89.反撃の狼煙6(女たちの心意気)
風が清々しい薫りを丘の上に運んできた。
ゼナイドの春は短い。それゆえか春惜しむという表現があるが、ユリアナは風薫るという言葉の方を好んだ。厳しい冬と夏の合間の僅かな時間などより、青葉若葉の瑞々しい生命力を感じる方が建設的ではないか。
「ああ、五月祭りの時期がまたやって来たのね」
不思議と、一昨年のアビトワ家の屋敷が火災に会った夏至よりも、五月祭りの方が感慨が深い。夏の到来を寿ぐ日だからだろうか。
消失した後に建てた屋敷はこぢんまりしたもので、ガラス窓を入れる予算などなかった。それどころか、借財が出来た。だが、ユリアナは割合気に入っていた。以前の館は威容はあったものの、陰気臭さは否めなかった。屋敷は失ったが、美しい丘は残った。
「お義姉様」
「タマラ、まさか、また来ましたの?」
義妹が現れ、ユリアナはさっと顔色を変えた。
「いいえ、そうではありません」
否定の言葉に、安堵の息を吐いた。
昨年秋に審問官がゼナイドの片隅のこの丘にまでやって来た。黒いローブを頭からすっぽりとかぶった者を帯同しており、ユリアナは動揺を隠せなかった。彼らは二年前の火災の少し前にこの丘や実家ブリズギナ家を嗅ぎまわっていたのだ。
嫌な予感は的中した。
非人型異類を飼っていたなど人道にもとると言う。どの口が言うか。
ユリアナは懸命に表情を取り繕った。しかし、マクシムは失敗した。慌てぶりが白状したも同じだった。元々、名家のしがらみに押しつぶされそうになっていた気の小さい人間だった。
抵抗虚しく、マクシムは連れて行かれた。
当主を失ったアビトワ家は相続く凶事に打ちのめされた。荒事を一手に引き受けていた上の村の村長を失い、後任が定まっていないことも悪い方へ作用した。あんなことがあってから、マクシムは次の村長に誰を据えるか、慎重すぎるほどで一年以上が経ってもまだ決まっていなかった。
屋敷を再建するための資金集めに奔走し、目途が立った矢先のことだった。
その手腕を認めたのか、マクシムはユリアナに後を託した。
当主の弟アルセンは異類審問官に怯え、今にも逃げ出しそうであったから、妥当な判断と言えよう。
ユリアナはまず真っ先に上の村の長を決めた。
目立たない壮年の男だが、堅実な者を選んだ。華やかさは必要としていない。
領地の守りを固めることと凶作に縁のない豊かな土地があるのだから、食料確保を最優先させた。ユリアナの方針に賛成してくれ、上の村は久々に活気づいた。
姑ダリアはだらしのない息子たちに呆れ、こんなご時世だからとユリアナの当主代行を手伝った。
義妹も何かするという。
「何なら、裕福な家に嫁いでも構いませんでしてよ」
多少の年の差、難ありの人物でも構わないと言う義妹に、人はこれほど変わることが出来るものなのかと内心感心した。
夢見がちで現実を知らない少女めいた義妹がアビトワ家再建のために、実に貴族的な考えをするようになった。
「お気持ちはとても嬉しいですわ。けれど、それはこの状況では悪手となりましょう」
「まあ、どうして?」
不思議そうにする姑と義妹に良く聞くように言う。
義弟は駄目だ。となると、万が一の時、つまり夫が戻ってこなかった際には、タマラが婿を取る必要が出て来ると。
「貴女はそれで良いのですか?」
珍しく姑がユリアナを気遣う言葉を掛ける。この人も変わったのだ。
人は変わることが出来る。
それを為すかどうかは当人次第だ。
ユリアナは姑に笑顔で答える。
「ええ。私はこの家を建て直すことを掲げています。そのために今までも色々尽くしてきた。あんなやつらに壊されてなるものですか」
