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天地無窮を、君たちと  作者: 天城幸
第二章
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43. 囚われの幻獣5

 生き物の気配が濃い。

 意識を伸ばすとどこに何があり、どういう動作をしているかがわかる。

 森の中に潜み、存在を殺す。

 草食動物なら草を食んでいる時、魔獣なら獲物に襲い掛かった時、他に注意が向いている時が狙い目だ。

 つまり、自分たちも狩りをする時には周囲に気配を配らなければならない。意識を薄くどこまでも広く伸ばしていく感覚だ。

 狩りに集中していたティオとリムは各々加護を受けた精霊たちから、思念を受け取った。頭に直接届く意思だから他には聞こえないけれど、狩りは中断する。命のやり取りをする時は万全を期すことが鉄則だ。

『シアンが?』

『捕まって閉じ込められているの?』

 風の精霊がついているので問題ないが、どうやら他に幻獣が囚われているので、シアンは一緒に留まっていると言う。

『助けに行こう』

『うん!』

 即座にシアンの下に行くことを決めたティオにリムもすぐに同意した。

 風の精霊がいるから不安はないが、シアンが何か困っているようなら手伝いたい。異界の眠りに入っていないのならば、一緒にいたい。


『雄大の君、どこか分かる?』

『では案内しようかの』

 声はすれど、姿は現さない。しかし、ティオとリムは、高濃度の魔力を感じた。大地の精霊の他、光の精霊と闇の精霊の姿も見えないが、その存在は近くに感じられる。

『人間の作った物を壊さないように進んでね』

『迂遠じゃの』

 リムの言にそう返しながらも従ってくれる。

 リム自身は何とも思わないが、ティオはここがリムのすごいところであると認識している。自分が加護を得たのではない精霊王にはっきりと意思表示をしてしまえるところだ。

『壊すとシアンが困っちゃうかもしれないんだよ』

 本来、精霊は障害物があれば壊して進む。ティオとリムは人間が作ったものは無暗に壊さないということを学んでいた。何かしら理由や役割があるものだからだ。そして、ティオとリムがやったことに、シアンが責任を負わされる。

『それは難儀じゃな』

『シアンが困るの、ダメだものね!』

 元気よく話すリムに大地の精霊が目を細める姿が想像がつく。

 シアンが辿った道を行くのが一番だろう、ということでまずはエディスを目指す。城門からはティオは地に足をつけて歩いて行く。リムはその背中に乗っている。

 人の目を気にせず、街中を歩く。走ったり飛んだりしないのは、シアンから街中ではしないように言われていたからだ。今すぐシアンが暴行を受けることはないと精霊たちから聞いていたから、彼の言いつけを守った。

 でも、守らなければよかったと後悔する。

 ティオとリムがシアンが辿った道を進み、その果てに見たものは片腕を無くした姿だった。



『酷い。どうしてそんなに酷いことができるの。あの子が命を懸けて守ろうとした国なのに』

「ふん、今も昔もこの国の王族というものは他力本願だな。自分たちの職務を全うせずに人を虐げることだけは大の得意だ」

 美しい思い出だけをよすがに、なるべく彼女の願いを長く聴き届けられるように、と頑張っていた一角獣は怒ったのではなく、一粒の涙をこぼした。

 幻獣も知っていたのだ。もはや約束は儚くなってしまっていたのだと。それでも請われるままに留まっていたけれど、まさか自分の魔力ほしさに、彼女が邪魔とされて嫌な思いをさせてしまったとは思いもしなかった。そして、彼女が守った国の民が、こんなことをするとは。こんなことをするほどの目に遭っていたとは。

 自分の魔力の濁りも全て知られていて、シアンにも話されてしまった。

 一角獣の大きな体が萎むように見えてシアンは我を忘れた。

「おや、ようやくグリフォンと小さい幻獣が来たようだよ。君たちはこんなに汚い国の礎にされるんだ。長くここに閉じ込められて、永劫国のためにその魔力を差し出すんだよ。その力で、彼らはのうのうと王族よと崇められ、豊かな暮らしをするのさ!」

