の戦闘は起こり得ない。手慣れの相手にも勝てるという証明をここで示す。
明確な自身の意志を持って斬り込んだその剣先は、またあの時と同じように宙を切った。
虚を突かれた思いだった。
剣は確実に男の前脚を捉えていたように見えた。その斬撃の瞬間、あるはずの下半身が視界から消えていたことを遅れて認識する。
来る後頭部への衝撃を恐れ、動悸が加速する。体ごと回旋させ、自身の後方を確認すると、地面に振り下ろした槌を支点にして宙に翻る大きな影が目に入った。
一時の逡巡で思いもつかないような回避の隙を与えてしまったのか。いや、違う。
左手で柄を持ち、逆立ちするような形でこちらを見下ろす男の右手には先程、その手から弾いたはずの拳銃が握られていた。
「いやあ残念だったな。多少は楽しかったぜ、ボウス」
ここまで全て彼の筋書き通りだったのだ。相手の裏をかいた、勝てるだなんて思い違いも甚だしかった。自信を打ち砕かれる。結局、この低俗な男の手のひらで踊らされていただけなのだ。自身の油断やミスが招いたものではない、ただの単なる実力不足による完膚なき負け。
銃口はどうしようもなくこちらを捉えている。地面に背を向け、半ば倒れたような姿勢からそれを避けるすべはどこにも存在しない。
引き金に指がかけられる。持てる全てを出し切れただとか、やれることはやっただとかそんな自己満足の気持ちは欠片もなかった。
あれだけの覚悟を決めておきながら、決心をしたというのに誰も守れなかった。ただただ後悔の念に心が包まれていく。もっと力があれば、二度も不覚を取られないような強い力があれば。敗北の苦汁を噛み締め歯を食いしばり、熱くなる目頭を腕で覆う。
「あの二人は俺が面倒見てやるからよ、心配するな。じゃあな」
発砲音。死への恐怖はなく、彼女らを守りたいその思いだけが心にあり続けた。