その意気や善しと姑が頷いた。今初めてこの女性と同じ方向を向くことが出来た気がする。彼女もまた、長い間この家に捉われて来たのだ。だとしても、された仕打ちは忘れることも許すこともできないけれど。
ただ、姑はもっと酷いことより少しはましな方を選んだ。慣例に従い、上の村を従えるために領主の子、つまり、ユリアナの腹の子を儀式に要求されたがために堕胎薬を飲ませたのだ。惨いことになるよりは、ということだったのだろう。
「わたくしもまた、この家のために尽くしてきました。タマラ、貴女もしゃんとなさい。わたくしたちでこの家を守って行くのです」
火災以降、老いさらばえた感があった姑が以前の威厳を取り戻して背筋を伸ばす。
「分かりましたわ。ですが、お義姉様、もし婿を取っても、お義姉様はこの家にいてくださいますわよね」
「もちろんですとも。ユリアナはアビトワ家になくてはならない者です」
義妹の懇願混じりの問いかけに、ユリアナではなく姑が答えた。不意に目頭が熱くなる。ああ、ようやく認められた。自分はこの言葉が欲しかったのだ。
「わたくしも、やりますわ! きっと、立派な婿殿をお迎えして見せます」
「ええ。それと判らぬように、しっかりと手綱を取るのですよ」
「タマラの天真爛漫さなら、心配ないですわ」
女三人は逞しく笑い合ったものだ。
そうして、近々、タマラは婿を迎えることになっている。
五月祭りに合わせたのはせめて明るい最中に祝福を受けようというタマラの提案からだ。少女めいた考えはやはり健在なのだなと少し可笑しく思うも、案外、その考えは良いもののように思われた。姑も異論はなく、恙なく準備は進んでいる。
マクシムは連行されて半年近くが経つが、頼りはない。怯えて部屋に籠っていたアルセンは、冬も終わりを迎えようとするある日にようやっと出て来て、ユリアナに自分と結婚して当主夫妻となろうと提案した。考えるまでもなく一蹴すると、あれほど無碍に扱われてきたのに何故と問われて鼻で笑った。
「全てはアビトワ家のためですわ」
なのに、当主の弟であるお前は何をしているのか。
「わたくしは当主に代行を仰せつかりました」
その任を全うすべく日々努力している。部屋に籠って鬱屈としている暇はない。
「でも、その当主は戻ってこない」
「ええ、ですから、タマラの婿取りのお話が進んでいますのよ」
「そんなの、聞いていないぞ!」
目を剥くアルセンに本気で言っているのかとユリアナの方が驚いた。
「貴方は今の今までずっと部屋からお出にならなかったではありませんの」
痛いところを突かれたとばかりに口を噤む。
「第一、まだマクシムは戻ってこないとは限りません。わたくしと彼はまだ夫婦なのです。貴方と結婚することはできませんわ」
ユリアナに手ひどく拒絶され、繊細な心の持ち主である義弟は出奔した。形ばかりは人を使って探させた。すぐさま下の村で若い女性とよろしくやっているという報告を受け、探すまでもなかったと呆れた。
ユリアナは当主代行として領地を治め、義妹の婚儀を進めつつ、当主の行方を追っていた。様々に集まる情報から、義弟にああは言ったものの、もう夫は失われているかもしれないと心の折り合いをつける方に転じつつあった。様々なことがあり、心底愛想をつかしていた夫ではあったが、永遠の別れを迎えるとあっては平静ではいられない。
同時に、良いようにされたままでなるものかと一矢報いることを考えていた。
実家であるブリズギナ家は薬草の取り扱いに長けており、長子として様々に教え込まれていた。そして、上の村の村人たちは荒事を得意としてきた。
懸命に日々を生きている者たちを安易に踏みつぶそうとして、やられっぱなしでいると思う方が浅はかなのだ。
反撃の狼煙は各地で上がりつつあった。けれど、決定打には到らない。