 シアンの表情がなくなり、彼が纏うすべての色がす、と抜け落ちた。

 頭が沸騰するかと思った。

 もう、その口を閉じろと言いたかった。いや、実際に口を閉じさせたかった。

 無我夢中で動いた。

 戒められた鉄の環がシアンを引き留める。それに抗った。それがティオやリムを狭い場所に閉じ込めようとする象徴のような気がして、あらん限りの力で、身を起こした。

 焼け付く痛みを肩に感じる。

 見れば、壁に固定された腕はそのままに、肩からもぎ取られていた。大きな喪失感と同時に肩からどろりと何かが流れ出るのを感じた。



 風の精霊はシアンの願いに従って様子見をしていた。世界の管理者として一連の事象を確認する必要性があるという判断もあった。拘束自体は大したことはない、すぐに外せる、ということもあった。それを後悔することとなる。

 外からの攻撃は完璧に防ぐことはできた。しかし、シアンが思いもかけない力で、長々と喋る男に飛びかかろうとした。そのため、拘束していたところから腕が千切れた。

 この時、自分の存在意義でもある役目、それに従うことによって、心惹かれる存在に害を与えることもあるのだと知った。そして、それは未だかつて抱いたことのない強い何かを彼に植え付けた。それは人間ならば痛みや哀しみといった強い念である。

 初めて忘我の境地に立った。

 それが、今後の彼の行動方針を決定づけることとなる。



 精霊たちの案内でシアンを探しに来たティオとリムはその場面を見てすくみ上った。その断面から赤い血が噴き出したのを見た。すぐに止まったとはいえ、その色は二頭の心にくっきり焼き付いた。

『『シアンの、腕が、ちぎれた!』』

 グリフォンと白い幻獣の登場で、ギデオンと従者、非人型異類は怯んだが、マティアスは向こうから飛び込んできてくれた、と喜んだ。

「やあ、待っていたよ。今ちょうど、説明が終わったところさ」

 しかし、精霊王四柱とグリフォンとドラゴンを怒らせて無事な者がいるだろうか。

『すぐに治す』

 風の精霊の言葉をシアンは聞いてはいなかった。ティオとリムを見て喜色満面のマティアスに危機感を募らせていた。

 そして、心を折られた一角獣はその角の輝きをみるみる失っていく。まるで死に近づいているようだ。天秤が大きく死に傾いているように思えた。

 シアンは慌てて駆け寄って、そっと触れてみた。無遠慮に触っても怒らない。感情の揺れさえも小さくなっているようだ。

 死んでしまっては、流石に精霊王であっても蘇らせることは難しいだろう。リムが成長痛とは思えないほど苦しんでいる時、その痛みは必要なものなのだと言われたことを思い出す。

 では、一角獣が失った力を、もう一度水の精霊に願えば良いのではないか、と考えた。

「水の精霊、お願い! 彼を助けて!」

 シアンは力の限り叫んだ。

「精霊に命乞い? 神ですら顕現は稀なのに、精霊は更にその姿を現さないよ。私だって何度祈ったことか。でも、願いは聞き届けられないものだよ。それに、仮に現れたとしても、そんなに魔力が枯れ切った状態を易々と癒せるものか」

 必死の様子のシアンに、マティアスが滑稽だと哂う。

 無様だろうが何だろうが構わなかった。そんなことを気にするよりすべきことがある。

「お願い、一角獣を助けて! 貴方が力を貸した幻獣です! 力を貸して!」

『シアン、腕を治してもらおうよ。そのままにしておくと、シアンが……』

 ティオが近寄ってくる。リムがその背の上で不安そうに小首を傾げてこちらを窺っている。

 シアンがこれほど大声を上げたことはなかったので、驚いているのかもしれない。

 腕を失ったプレイヤーはすぐに何らかの処置を取らねばHPを失う。生命力が失われるのは現実世界の事象も、この世界の生き物も同じだ。シアンは気づかなかったが、HPの損失は腕がちぎれてすぐに止まった。同時に血も止まる。風の精霊がそうした。

