80.貴婦人の没落
腰を落とす侍女の言に腹を立てたイヴォンヌは侯爵夫人らしからぬ荒い動作で持っていた扇子を投げつけた。替えたばかりの新しい扇子で、特段気に入っている訳ではなかったので破損しても構わなかった。
暴力に腰を抜かした侍女はその場に這いつくばる。
主人の機嫌一つとることが出来ずにちょっとしたことで無様を晒すのに、一層いら立ちが募る。
「アリゼはどこにいるのっ。早く呼んできて頂戴と何度言ったらわかるのっ!」
憤慨して立ち上がり、ドレスの裾を捌いて部屋の中を歩き回る。
美しく整えられた居心地の良い空間も今はむなしかった。
イヴォンヌは追い詰められていた。
宮廷で常春とばかりに権勢をふるっていたのが、一転、みなが掌を返すようになった。
国王がイヴォンヌにしばらくの間、領地へ帰るように勧めたからだ。
表向きは異類排除令が激化し貴光教総本山の神殿を擁するキヴィハルユにも不穏な空気が漂い始めたからという御達しだった。
イヴォンヌは陛下の優しいお心遣いに感謝し、涙ぐんで見せる他、取る術はなかった。
宮中の者たちは国王が新しく迎えた愛人に取り入るのに必死で、ルーサー夫人のことなど忘れ去ってしまったかのようだった。
イヴォンヌとしてはこの不穏な重苦しい情勢の中、恋人と領地に引っ込んで慎ましくも穏やかに過ごし、ほとぼりが冷めたころに宮殿へ舞い戻って来るのも良いかもしれないと目算を立てた。どうせ少しばかり見た目が良いことの他は若さしか取り柄のない頭の軽い女性を恋人にしたのだろう。難局に直面すれば役に立たないどころか足を引っ張るだけで、辟易したところへ颯爽と姿を現したイヴォンヌが宮中の慌てふためく貴族たちを纏め上げ、一丸となって乗り切る、そんな夢想をした。
けれど、宮廷に与えられた私室で領地に向かう準備を侍女に指示してさせていると、侍従がやって来て近日中にこの部屋を明け渡すように、ついては私物は全て持ち去るようにと告げた。
国王が荷造りの手伝いを寄越したのかと思いきや、出て行けと言わんばかりの様子に訝しむ。
イヴォンヌが機知に富んだ話術で聞き出したところ、この部屋は新しい愛人に与えられると言うのだ。
そんなことが許されてなるものか。
イヴォンヌは戻って来るつもりであるし、その時に滞在する部屋がなくなってしまう。
国王と直に話をさせてくれと憐みを誘うように懇願したが、侍従は告げるだけ告げると足早に去って行った。
ルーサー侯がやって来たのはその日の夜のことだ。
「貴女はやり過ぎた」
国王に言い含められているから離縁はしないが、領地に戻っても今までのような好き勝手をすることはできないと言われた。
「何故ですの。わたくしは貴方のために国王陛下に誠心誠意お仕えし、結果、ルーサー家に富と名誉をもたらしました。こんな仕打ちをされるいわれはございませんわ」
もはや侍従にしたように縋ることはイヴォンヌのプライドが許さなかった。懇願も聞き入れられるからこそ行うのであって、捨て置かれるのであれば、何故相手を立てなければならないのだ。
踵を返した夫は肩越しに顔を振り向かせた。今まで見たことがない冷たい表情だった。
「国王が離縁を許さないのは貴族の妻という地位を失った貴女が舞い戻り、宮中をめちゃくちゃにしようとすることを懸念されているからだ。くれぐれも、軽々しい行動は慎むように」
あまりの言葉に持っていた扇子をへし折ってしまった。レースをふんだんにあしらった高名な職人による気に入りのものだった。惜しいことをした。
それほどまでの怒りを感じたのだ。
言うに事を欠いて、軽々しい行動。
「陛下もルーサー侯もこのわたくしを誰だとお思いなのか」
イヴォンヌ・ルーサーだ。
美しく、機知並ぶことない、宮中の理知の花と称された自分に何という仕打ちをするのだろうか。
