30.惨劇
多少のグロテスクな表現を含みます。
ご注意ください。
リリトは今朝も早起きして周辺の家に卵を配る。
世話になっている家の役割だ。小さな村だから、役割が決まっていて、きちんとこなさないと難儀する者が出てくるのだ。それこそ、雨の日も風の強い日でも配る。食卓を豊かにしてくれる、みんなが待ち望んでいるちょっとした食べ物だ。早起きは辛いが、この村の者たちは働き者だから早朝に活動し始めるし、何より、この仕事をリリトに任せてくれたのだ。
リリトが昨年まで住んでいた村は非人型異類に襲われて、命からがら逃げ出し、その後は放浪した。この村はそのリリトを暖かく迎え入れてくれた新天地だ。
グェンダルはあの冒険者に小さい村だと言ったが、リリトが前に住んでいた村はもっと小さかった。ここよりも北西に位置して湖の恩恵も乏しかったせいか、食べ物も少なかった。なのに、非人型異類に食料として襲われたのだ。いや、狩りの獲物として小さい群れは丁度良かったのかもしれない。
その時の恐怖は忘れられない。
あの胸がむかつく血の臭い、異類が出す粘液の酸っぱいような何かが溶ける気持ちの悪い臭い。巨大な昆虫のような黒光りする体が村人に覆いかぶさって強靭な顎で皮膚を突き破り、肉を咀嚼し、骨をかみ砕く音。
たまたま村はずれで木の実を集めていたリリトは助かった。そのまま怖くて駆けだした。村の人たちを助けることなど考えもつかなかった。考えもなしにしばらく走って、物音を立てたら追ってくるのではないか、と思い、慌てて、木の上に登った。
翼はなく、長い六本の脚を持つ異類だったのでその方が安全ではないかと思ったのだ。異類の姿を思い出した途端、同時にそれに襲われる村人の姿も思い出されて、自分の体を両手で抱きしめて震えた。ちょうど、拾い集めた木の実がある。トイレは仕方がないから木の枝で行う。一応、据わりの良い枝は滞在用にして、違う枝に移って済ませた。
そうやって一日、木の上にいた。降りた後に、村へは戻らなかった。
元々、両親を亡くして村長の家に下働きのようなことをして置いてもらっていた。肉親はいない。何より、あの惨状を再び見たくはなかった。もし戻ってまだ見知った人を食べている所を目の当りにしたら、という考えが沸き起こり、行こうとは思えなかった。
ゼナイドでも北に位置する村はそのために、厳しい暮らしを強いられると村人は事あるごとに言っていた。ならば、南を目指そう。村人はフェルナン湖の周辺は肥沃な土地だと言っていたことも思い出し、南東へと進んだ。
人間は怖い。異類と知られれば何をされるかわからないと村人たちは言っていた。国王の軍が異類の村に差し向けられたことがあって、村の子供たちは寝物語によく聞かされていた。
だから、できるだけ街道を外れて歩いた。リリトの種族は戦闘にはそう長けていないが、隠れることに関しては特殊能力を有していた。
春で良かった。冬ならとっくに死んでいただろう。
長い間歩き続けた。
ゾエ村でも物好きと言われるアシルはよく方々を旅などできたものだ。
この村に辿り着いてしばらくは悪夢にうなされた。でも、暖かい言葉を掛けてくれ、栄養豊富な食事を与えられ、何より仕事を任されて身体を動かすうち、十六歳の健康な体は睡眠を欲した。まだまだ身長も低く、めりはりのない体つきで、どうかするとロラに心配されるが、これからだ。
ここでようやく第二の人生が始まったのだから。
時折、今でも不意にあの時の臭いや音を思い出すことがある。初めの頃はその都度戻していた。今ではあの強烈さは薄れていっている。こうやって、徐々に時間が解決してくれるのだとロラが慰めて掛けてくれた言葉をよすがにした。
「済まない、俺がきっちり仕留めていれば」
「気にすんな。あいつら、逃げ足だけは早かったからな」
村の入り口から狩りから戻った者たちの賑やかな声がする。
ガエルとエヴラールの組で何かあったようだ。
ゾエの異類の一部は強力な特殊能力を持つ。手の甲に痣を持って生まれてくる子は、長じるにつれ、そちらの方の腕が大きく発達する。そして、その甲から生み出される強力な衝撃波で狩りを行うのだ。ただ、彼らは強力な武器があるのと引き換えにめっぽう視力が弱い。近視では射手は務まらない。そこで、彼らの一族は生き残るためにか、遠くまで見通し、音を聞き分け、気配に鋭い者を出現させた。
痣を持って生まれなかった者が小さいころから訓練することによって身に着けたのだ。そして、射手と二人一組バディとなり、文字通り、狙撃手の目となり耳となって獲物の位置を伝えるのだ。凄腕の者は死角さえないと言われるほどだ。
生きるために戦う。性別は関係ない。
だから、バディは夫婦となることが多かった。死と隣り合わせで戦い抜くうち、気持ちも寄りそうのだという。