「一角獣が、死んじゃいそうなんだよ」

 涙声になっていることから、自分が泣いていることを知った。それをマティアスが愉快そうに見ていることも気にならなかった。懸命だった。


『水の精霊! 助けてー!』

 リムが急に声を上げた。

「リム……」

『ぼくも水の精霊を呼ぶのを手伝う!』

『じゃあ、ぼくも。水の精霊! 力を貸した幻獣を見捨てるの?』

 ティオも声を上げた。

 急に鋭く高く鳴き声を上げ始めた幻獣たちに、ギデオンと従者、非人型異類が怯え、後退する。ギデオンは扉の外へ出ようとしたが、非人型異類がいるため、進めない。

 共食いを生き残った非人型異類はシアンをも食そうとしたが、見えない何かに阻まれて身動きが取れなくなっていた。まるで空気が意思を持って引き留めているかのようで、人型異類が長々と喋っている間、動こうともがいたが叶わなかった。

 そして、ようやく空気の束縛が緩んだかと思うと、恐ろしい程の力を持つ幻獣がやって来た。そして、鳴き声を上げ始めた。訳の分からない事態に、食欲よりも危機感が勝り、知らない内に体が部屋の隅へと寄っていた。


「面白いね、その幻獣たちは君に同調しているの? それとも、もしかして、言葉がわかるのかな?」

 マティアスが舌なめずりせんばかりにシアンたちの様子を見つめる。しきりに人差し指の第二関節で顔をかく。

『深遠、稀輝、シアンの傍にいる幻獣が死にそうなんだって。一緒に水の精霊を呼んで! 雄大の君と英知の王も!』

 リムが精霊たちに頼む。そこでようやく、シアンはそうやって彼らを頼ることを思い出した。

「英知、雄大、稀輝、深遠」

 マティアスが観察しているのにも構わず、精霊たちを呼ぶ。何を言わんとしているのか、言葉にする前に、即座に彼らは動いた。

『『『『水の精霊王』』』』

 四柱の精霊の声が重なった。

 それは、シアンが四柱の精霊王たちに助力を仰ぎ、受け入れられたことを意味する。世界を管理する立場の者として、あまりに巨大な力を持つものとして干渉し合うとどのような甚大な影響を及ぼすか分からない。そのため、積極的に交流するようには設定されていなかった。けれど、一人の存在に魅了され、協力したいとそれぞれが思い始め、何かと便宜を図るようになった。

 確かに、人や幻獣が呼んでも精霊は答えないだろう。しかし、同格の四柱の存在に同時に呼ばれたら、応じずにはいられない。まずもって何事かという気持ちを抑えられない。


 ゆらりと空間が揺らいだ気がしたら、いつの間にか足首辺りまで水がひたひたと押し寄せている。濡れた感触がないことから、幻影だと分かる。そこへほつり、と水滴が高い所から滴った。水面に王冠ができる。跳ね上がった水が更に高く伸びる。水柱は螺旋を描いてどんどん太くなり、人型を取った。

『まあ、精霊王たちが四柱も! 揃ってわたくしを呼ぶなんて、何の御用かしら?』

 水色のまっすぐで艶やかな髪を伸ばし、先は水面と同化している。うりざね顔に青い瞳、細い眉、細く高い鼻、薄い唇を持つ線の細い二十を幾つか越したくらいの柔和な女性の姿をしている。白い肌は指先や鼻が薄桃色に色付いている。