怒り心頭のイヴォンヌはこの恨みはらさでおくべきかとお抱えの薬師を呼んだ。年若い薬師は前夫の時も上手く始末をつけてくれた。何より、イヴォンヌの心情をよく理解し、欲しい言葉をくれるのだ。
確か、そうだ、アリゼだ。
彼女さえ傍にいて慰めてくれればこのやるせない気持ちも慰められることだろう。
しかし、侍女はアリゼは流行り病の薬やその他の薬を作成するので忙しいと言う。
「まあ、わたくしの気持ちを宥めることよりも大切なことなど、滅多にありませんことよ」
イヴォンヌは心底驚いた。
誰もかれも何を置いても自分の言うことに従うべきだと思っていたのだ。
今までもそうだったのだ。これからも相違あるまい。
幾度も侍女を使いに出させ、その都度、追い返されて戻って来た。役立たずを詰れば泣きぬれて暇乞いをする。今までがそうだったように権勢をふるうイヴォンヌのおこぼれに預かろうと侍女になりたがる者は多くいる。そう思い、子供の使いすら果たせないのであれば不要だと鷹揚に受け入れた。他の貴族の下でならのんびりと仕えることができるだろうと優しい言葉さえかけてやった。
ところが、近ごろ目に見えて侍女の数が減り、イヴォンヌの世話が滞り始めた。茶を淹れる者も衣服を美しく整える者も、髪をくしけずる者も同じ侍女だ。今までは顔を覚えることすらできないほど多くの者がイヴォンヌの世話を焼いた。
「あら、貴女、気が利かないわねえ。このドレスでしたら、髪飾りはそれじゃない方が良いわ。髪を結うのが得意な者はもっと他にいたと思うのだけれど、どこにいるのかしら」
「暇乞いをして出て行きました」
「まあ……。でしたら、他の者は? ほら、ドレスを選ぶ者。あの者はわたくしの心が読めるのではないかというくらい、その時々に合わせて持ってまいりましたわ」
「その者もお暇を頂きました」
「そうでしたかしら? 他の者は? いない? 誰が許したというの?」
「奥様が許可されました」
覚えている限りでは、十指に満たない。だからこそ、イヴォンヌも気に留めずにいられたのだ。侍女など十も二十もいて当たり前で、辞めたのなら新しく雇い入れれば良い。
「まあ、良いでしょう。それで? アリゼはまだ来ないの?」
壁際に控える侍女たちは示し合わせたように俯いた。
少しでも違った動きをして女主人に目をつけられては敵わぬという風情である。まるで自分が自儘を言って困らせているか、もしくは使用人を虐待する悪徳主人のようではないか。
そんなやり取りをしているうちはまだましだったのだ。
アリゼを繰り返し呼び出しつつ、慰めを求めて他の貴族や恋人にも声を掛けた。
しかし、応じる者は一人もいなかった。
何かと理由をつけて断る者はまだ良い。
恋人などなしのつぶてで、返事さえない。
まるで、関わり合いになれば自分の立場も危うくなるという態度だ。
怒りに身を震わせながら、賢明な彼女は頭のどこかで、自分の立場も危うくなるということは、イヴォンヌの立場は既に危ういのではないかという考えが閃いた。
今まで目を掛けてやった貴族たちに片っ端から手紙を送りつけ、流麗な文字で誘い文句を綴った。恋人にも二通か三通送ったが、返事を寄越さない者に縋るほど落ちぶれる気はなかった。アリゼにも書いた。こちらには丁寧な筆跡で現状忙しく、死を免れる薬を求める者を救うために寝る間も惜しんでいること、イヴォンヌの意に沿えないことを大変申し訳なく思っていることが書かれていた。
これほどまでに丁寧かつイヴォンヌの心情を慮る返事はアリゼのみだった。
それがいけなかった。
他の者たちにことごとく、表面上は儀礼的に、その実、冷たい仕打ちをされていたイヴォンヌは気遣いに飛びついた。渇いていた者がさらに水を求めるように、イヴォンヌは一層の心遣いを要求した。
