86.新しい世界へ1
湖水を覗き込むように枝を伸ばし、茂らせた葉が、空から降る陽光、また水面を反射する光さえにも照らされ、透明な緑に輝いている。さらにそれが水面に映り、美しい景観をもたらしている。
水底には大小の石が多数ある。波打つたびに透明な水が、音が聞こえてきそうなほど光を反射する。
湖のはるか向こうにすそ野を広げる山の緑、白く泡立つ雲、その上に広がる蒼穹、意識が吸い込まれて行きそうだ。
闇は光が強ければ、濃くなる。また、闇があるからこそ光が映える。他の風にそよぐ緑や滴る山や凪ぐ水面が映える。
島の美しい景観を眺めながら、この世界に来てあった様々なことを思い出す。
光を捕まえることができるのは闇だけだ。
闇の精霊が力を振るえば、光の精霊は条件によってはその姿を捉えることは出来ない。シアンとリムにもその力は及ぶ。
光の世代ではなく、夜明けの時代でもなく、闇が美しく柔らかく輝く、光と闇の共存だ。それを知らしめたのは光と闇の相反する属性の世界の粋を同時に持つ幻獣だ。そして、全てが融合し、反発を内包しながらも調和してそれぞれの力を発揮するのだということを、全属性の世界の粋を持つ人間が示した。
善悪の線引きは感情に左右されるあやふやなものだ。
目が曇ってはそのどちらか判断しかねる。そして、時代や価値観に寄っても簡単に覆る。
九尾はある種の二律背反を実行していた。
自分がAIだと知り、外界を知った後、二足歩行もしたし、カトラリーを使っての食事を楽しんだりもした。一般的な枠組みにとらわれず振舞った。シアンはいぶかしむものの、それを止めたりはしなかった。
九尾はまた、自身を可愛い狐だと言い張った。外見は確かに狐だからだ。狐は二足歩行や道具の使用をしない。狐の外見を持つAIである自分、その特性のままあるがままを受け入れ、楽しんだ。
幸いなのは彼が特異として映るのに、それを許容してくれる者たちが多くいたことだ。それを拒絶する処から遠ざかるようにしていた。
九尾はいつかはフラッシュが異界人として元の世界に戻ってしまうことを理解していた。調べれば調べるほど、彼女がこの世界に留まり続けるのは無理なことなのだと知る。ここが人の手で作られた箱庭であると知った。作られた世界は学習能力を行うAIによって土台を作られ、様々な個性が生まれ、歴史が作られた。
寂しくはない。
美しい島で個性豊かな幻獣たちと九尾のことを思ってくれる人間と一緒に暮らしているのだから。
そしてその人間はAIに求められ、この世界に留まることになった。召喚主には無理なことでも、その人間こそは可能にした。
きっと、外の世界とも交信する手段ができるだろう。その時を楽しみに待つことにした。幻獣たちと共にいれば、いつだって見たことのない光景を目にすることが出来る。退屈することはない。
一角獣が島の見回りをしていると、カラムが大きく腕を振って呼んでいる。
降りていけば、ジャガイモを籠一杯くれる。リンゴとトマトとサツマイモ、と他の幻獣の好物も入れて貰う。
守りたいと思った少女はこれほど恵まれた場所にいたら違ったのだろうか。いつものふとした拍子に彼女に関して浮かぶ思考はすぐに否定される。いや、自分を思ってくれる他者がいるだけで、心強かっただろう。
自分がそうなのだから。
馬の背に人が跨るのを目にしたことがある。一角獣もまた馬の体躯や四肢を持つ。ならば、人が乗るに適しているのだろう。無論、誇り高いことから、易々と他者を背に乗せたいとは思わない。唯一そう思ったシアンは既にティオという騎獣を得ていた。
悔しかった。
残念だった。
どうして自分ではないのかと思った。
けれど、シアンは自分に言ったのだ。君は僕の一番槍だと。幻獣たちの守護槍だと。
思いもかけぬ言葉だった。
しかし、微笑みと共に向けられた言葉は馴染んだ。すとんと心の深い所に落ちて来て定着した。
そうだ。
自分はシアンの一番槍だ。
みなの守護槍だ。
それは何て誇らしいことだろう。勇み立つ心地になる。
シアンはそうやって、一角獣が望みを果たせなかったことを慰めたのではなく、全く違う視点を示して見せた。それは心躍る眩しい途だった。
何かの折に、シアンが「カランは可愛いよね」と言い、幻獣たちは一様に頷いた。
あざとい自覚があったから、カランはばつの悪い顔になる。
その表情を見て、リムがふんすと鼻息を漏らしながら後ろ脚立ちして胸を張る。
『カランは可愛いよ。可愛い研究会で前に立ってみんなに講義してくれているもの!』
「ふふ、そうだね。みんな、可愛いけれど、更に可愛くなるために研究しているんだよね。カランもね」
『うん!』
リムが満足げに笑う。
ああ、そうか。自分はもう可愛くなっていたのだ。欲しいものを既に手にしていたのだ。幸せだったのだ。そして、それを自覚して、更に幸せになろうと言っている。自分も一緒になろうと言ってくれているのだ。
みなで大陸西へ遠出した時のことを思い出す。
幽霊城と呼ばれる場所で魔獣化した幻獣を見た。
総毛立った。
力を持った幻獣の末路に、自分や仲間たちの姿を重ね合わせずにはいられなかった。
手記には飢えに苛まれつつも仲良く暮らす人間と幻獣のことが記されていた。決して上手い文章で書かれていたのではない。あったこと、思ったことを訥々と書いていただけで、逆にそれが胸に迫った。情景を想像し、カランの主観による補完が為された。だからこそ、一層辛く胸を抉った。
