8.ブラシ
光の滝に包まれ、ふっと一瞬全身を違う空気に掴まれた感触がする。直後に円筒が徐々に上部から消えていき、周囲を見渡すと、違う部屋にいた。
「ようこそ、トリスへ。何か御用はございますでしょうか?」
トリスの聖教司が声を掛けてくる。心なしか、気温も上がったような気がして、聖教司に断りを入れて、外套を脱ぐ。
そそくさと神殿を後にし、見慣れた街並みに、息をつく。
「戻ってきたねえ。一瞬だった」
シアンは何となく背伸びをして体をほぐし、ティオが周囲を見渡して確かにトリスにいることを確認する。
『ぼくが二日掛けて飛んだ距離を、一瞬だったね』
『すごいね! 光のカーテンみたいだった』
リムがやや興奮してシアンの周囲を飛び回る。
『みんな、転移陣は初めてなんですか?』
暮れなずむトリスの街を歩きながら、九尾が尋ねる。
「僕とリムはそうだね。ティオも初めて?」
夕方の忙しさにこちらに注意が集まらないことを良いことに、小声で尋ねる。トリスの街の人たちはシアンが幻獣たちと話せることを知っている者が多いが、念のためだ。
『うん』
『そうですか。転移陣酔いがなくて何よりです』
「転移陣酔いって何?」
初めて聞く言葉にシアンが聞き返す。
『乗り物酔いと同じようなものですよ。紋章陣に乗って空間を移動する際、身体の器官が拒否反応を起こすことがあるのです』
九尾は乗り物酔いをしたことがあるのか。
「気分が悪くなったりするの?」
『軽い症状であれば。重ければ、頭痛、身体の節々の痛み、倦怠感などの症状が出ます。あまりに酷い場合には寝込むこともあるとか』
ティオもリムも常と変わらぬ様子で、シアンは安堵する。
フラッシュ宅に向かう前にディーノの店に寄った。
「いらっしゃいませ。おや、ゼナイドへ向かわれたのでは?」
「こんばんは。先ほどコラに到着したので、一旦、戻ってきました」
「グリフォンはそんなに速く飛ぶんですか?」
美男な店主が垂れ目を見開く。
「すごいですよねえ。僕も後一日は掛かると思っていたんですけれど。ティオは日増しに強くなっている気がします」
そのティオは店の外でリムとともにシアンの帰りを待っているので、長話は避けたい。九尾は店内について来たが、ディーノは片眉を上げただけで、何も言わなかった。
「あの、ちょっとお願いしたいことがありまして」
「何でも承ります」
にこやかに答えるディーノに、スリングショットの材料を依頼する。
「これは何に用いるのかお伺いしても? もちろん、差し支えなければ、で構いませんが」
用途によって仕入れるものが変わってくるのかもしれないと思い、シアンはなるべく詳細を語る。
「なるほど。確かに、魔法や弓矢を用いない飛び道具としては有用なものですね。早速、材料となるものを集めます」
「お願いします。あと、ブラシが欲しいんですが、ありますか?」
「色々ございますよ。花帯の君がお使いですか?」
「いえ、僕ではなく、ティオとリムが使うものがほしいんです。それと、その呼び名はやめてくださいね」
リムが背中がかゆいと木の幹でこすり付けていたことを思い出し、ついでに購入することにする。
『リムを呼んできましょうか? 使う本人も現物を見て選びたいでしょう』
「あ、うん、そうだね。お願いしても良い?」
九尾が気を利かせて尋ねるのに頷いた。
外に出ていく白い狐を見送っていると、ディーノが呟いた。
「あの狐も幻獣なんですか?」
「そうです」
何となく、詳細は伏せておいた。現実世界ほど個人情報にうるさくない世界だが、ここにはいない召喚主などのことを説明するのも気が引ける。
『シアン、なあに?』
リムが入ってきて、シアンの肩に飛びつく。ディーノがその様子に薄い唇をほころばせる。
「リムとティオにブラシを買おうと思って。種類が沢山あったらリムに選んでもらおうかなと思って」
『ティオも呼ぶ?』
「ううん、ティオはちょっとお店に入れないから、僕とリムとで選ぼう」
『分かった!』
ディーノが一抱えもある箱の蓋を開いて中を見せてくれる。
ビロードが敷かれ、その上に大きさや形、毛の質の異なるブラシが並んでいる。
「どうぞ、実際試してみてください」
「いいんですか?」
「もちろんです。使い心地が良いものを選んでください」
見るからに高級そうなものから、普通に見えるものが並んでいるが、どれもしっかりした造りをしている。
『触ってもいいの?』
「どうぞ、ご自由に」
リムの質問に、ディーノが答える。
「リムの言葉がわかるんですか?」
ディーノが軽く眉をしかめ、しかし、すぐに手を胸に当て、一礼する。
「お世話をするのに、必要なことだと判断されましたのでその能力を授かりました」
誰の判断なのか。判断してすぐに他者に能力を授けることができるものなのか。疑問は尽きないが、聞くのが怖い。