バディは相性だ。命を託すのだから、ちょっとしたずれが大きな事故を産む。夫婦なら問題ないが、夫と異性のバディの場合、妻が嫉妬することもある。また、妻と異性のバディの場合も夫が焼きもちを妬くことがある。そして、バディが男女で組むとは限らない。
このペアであるバディには強い絆がある。
ロラ夫妻もバディである。
ギーが狙撃手だ。この村では妻がその役目をすることもあり、それは珍しい事ではなかった。
「どうした、何かあったのか?」
グェンダルが騒ぎを聞きつけて声を掛ける。
「いや、黒づくめのひらひらした服を着た奴らがいたから、捕まえて話を聞いてみようとしたんだけど」
「逃げられたのか。しかし、怪しいな」
グェンダルが腕組みをして唸る。
「だろう? 裾の長い服を着ていたわりには素早しっこくてさ」
エヴラールが良い年をして口を尖らせる。
「俺がエヴラールの声にもっと早く反応出来ていれば良かったんだが」
「仕方ないさあ、本当に速い動きだったんだぜ!」
「エヴラールは良く感知できたな」
「だろう?」
グェンダルの称賛に、本人よりもバディであるガエルが得意げに笑う。バディは大体においてこういった反応を見せる。そのうち、ガエルの妻であるクロティルドが飛んでくるだろう。
この村ではよく見られる一幕だ。
狩りから帰ってきた中にはベルナルダンとアシルの姿もあった。
「ただいま、リリト」
「お帰りなさい、ベルナルダン」
素早くベルナルダンの様子を目視で点検する。怪我はなさそうであることにこっそり息をつく。
「ははあ、リリトは心配性だなあ」
目ざといアシルがからかうのを無視して、ベルナルダンに告げる。
「カリーネが今日はシチューを作るって言っていたよ」
リリトはこのベルナルダンとカリーネ夫妻のところで世話になっているのだ。だからこそ、今日も無事に帰ってきてくれたことを嬉しく思う。
「やったね! あいつのシチューは美味いからな」
「料理上手な嫁さんで良いなあ」
狩りで相当腹が減っているのだろう、ベルナルダンが相好を崩すのに、アシルが本気で羨ましそうにする。
「あー、お前のお袋さんはあまり料理が得意じゃないからなあ。うちに来るか?」
「しょっちゅうご馳走になるわけにはいかないよ」
ベルナルダンは異能を持って生まれなかった。成人してしばらくしてから得たのだ。生来、異能を持たない者が長じて得ることは多くはないながらもままあることだ。
より正確に言うと、ゾエの血を引く者は皆多少の異能を持つが、その顕現が弱いと痣を持つに至らないのだそうだ。
ベルナルダンは異能の村に生まれたからには、やはりその力で狩りを行いたいと内心思っていた。
それが、ちょうどアシルが旅から戻って落ち着いた頃、痣持ちとなった。
折角の強い特殊能力もバディがいなくては使い物にならない。アシルがバディとなることを申し出て、壮年になってから訓練に明け暮れることとなった。異能だけでなくバディを得ることができるなど、思いもかけぬ僥倖であり、殊の外、アシルを大事に思っていることは傍目にもわかる。そして、水を得た魚で、活き活きと訓練や狩りに出かけていく夫の姿に、妻であるカリーネは喜んだ。夫婦そろってアシルには感謝しきりで彼を歓迎している。
旅をするうちに世事に長けたアシルは万事わきまえていて、夫婦げんかの種にはなりたくない、と遠慮をしている。
子供がいないからと言って仲睦まじい夫婦に割り込んだリリトよりもよほど。
ベルナルダン夫妻は先の理由から急に狩りに出ることになった夫の代わりに人手がほしくて、リリトが手伝ってくれるようになって、ちょうど良かったと言ってくれる。
この村で過ごし、バディというものを知り、羨ましかった。
唯一無二とまではいかないが、頼り頼られ、心から慕う相手に同じくらいの気持ちを向けられてみたい。
以前、この村にやって来た、異類だという冒険者のように。
グリフォンもドラゴンも彼を慕っていたし、彼も大事にしていた。
先日、再び訪れた際には相当取り乱していたが、あんなに心配してもらえる幻獣が羨ましかった。
彼が帰って行った後、村人が俺らのバディと一緒だなと言った。それならば、大切にしているのも当たり前だと得心していた。
彼のドラゴンはその後、快復しただろうか。こちらが心配になる程の様子だった。
「また、会えると良いな」
リリトのささやかな願いは叶う。だが、その時には心から喜ぶことはできなかった。そんな心理状態ではなかったのだ。
遠くに悲鳴が聞こえた。
物すごい音に、はっと目が覚める。音の前に上がった悲鳴が気になる。聞き間違いか夢でも見ていたのか、咄嗟に分からなかった。