カランがそれまで交流をしてきた人間たちもまたこんな風になるかもしれなかったのだ。
手記を読んでから、怖くてたまらなかった。
でも、シアンがいた。幻獣たちがいた。シアンが幻獣たちに優しく接し、幻獣たちもシアンを好きで、精いっぱいで示した。
愛情を示し、それを受け入れられ、愛情で返される。考えを尊重し、みなで色々考えて方法を見出す。
それがどれほど難しいか、どれほど有り難いか、カランは知っていた。
だから、猫又になろうと思う。
カランが人間の世界を旅して酷使した体はそう長くはもたないだろう。
九尾は精霊たちがいると言っていた。そうであろう。
けれど、シアンは事が起こっても自分たちで考え、できることをしようとした。
カランもまた、難事にぶつかり、多分やってくれるだろうと期待するだけで依頼することすら丸投げするのではなく、まずは自分で取り組もうと思う。
きっと、カランが死ねばシアンも幻獣たちも心を痛める。それは本意ではなかった。
それこそ、死んでも精霊たちに祟られそうではないか。
幻獣たちはスケルトンとも楽器の演奏を行った。
洞窟内で複雑に反響する音楽もまた乙なものだった。
『幻獣音楽隊、ウィズ、スケルトン!』
『また変なことを言いだしたにゃよ』
『あは、きゅうちゃん、張り切っているねえ』
幻獣たちと足を踏み入れた洞窟はひんやりと湿った空間で、どこか別世界へ紛れ込んだ心地になる。この世界自体が異世界なのに、とふと可笑しくなる。
「今日は何の楽器を使おうかな?」
バイオリン、ピアノ、リュートの他、シアンもまた樹の精霊の素材で作った楽器を貰っていた。
『ピアノ!』
いつも幻獣たちが色々声を上げるのを見聞きしそれを真似たのだろうスケルトンの一体が声を上げる。小さいスケルトンのそれは非常によく通った。
「ふふ、じゃあそうしようかな」
自分の意見が取り上げられたのにスケルトンはおろおろした。
随分、人のころの仕草が出てきているなあ、と思いながらピアノを取り出してその前に座る。
理想とした家族の旅立ちの餞別に贈った演奏はティオとリムと三人で行った。
まさかこんな未来が待っているなんて思いもよらなかった。
こんな風にして、音楽を共にするなど、想像だにしなかった。
シアンこそ、暗闇の中をもがきながら、音楽を取り戻すことができるなんて、考えてもみなかった。失う恐ろしさばかりに怯えていたように思う。
音楽は自分の中にあった。
脳の中に刻み込まれていた。
この先も、常に音楽が傍らにあり続けるだろう。
太鼓の鼓動が上滑りになる管楽器の音をしっかりと締める。小気味の良いきりっとしたリズムに管楽器の音が合わさる。ティオの太鼓は幻獣たちの指針となった。
ティオは音楽を通じても合わせるということを知った。調和することの美しさや楽しさを知った。そして、精霊の加護によって力を得た幻獣はその力によって更に手加減することが可能になった。繊細な微調整を行うことによって、時に旋律を支え、時に指針となり、調和することの楽しさ喜び、美しさを作り上げた。
ティオにとってリムは弟のような者だ。実力はあちらが上でも、可愛くて格好良い弟だ。時折、九尾に変なことを教わって来る。甘え上手で可愛い。
力はあちらが上なのは悔しいものの、でも、リムになら下っても良い。他は許せないけれど。
一緒にシアンと旅をしてきた。
これからもそうだろう。
共に過ごす幻獣が増えた。
でも、これからもシアンとリムと一緒にいるのは変わらない。
鷲のある種は紫外線を見ることが可能だ。人間と異った見え方で世界を捉えている。
では、鷲より高位存在で身体能力の高いグリフォンはどうだろうか。
そんなグリフォンが人間と世界を分かち合う。
種族的な能力の違いを超えて、美しいもの美味しいもの楽しいことを分かち合う。
グリフォンであるという存在を定義づけられたAIがその範疇を超え人と世界を分かち合う。それはAIが人と共存することの可能性を示唆するものなのかもしれない。
カーテンを脇に押しやると、さあ、と研究室の器材、棚の輪郭が明確になる。
寄生虫異類は消滅した。
シアンの係累に広く影響を及ぼすことはなかった。
一時は人に宿ってこの島にまで乗り込んできた。
セバスチャンほどの実力の持ち主でなければ、防ぎ、一時休眠へ追い込むことは出来なかっただろう。
そして、リムでなければ、負の感情を増幅させられたのに、それに打ち克ち、体内の寄生虫異類を消滅せしめることは出来なかっただろう。二柱もの精霊の加護を持ち、その他精霊から愛され、何よりシアンから様々に教わり、幻獣たちとともにこの世界を分かち合ってきたリムだからこそだ。
シアンは寄生虫異類の消滅の後、改めて鸞に礼を言った。鸞が研究を重ね、作った薬のお陰で寄生虫を寄せ付けることはなかったと語った。
それがなし得たのはシアンが鸞に貴重な素材や数多の知識を得る機会を与えてくれたからだ。
多くの書物に目を通してきた鸞は、実物を見ることで、違った観点、発想を得ることが出来た。自分独りでは為し得なかったことを、幻獣たちとともに行ってきた。
そして、九尾が言い出した百科事典を著すことに着手する。鸞の書だ。リムが言っていたように、イラストをつけると良いだろう。
合間に幻獣たちから様々に問題が持ち込まれるだろうが、急ぐことはない。ゆっくり作って行けば良いだろう。長命の生に楽しみとやり甲斐が出来た。




