54.不帰1
闇の神殿は長らく沈黙の中に沈んでいる。
残る上位属性の光の神殿はどの属性よりも最も力ある宗教団体だと目されていた。
その貴光教が異類排除の宣言をし、執った強硬手段は猖獗を極めた。
同時に、黒いローブを頭から被った者たちが、異類逮捕の実働部隊として表舞台に現れ始める。異様な風体は目を引き、逮捕連行の強制によって人の口に上るようになった。
クリエンサーリは歴史の長い強国アルムフェルトと上位属性の宗教の総本山であるハルメトヤに挟まれ、常に緊迫を強いられていた。
先だって、アルムフェルトでも権を誇るフィロワ侯の働きにより、同盟を結んだことにより、趨勢は決まった。
不安定な情勢で国の方針が決まったことは大きい。異類排除令という偏った発令に反発する向きがあったことからも、アルムフェルトとの同盟は概ね好意的に迎えられた。
そのクリエンサーリの国都で工房を営むその親方は頼りになると評判だった。
徒弟を無暗に殴ったり怒鳴ったりすることなく、そこそこ腕も良い。幾代か続く工房で、前の親方が子供に恵まれなかったため、腕の良い職人が跡を継いだ。
「お前ら、気を付けろよ! 壊した物は直しゃいいが、人間はすぐに治らないんだからな!」
下の者は消耗品だという認識が浸透する中、常にそう言う親方の下で働くことができるのは幸いだ。
だから、この工房で働きたいと願う者は多かった。
高い倍率を潜り抜けて務めることができた彼はそれだけに目端が利いた。
その彼、自慢の甥は楽しそうに働いていたが、最近、思い悩む風情が多々見受けられ、商人の妻は食事に招いて訳を尋ねてみた。
「いや、見間違いかもしれないんだけれど」
ためらいつつも話した内容は俄かに信じがたいものだった。
過日、甥は先輩の徒弟に嫌がらせされ、大量の雑用を任されてへとへとになっていた。
「つまんないことをしてくるんだよ。俺がちょっとばかり色々うまくすることができるからってさ、嫉妬するなんてみっともないよな」
唇を尖らせる甥に、内心、そういった軋轢をうまく躱すことができないなんてまだまだね、と思いつつ先を促す。商人は笑顔で相手に無理難題を飲ませることが肝要だ。夫の手法を隣で見て来た彼女からしてみれば、仕事ができることをひけらかしているうちはひよっこである。
甥が話すには、物置に掃除道具を直しに行った際、視界の端に何かが映った。その時、下手に動くことなくじっと息を潜めていたというのに、目端が利くだけあると感心する。
「まあ、疲れ果てていてちょっと休憩したいって思っていたところでさ。壁に凭れて一息ついていたところだったんだ。で、目を凝らしていたら、黒い布の塊が動いていてさ」
疲労困憊で声も出ないところだったので、ちょうど良かったという。
それは黒い布を頭から被った人間であったと甥は青ざめる。
「それを俺の目の前で取り払ったんだよ」
唇を舐めながらしきりに水を飲む。
「でさ、それが、その」
「親方さんだったのね」
食事を摂った後、甥は初め、親方が、黒いので、と支離滅裂なことを言うので、落ち着かせて事の次第を順々に聞いた。そして、冒頭に戻る、である。
言いにくそうにする甥に代わって言えば、ほっとした表情になる。
商人の妻はまだ年若いものの、家族ぐるみで付き合う商談相手と接することもある。無理難題を笑顔で通す夫の隣で、こちらも柔和な表情でそれが当然の事なのだと錯覚させることに一役買うこともある。
そんな腹の据わった叔母を、甥も頼っている。だからこそ、抱える秘密を打ち明けたのだろう。
生意気でも可愛い甥だ。
「親方さんは見られたことに関して気づいた素振りはないのね?」
「うん。いつも通りだよ」
「そう。では、貴方はそのまま何事もなかったように振る舞いなさいな」
「うん、でも……」
甥の逡巡も分かる。その黒い布を被った者は今、巷で噂される異類審問官の護衛官だ。異類排除令は陰惨極まると聞く。
尊敬する親方がそんなことに手を貸しているかもしれないということは相当なショックを甥に与えたのだろう。
「余計なことは考えないのよ。折角、希望した工房で働くことができているんでしょう?」
けれど、結局はそういうことなのだ。人間、知らなければ上手くやっていくことができることがどれほど多いことか。
怪しげな風体の彼らには不穏な噂が付きまとう。武力に頼んで強硬な行動に出るというものだ。そんな者にかかわるとろくなことにはならない。
聡い甥も最後には頷き、案外すっきりした顔で帰って行った。
それが生きた甥の顔を見た最後だった。
甥は路上で冷たくなって発見された。
何て陳腐な言葉だろう。
ありふれたことだろうと、残された肉親にはとんでもない悲しみをもたらす。
商人の妻には悲嘆に暮れる余裕を与えられなかった。
拒否すれば夫の商売どころか身が危ういという内容の脅しと共に、一人で来いという呼び出しを受けた。
驚き怯え、部屋の中を意味もなく歩き回った後、そんなことをしている猶予はないと腹を括る。呼び出したのは甥が目撃した黒い布の男、つまりは親方かその縁の者だと予測する。となると、甥も殺された可能性が高い。恐らく、つい誰かに漏らしてしまったのだろう。
どこをどうやって調べられたのか、甥が訪ねて来て長く話し込んでいったと聞き、彼女がどこまで知っているのか確認する腹積もりなのだろう。なんて徹底していることか。
指示通り一人で出かけていくのは殺してくれというのと同義だ。
では、どうするか。
打ち明ければ夫も苦境に立たせることになる。さりとて、放っておけば、いつ自分も甥と同じ末路を辿るとも分からない。
呼び出しに乗じて黒い男らを一網打尽にするか、できなくとも痛い目に合わせて手を引かせることはできないかと考えた。
商人の妻は起死回生の策を懸命に模索した。