素早く起き上がり、着替えて髪を後頭部で一つにまとめて括る。せめて女性らしく、と思って伸ばしかけの髪は何かあった時には邪魔になる。
焦っても靴の紐はしっかりと結ぶ。肝心な時に足を取られてはいけない。。
何かあった。
外から悲鳴や衝撃音がする。
まるで、村の中で狩りをしているみたいだ。リリトは狩りを遠目にしか見たことはないが、その迫力は凄まじかった。
ゾエ村の大太鼓を全て一所に集めてぴったりとタイミングを合わせて打ち据えたような、腹に響く音がする。
痣持ちである射手が衝撃波を放った時、伴う音だ。
この音自体で獲物を驚かせるという手法を取ることもある。恐慌に陥った獲物を追いこんだり、罠に誘い込んだりなどして狩る。体勢を崩すだけでも大きなアドバンテージとなる。
急いで身支度を済ませた後、窓の木枠を持ちあげる愚は犯さなかった。もし、外につながる個所が少しでも音を立てれば、近くに襲撃者がいた場合、引き寄せることになる。
リリトは部屋の扉のノブをゆっくり回す。蝶番の音がしないように、開ける時も時間を掛け、隙間から廊下を窺う。気配どころか、空気の揺らぎさえ感じない。意を決して暗い廊下に滑り出る。
床が軋むたびに心臓が飛び出そうになる。音が鳴らなくても鼓動が速い。しかし、そんなことは気にせずとも良かった。外は相当騒がしくなっている。
廊下の先、外へ続く出入口の扉が薄く開いている。近寄って、外の様子を窺う。
と、急に扉が大きく開いた。
「良かった、リリト、無事だったのか!」
「ベルナルダン! 何があったの?」
調子のよい常の陽気な雰囲気はそこになかった。目は血走り、汗と泥にまみれ、髪の毛が逆立ち、何とも言えない迫力があった。
「非人型異類が襲ってきた!」
寸でのところで悲鳴を上げるのを呑み込む。
「カリーネはどこ? 無事なの?」
不安に声が裏返りそうになる。
「っ、ああ、先に避難している。リリト、良く聞け。厨房のありったけの食料を持てるだけ持って、逃げろ!」
リリトはその時、ベルナルダンが言葉に詰まったのに気付いた。けれど、それを追求する心的余裕はなかった。
「ど、どこに?」
「村の外だ! 俺はもう行く! バディがいなくちゃ、役立たずだからな」
役立たず、という部分を吐き捨てるように言って、身を翻して家を出て行った。
アシルが旅から戻るまで、くすぶっていたことを思い出したのだろうか。
こんな時に?
カリーネは既に逃げたと言っていたが、どうしてリリトには声を掛けてくれなかったのだろうか。わざわざベルナルダンが戻ってくるくらいなら、最初から厨房から食料を持って逃げれば済むはずだ。
疑問は尽きないが、リリトは言われた通り、厨房で持って行けそうなパンや果物を袋に詰めて背負った。
その時、何故そう考えたのか。ふと、家畜小屋を覗いて行こうと思った。
それは自分の怠慢故だったのだ。でも、寝坊したというだけのちょっとした怠慢だ。日常にままあることだ。それが罪なのだろうか。こんな、世話になり慕っていた女性が無残に食い殺された亡骸を見せつけられる程の、重い罪なのだろうか。
カリーネは厩舎小屋でこと切れていた。胴体を裂かれ、内臓を食い破られていた。内臓というのは綺麗なピンク色だったり、濃い青紫色をしているのだということを、リリトは初めて知った。以前も嗅いだ濃い血の匂いがする。カリーネが横たわる大地は黒い染みで覆われていた。
前に住んでいた村が異類に襲われた時は遠目にしか見なかった。
二度も異類に襲われ、安住の地を奪われた。
リリトはこみ上げる吐き気をやり過ごしながら、埒もない事を考えていた。余計なことでも考えていないと、自分がどうにかなってしまいそうだった。震える指先を握り込む。
カリーネの傍には割れた卵の殻があった。
てらてらと体表を光らせた黒い斑点のある褐色の肌をした何かが落ちている。横っ面を村人の衝撃波にやられたのか、ごっそり削られている。大小のそれが点々と潰されていた。
一つだけ、形が辛うじて残っているものがあって、ゾエを襲った非人型異類の形が分かった。大人が何とか抱えられるような巨大なオタマジャクシに似ていた。
「あは……」
こんな時なのに笑えるのか。
カリーネはその手にスコップの柄を握っていた。
この村の女性はただのか弱い異類ではない。強力な異能がなくともそれは変わらなかった。カリーネはしっかりと反撃したのだ。
リリトは目元を拭った。自分も負けてはいられない。
カリーネはリリトはこの村の異類だと言ってくれたのだ。ならば、リリトも女性でもただのか弱い異類ではないと示さなければならない。
何としてでも生き延びる。
まずはそうしよう、と心に決める。
一度はできたのだ。二度目も必ず生き延びて見せる。
背嚢を背負いなおして、リリトは踵を返した。