それに、貴族たちよりもアリゼの方が使える。
自分の立場が危ういのであれば、いっそ巻き込んでしまえと思った。ならば、助かるために必死でもがき、突破口を見出そうとするだろう。イヴォンヌは便乗すれば良いのだ。汗をかいて働くのは庶民の義務だ。貴族である自分があくせくと働く必要はない。受ける権利だけを享受しておけば良いのだ。
そう思って毎日のように侍女を遣わした。
今では門前払いをされると泣く侍女に、役立たずの烙印と共に扇子を投げつけた。
進退窮まったイヴォンヌは起死回生の一手に出た。
人目を忍んで貧民街へ遣いを出し、裏口から招じ入れたならず者にアリゼを脅すように依頼した。
「わたくしの召喚を何度となく断る不届き者でしてよ」
「へえ。そりゃあ、ふてえ輩だ。それで? ひっ捕らえてここへ連れて来りゃあ良いんですね」
「暴れて抵抗したらどうします?」
「へっへっへ、俺たちゃあどうでも良いですがね。奥様は人目を引いたら困るんじゃないでしょうかねえ」
汚らしい身なりで饐えた臭いをまき散らし、髪はべっとりとしていて、目だけがぎらぎらしている男たちと同じ部屋にいることすら厭わしいのに、あれこれと言って来るのに煩わし気に手を振った。
「その時は殺してしまってちょうだい。わたくしを裏切った報いは受けて貰うわ」
「へへえ、そりゃあ、奥様、随分豪儀な話ですねえ」
「しかしねえ、貴光教の薬師様をやろうってのはそうそうできないことですよ」
「呑気にそこいらをうろついている連中をやろうってのとは大違いです」
「では、できないと仰るの?」
「いえいえ、俺たちも折角こうやって奥様から直々にお呼び立ていただいたのに、そんな滅相もない」
「やりますとも、はい」
「ただ、こういう難しいことになると、その、こっちの方も目いっぱいいただかないとねえ」
言って、更なる金銭を要求した。
早く引き受けさせて部屋から追い払いたかったイヴォンヌは言われるままに金貨を積み上げた。
ほくほくとした表情でならず者たちが出て行った後、イヴォンヌは侍女に命じて窓を開けさせ、念入りに掃除をさせた。
自分を見捨てた者を裏切りとして殺そうとするのはやりすぎだが、正常な精神状態ではない。イヴォンヌは自分を裏切るものには死を、と本気で信じていた。
ならず者たちは前金を持ってその足でキヴィハルユを出ていれば命は助かっただろう。しかし、彼らは貴光教内部に侵入した後、目ぼしいものを盗んで売り払おうとした。そして、適当にそこいらの女を殺害して、その血をつけた衣服を持ち帰り、イヴォンヌから更に金銭を引き出そうとした。
つまり、欲をかいたのである。
彼らはついぞイヴォンヌの下に現れなかった。
あの鼻の曲がる臭いを再び嗅がずに済んでいるので見て見ぬふりをしていたいところだが、彼らに言われるがままに渡した大金が今更ながらに惜しい。
国王や侯爵から入って来る金貨がなくなったのだ。
侍女たちも出て行く際にこれまでの給金だとばかりにあれこれ持ち出したようだ。
もうこれまでか、とイヴォンヌは領地に戻ることを検討し始めた時、それを耳にした。
彼女がおぞましい儀式を行っていたという噂で、聞いた時には卒倒せんばかりだった。
ありもしない「真実」を暴き立てられ、それが事実だと白日の下に晒され、彼女は完全に全てを失った。国王の愛も、宮廷での地位も、貴族の妻の座も。
アリゼは命の危険を乗り越えた。
そして、その手にはしっかりと切り札が握られていた。
これのためにどれだけのものを飲み込んできたか。
けれど、これがあの人を守る壁となる。
アリゼは微笑んだ。それは黒装束を身に纏う前、祖母と暮らしていた時に浮かべていたあどけない表情だった。




