82.力なき者の勇気2
と、ばさりと布がはためく音がする。
「な、何だ、お前! 妙な恰好をしやがって!」
いじめっ子の声に、何がどうしたんだと思わず瞼を開く。
黒い布が立っていた。いや、正確には頭から布を被った者が立っていた。長い裾から足が覗く。ご丁寧にズボンも靴も黒い。
「そこを退け! お前に用はない!」
「子供が一丁前の口を」
低い声にびくりと身を震わせたいじめっ子はそれでも石を投げつけた。
軽い音を立てて短剣で弾く。
「ちっ」
武器が出て来たことでいじめっ子は舌打ちをしつつ踵を返して逃げ出した。
彼も悠長に一連の出来事を観察していたのではない。
黒い布の者がいじめっ子に声を掛けた辺りから起き上がって音を立てないようにじりじりと後退していた。
いじめっ子が駆け出すと同時に彼は反対側へ走った。
懸命に足を動かした。
得体の知れないあいつが追いかけてくるのではないかと走り続け、危うく角を曲がり損ねて壁に抱き着くようにして急停止し、荒い息を吐く。心臓が爆発しそうな勢いで動いている。
「坊主、どうした。盗み食いでもして追いかけられたのか?」
「ち、ちが……」
「よしよし、慌てて喋らなくても良いぞ。そら、これを飲め。ゆっくりな」
両親よりも年上の男が差し出した水筒を受け取り飲み下すと、甘酸っぱい味がする。身体に染みわたるような美味しさに喉を鳴らして飲み干した。全て飲み切ってしまってから、他人のものをとばつが悪い気持ちになる。
「ああ、気にしなくてもいいぞ」
にやりと笑いながら水筒を受け取る男におずおずと礼を言う。
「頬を怪我しているな。あんたがやったのか?」
言いながら、男は滑るような動きで体勢を変え、彼を背に庇うような恰好となった。その時、先ほどの黒い布を被った者がすぐそこに立っていることに気づいた。
「同じ背格好の子供に追いかけられていたからそっちだろう」
「いや、まさかとは思ったが、あんたとまた会うとはな」
「それはこっちの台詞だ」
男は黒い布を被った者と知り合いであるようだった。
「こんなところで子供にかまけていて良いのか?」
「良くはないな。じゃあ、その子は兄さんに任せる」
言って、身軽に飛び上がり、幾度も壁を蹴りながら上へ上へと上がって行き、ついには屋根の上に飛び乗った。
「すごい」
「あんな裾の長い格好をしていて、よく踏まないもんだよな?」
その物言いがおかしくて吹き出した。
「それで、坊主は友だちから逃げていたのか?」
「ううん、異類審問官がいる建物の前にいたら、密告するのかって石を投げて来て」
うっかり本当のことを喋ってしまって、はたと口を噤む。
この男が密告する相手を探していたら。
彼の口から両親のことを聞き出して、自分が助かるためにこれ幸いと密告するかもしれない。
優しい親だった。異能を持たないことからいじめられる彼を見捨てず、今もこうして体を張って助けてくれようとした。本当の子供ではないのに、姉の忘れ形見だからと言って。叔母に至っては血が繋がっていない。
情けない自分はそんな気持ちを汲み取って有効活用することすらできないのだ。
「ああ、ああ、泣くな泣くな。心配しなくても、俺は幻獣のしもべ団の一員だ。知っているか? 翼の冒険者の支援団体だ」
「翼の冒険者! グリフォンやドラゴンの?」
男をまじまじと見つめた。涙が引っ込んだことにも気づかない。
幻獣を連れた冒険者の噂は村にも届いていた。あちこちで魔獣を討伐して、被害に悩まされていた村でその肉を食べ、音楽を楽しむのだそうだ。自分の村にも来ないかなと両親と話し合った。グリフォンを一目見たい、魔獣の肉を食べてみたいと思った。
「それで、坊主は何でまた異類審問官の下へ行こうとしたんだ?」
彼は両親のことを話すのを躊躇った。翼の冒険者の支援団体に所属しているなどが男の嘘であったならば、両親をみすみす危険に晒すことになる。
「石を投げた子を密告するために行ったんじゃないとしたら、ああ、坊主の両親にそうしろと言われたのか?」
男は正解を導き出した。
途端に、不安でいっぱいだった彼の心は飽和状態となり、引っ込んだはずの涙が零れ落ちた。
言い当てた男がこんな子供になんて惨いことをさせるんだと呟きながら、彼の顔を拭ってくれた。
「まだ、他の奴らにばれていないんだろう? なら猶予はある。坊主、良く聞け。翼の冒険者は異能保持者に避難場所を用意している。ここから大分南へ行くが、物資は十全にある。開墾しなくてはならないから、仕事もたっぷりある。子供に親を売らせなければならないような場所にしがみつくことはない。何なら、事が終息したら戻ってくれば良い。子供にとんでもないトラウマを植え付けるよりかはましだ」