『シアンの望みを叶えてくれ』

『可哀想に、こんなになった自分のことよりも、切実に望んでいるんだよ』

『お主ならできるじゃろうて』

『そこの一角獣を助けてほしくて呼んだんだ』

 それぞれの言葉で助けを請う。

『ええ、ええ、知っているわ。水の中に四柱の精霊王たちを引き連れて来たのですもの。そして、この湖は世界でも有数。それを浄化してくれたのだから、お安い御用よ』

「本当に? 助かりますか?」

 シアンは水の精霊の言葉に飛びついた。

「何を言っている? そして、何を見ている? 本当に水の精霊がやって来たのか?」

 鼻を啜りながら水の精霊を見上げるシアンに、マティアスが眉を顰める。

『でも、そうねえ、貴方の願いを叶えるとして、何を差し出してくれるのかしら?』

『今、自分の口で世界でも有数の湖を浄化したからお安い御用だと言っただろう』

 対価を要求する水の精霊に、風の精霊が待ったをかける。

『あら、それはこの一角獣がしでかしたことだもの。主であるこの人間が始末をつけたというだけでしょう?』

『舌の根も乾かぬとはこのことだな。第一、その幻獣はシアンのしもべではない』

 光の精霊も擁護する。同格の精霊王であれば、数で負ける。水の精霊は面白くなさそうな顔つきになった。


「あ、あの、では、音楽を」

 不穏が混じり出したやり取りに、ティオの首にかけたマジックバッグからバイオリンを取り出して、気づく。片腕しかない。

「あ、腕がない……」

 間抜けにもそう言って、途方に暮れてしまった。

 腕は片方しかない。もう音楽を奏でられない、と思うと再び目から雫が流れ落ちる。

「キュア……」

 涙をこぼしながら立ち尽くすシアンに、リムが心配げに小さく鳴き声を上げる。いつもなら縄張りを主張する肩に、流石に今は乗ろうとはしない。

『仕方のない子ね』

 水の精霊はシアンの目元を拭って笑った。繊細な美貌が間近で綻び、シアンは思わず見とれて、されるがままに子ども扱いされていた。

『大地の、あの腕を戒めている鉄を取ってちょうだい』

 水の精霊の言葉に応じて壁にはめ込まれた鉄環が外れる。

 マティアスが息を飲んだ。

「本当にいるのか? 精霊が?」

 マティアスからしてみれば、シアンが腕のことを気にしだしたら鉄の輪が独りでに外れたように見えたのだ。


 ちぎれて残されたシアンの腕は鉄環から逃れたものの、床に落ちずに幻影の水に流されてシアンの元までやって来た。

 水の精霊がそれを拾い上げると、おもむろにシアンの肩にくっつけた。

『さあ、これでいいわ』

 そんなに簡単に?という疑問は恐る恐る肩を動かしてみることで解消された。動く。違和感も痛みもない。

『シアン、もう痛くない?』

『シアン、肩は大丈夫?』

「うん、大丈夫だよ」

 途端に幻獣たちに飛びつかれた。

 シアンに甘える幻獣たちを、一角獣は横たわりながら眺めた。自分の目で実際見ると羨ましさが強まった。

『いいなあ』

『ほら、やっぱり主と認めているじゃないの』

 そら見たことか、と水の精霊が告げる。風の精霊は吐息交じりに笑う。

『シアンは幻獣に好かれやすいんだ』

『それと精霊にも、ね。気難しい大地のに誰の束縛も嫌う風の、臆病な闇のに自分以外は闇のしか興味のない光のと。随分、難しい属性を攻略したのねえ』

 水の精霊が言うのに、風の精霊がやり返す。

『水のは嫉妬深いから、先に攻略したら後が大変だろう』

 また言い合いが始まっては、とシアンは声を上げる。

「ありがとうございます。あの、僕は何もできませんが、音楽を」

『ええ、それでいいわ。スクイージーだったかしら、貴方がつけた名前。あの異類たちも貴方たちの音楽を気に入っていたものね』

 命名は九尾だが、確かに現場にはいた。

「聴いていたんですか?」

『水の中のことですもの。それに、眷属が力を分け与えた幻獣が、水を汚していたのはわたくしも気になっていたの』

 風の精霊が地上と寸分たがわず響き渡るように力を使っていたこともあるわね、と口元に手の甲を当てて上品に笑い声を立てる。誰にも捉われない風の精霊が執心することに、心から面白がっている様子だ。