『わ~、これは硬いね。こっちは柔らかーい』
リムが毛の部分を小さな前足で感触を確かめている。
「リム、気に入ったのがあったら、貸してみて。一度、ブラシをかけてみよう」
『じゃあ、これ!』
自分の顔よりも大きいブラシを軽々と掲げて見せる。得意げな顔に笑みを誘われる。
「ちょっと貸してくれる?」
『はい!』
リムに渡されたブラシは軽く、毛は硬いものと柔らかいものの中間のものだ。
「じゃあ、ブラシをかけてみるね」
そっと頭から首筋、背中へとブラシをかける。
「どう? 痛くない?」
『うん、気持ち良いよ!』
「どうぞ、他のも試してみてください」
勧められるままに色々試し、最初にリムが選んだものともっと小さいものを購入した。足や指の間など細かいところに用いる為だ。
ティオの分は見るだけで決めてしまおうと思ったが、ディーノが店の外にブラシを持ち出して試させてくれた。
ティオは初め、何をされるのかと警戒したが、シアンとリムがすることなので易々と受け容れ、使い心地の良いブラシを選んだ。シアンとリムが使うのでこちらも大小のブラシを購入する。
「いいのが見つかって良かったね」
『うん! ぼくのブラシとティオのブラシ!』
リムが満面の笑みを浮かべる。
九尾の分も購入しようとしたが、固辞された。
「ゼナイドはまだ寒いのでは? 外套はそれで大丈夫ですか? 襟巻や手袋はどうでしょうか?」
「大丈夫です。これからどんどん暖かくなるし」
精霊たちの力によって快適だ。周囲から浮かない程度の服装で十分だ。色々気遣ってくれるディーノに礼を言って、店を後にした。
「フラッシュさんたちは洞窟を無事に通り抜けられたかなあ?」
『異界人たちがこぞって向かっていますからな。役割分担さえきちんとすれば、そう時を掛けずに攻略できそうですが』
この世界をゲームと捉え、勝ち負けにこだわるプレイヤーがいれば、協力体制を取れないかもしれない。
「ザドクさんやフィルさんたちがいるし、大丈夫だよね?」
『トップクラスの者たちですから、心配ないでしょう』
以前、トリスが魔物の群れに襲われた際、共に戦ったプレイヤーの中でも力のある者たちと親しくしているフラッシュたちならば、という思いとは裏腹に、一抹の不安を拭えないでいた。ゼナイドへ入った途端、襲われた異類の存在があったからだ。
翌朝、トリスの神殿の転移陣を使用し、コラの神殿の転移陣へと転移した。
コラの街を歩いて回り、野菜を補充し、初めて見る食材を購入したり、黒くて歯ごたえのあるライ麦パンを買って食べたりなどした。
『ちょっと酸っぱいね』
「うん、本当だね」
人前で幻獣たちと話していても不審な目で見られない。これほど大きな街ならば、テイマーや召喚士の存在を知られているのだろう。それでも、ティオを見た街の人々は恐々といった態である。
『ライ麦のパンは膨らみにくいからサワー種を用いられている。それで酸味があるんだ』
「そうなんだ。英知も少し食べてみる?」
知識だけでなく、体験もしてほしくなって、パンをちぎって渡す。
素直に受け取って口にする。
「どう?」
『うん、独特の酸味がある』
「英知の言った通りでしょう?」
説明した本人に言うことではないのかもしれない、という思いで笑う。すると、風の精霊も笑い返す。
『あの捉えどころがないと言われる風の精霊の純真な笑顔!』
いつもの茶化した雰囲気ではなく、九尾が単純な驚嘆を滲ませる。
「捉えどころがないは何を考えているかわからないという意味合いが強いからなあ。英知の場合は束縛を嫌う、という感じかな」
『私も色々体験できて楽しいよ』
「それは良かった」
『無理やり付き合わせるなどできない存在ですからねえ』
今日は残念ながら、現実世界の予定があって、昼過ぎまでしかログインできない。
「一旦、トリスへ戻ろうか?」
『ぼくはこの辺りを見回ってついでに狩りをしてみたい』
『じゃあ、ぼくも!』
シアンの提案に、ティオが希望を告げ、リムが同行を申し出る。シアンはせっかくなのでコラの宿泊施設を利用してみることにした。
『きゅうちゃんは宿でまったりしたいです』
「幻獣だけで宿に泊まれるかな?」
シアンとは別の部屋になるが、そもそも幻獣のみで一部屋取れるものなのか。
『きゅうちゃんも一緒に行こうよ!』
『きゅうちゃん、シティボーイなんだけどお』
何だかんだ言いつつ、リムに誘われるままに九尾は街の外へ出るようだ。
「じゃあ、また、明日の朝、街の門のところで待ち合わせようね」
『分かった』
『はーい!』
『きゅうちゃんは罠をかけて、果報は寝て待てを実践します』
ティオが気負いない様子で頷き、リムはぴっと前脚を上げて返事をし、九尾は低燃費なことを言う。いつも通りということだ。
「皆、気を付けてね」
マジックバッグを預けて、三頭を見送った。