彼は泣いたことで回らなくなった思考でもって、懸命に男の言葉に耳を傾けた。
「良いか、坊主、父さん母さんと別れたくないのだったら、両親を説得しろ。自分に両親を殺させる最後の一押しをさせるのかって言ってやれ。そんなことをさせるくらいなら、逃げて泥を啜ってでも生き延びて新天地で新しい生活を始めろってな」
そんなことを言ってくれる者は誰もいなかった。
彼は両親を説得したら連れて来いと言われた水の神殿へと向かった。もちろん、三人でだ。
男と別れて急きながら家へ戻り、両親に男に言われたことを話すと、翼の冒険者ならば、と乗り気になった。息子に親殺しの罪を負わせるなという言葉には顔色を変えた。母親はともかく、父親が泣く姿など初めて見て、男がそうやってくれたように、彼は父親を胸に抱えて頭を撫でてやった。
水の神殿では男が待ち構えていた。
彼を見つけるとにやりと笑った。
挨拶を交わした両親にまず彼の勇敢さを褒めてくれ、家族三人で顔を見合わせて照れ笑いをする。家族みんなでそうすることができて、彼はまた涙が込み上げて来て堪えた。
両親と様々に話した男は彼と彼の両親を伴ってその足で村に向かい、村人たちに移住を呼びかけた。
驚いたことに、村を出て方々に散ったはずの村人たちの多くが戻って来ていた。彼と彼の両親たちと同じく、閉塞感に苛まれる生活に耐えきれなかったのだそうだ。
村人たちは余所者に過敏に反応した。胡乱気に見、男こそが異類審問官ではないのか、新手の詐欺師かと罵った。
「お前が異類審問官ではない証拠は何だ!」
その中には彼が親しくしていた老人もいた。
出会った当初から彼に優しくしてくれた男が非難され、心臓をぎゅっと掴まれた心地になる。
それでも。
男が褒めてくれたように、自分は勇敢なのだと言い聞かせる。
彼は男の隣に立ち、声を張る。
もう嫌なのだと。誰かが誰かを告げ口して自分だけ助かるのではないか。そんな疑心暗鬼は嫌だ。自分は助け合って生きて行きたい。
両親は自分を生き残らせるために自分たちを密告するように言った。
でも、そんな風にしてまで生き残って何になると言うのか。そんな重い罪悪感を死ぬまで背負うほどの悪いことを自分たちはしてきたのか。
彼は泣きながら、支離滅裂になりながらも何とかそんな内容のことを語った。
整然と語られるよりもよほどその言葉は村人たちの心に届いた。
村人たちも思い知らされていた。
生きることは辛く惨く、グロテスクだ。
こんなにも、こんなにも。
「おじさん、僕には異能はないけれど、一緒に連れていって。お父さんとお母さんと一緒にいたい。新しい土地で新しい生活をするんだ。僕は二度もお父さんとお母さんを失いたくないんだ」
「ああ、いいぜ」
男はにやりと笑って彼の頭を撫でる。
本当に強い子だと呟くのがあながち世辞には聞こえず、面映ゆげに歯を見せて笑う。
その笑顔を見て、まず、老人が動いた。
異能がないことからいじめっ子にいいだけいじめられ、いじけて老人たちの中にやって来た子だった。
仕方がないと受け容れ、様々に話してやった。老人たちの話にうんうんと熱心に聞いてくれた優しさの持ち主だ。
頼りないとばかり思い、だからこそ守られるべき存在だと思っていた子がこれほどの勇気を見せた。そして、彼の言う通り、誰だって自分が助かりたいが、そのために他人を犠牲にして平然としていられるものではない。
助かるのならみんな一緒に。それができるのなら、どれだけ良いだろう。
「では、我々も。子供と一緒に逃げられるのならそれに越したことはない。こんな老人がいては足手まといになるかね」
「いや、そこは大丈夫だ。歩けなくなったら馬車や荷車を使う」
「そりゃあ、豪儀だ」
冗談だと思っていたが、本当だった。
翼の冒険者からそれらを贖う金銭を十全に預かっているのだという。
見ず知らずの者のためにここまでしてくれるのか。
幻獣のしもべ団団員は言った。
「恩義に思うのなら、行った先で幸せになれ。精いっぱいで生きろ。そうして築き上げたものを翼の冒険者が目にすることがあったら、きっと喜ぶだろうぜ」
移り住んだ先で様々な地方の者が交流し、新たな文化が花開けばそれを喜ぶだろうという。生きるには食料が必要だ。けれど、人が人らしく尊厳を持つには文化が必要だ。
彼らは上位属性の神殿による大いなる力に良いようにされるしかなかった。どれほど抗っても自分たちを悪だと決めつけて処断する。
そんな中、救いを求めた。心のよりどころを欲した。
そして、立ち上がるための旗印を必要とした。
生き延びることで精いっぱいの者たちに、翼の冒険者はその先を示して見せた。