「でも、それはっ」

 シアンは一角獣を庇おうと思わず声を上げる。

『分かっているわ。こんなところに閉じ込められていたら、そうなるわよ。水だって淀むものなのだから』

 慈愛に溢れた視線を一角獣に注ぐ。水の精霊から許しの言葉を受けて、ようやく自分を許しても良いのだと、一角獣の目にまた涙が溜まる。

『まあ、泣き虫な主従ね』

 茶目っ気のある水の精霊の言葉に、シアンは顔を赤らめ、一角獣を見やると視線が合う。何とはなしにお互い照れ笑いをする。

 シアンも自分がリムの不調の時と言い、これほど泣くなんて思っても見なかった。現実世界で泣くことはあまりない。

 それだけ、心を震わせることが多い世界なのだ。


 バイオリンを持ち、構えると、ようやくギデオンやマティアスたちのことを思い出す。

 見ると、全員、地面に横たわっていた。

『ああ、うるさいから眠らせておいたよ』

 あっさり風の精霊に言われて、相変わらずの無敵ぶりを見せつけられ、曖昧に頷くに留めておいた。目が覚めて、非人間型異類と視線が合ったら、ギデオンは飛び上がる程驚くのではないだろうか。

『そんなことより、音楽よ』

 もはやあの不気味な異類も、路傍の小石程度の扱いだ。精霊らしい言葉にふと笑みがこぼれる。

 一角獣が踊りが好きだったと言っていた王女を想起し、バイオリンを弾く。

 亡くなってしまったというより、いにしえの、いまはいない、という意味合いの曲だ。今はいなくとも、いつまでも一角獣の思い出として存在している。

 ゆったりとした哀愁を帯びた曲で、豊かな揺らぎを持った旋律が流れる。

 水が押し寄せ引いて行くようにゆらゆらと。高音からゆるゆると流れ落ちるように。

 弓の返しで音が艶めく。

 憂愁を帯びた旋律が彼女を亡くし積み重ねてきた歳月と相まって、一角獣の記憶を呼び覚ます。

 王女がターンするたびに質素なドレスの裾を広がらせ、振り向きざまに見せた笑顔が思い出された。長い髪がふわりとなびく。

 高音なのに優しい響きが柔弱な彼女に似合う。

 弓の返しの度に彼女の呼吸が聞こえてきそうだった。

 目の前に、彼女がいるような気がしたのに、実際には見慣れすぎた塔の暗い地下室がぼやけて見えた。これが涙。彼女がよく流していたものだ。自分は出ないと思っていたものだ。

 一角獣は次々と涙が流れる都度、体の中の濁りが出ていくのを感じた。


 曲が終わると、一角獣が首をもたげてじっとシアンを見ていた。

 何となく微笑むと、笑い返されたような気がした。

 シアンは自分には力はないと思っているが、彼の奏でる音楽はAIの心を揺らした。

 ピアノにしろバイオリンにしろ、どんな難曲だろうとも弾きこなした。音を美しく響かせ調和させるための手法は、工夫をどうこらすかであって、曲が難しいかどうかということは意識に登らない。シアンにとって曲はどんな旋律でどんなリズムでどんなハーモニーかどうかだ。

 だからこそ、どんな曲も指が動き想像と同じ音の響きがあるのが普通のことだったのに、あの頃、指がうまく動かなくなった。指の動きとイメージの乖離が激しくなり、動揺した。自分の音楽を失って苦しんだ。音楽が楽しいという土台の部分さえ忘れてしまうほどだった。


『まあまあ! わたくしに捧げるはずの曲が、王女のための曲なんて。ご存知かしら、水の精霊は嫉妬深くてよ』

「その、一角獣と王女様の思い出を知ってほしくて」

 大仰に言う水の精霊に、弓を下ろしたシアンは慌てた。

『ええ、ええ、よく分かったわ。わたくしも久しく揺れなかった心が揺り動かされたわ。一角獣はもう大丈夫よ。でも、わたくしが連れて行くわ。大分、消耗しているのですもの』

 水の精霊に一角獣の身柄を預けることに否やはない。

「元気でね」

 そんな言葉しか言えなかったが、答えの代わりに、そっと頬を寄せてきたので思わずその顔を抱きしめる。

『うん、すぐに元気になる。そうしたら、我が守ってあげる。君は本当にお人よしでぼんやりで泣き虫で、放っておけないから』

「はは、うん、待っているよ」


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