53.薬師の暗躍
天井から吊り下げられた豪奢な装飾のシャンデリアには無数の蝋燭が灯されていた。
松明や粗末な蝋燭では悪臭が出る。広間では上等な素材で作られた蝋燭が何十本も使われていた。
外の暗さとは相反して、煌々と灯された灯りが室内の金の額縁に囲まれた絵画やまろやかな曲線を持つ陶磁器や細緻な細工が施された小物、それら美術品が鎮座する台さえも美しい装飾が施されていた。
肉や調味料がふんだんに使われた料理が有り余るほど盛り付けられ、集まった者たちは心行くまで楽しんだ。
贅の尽くされたこの世の春が長く続く空間の中央では長大なテーブルに着飾った貴族たちが座り、カードゲームに興じていた。
思うままに食事をし、酒の入ったグラスを片手に笑いさざめく。
多くの貴族の男女が集うサロンで、ひと際華美な装いをした、この場で最も身分の高い夫人が見目良い男の腕に手を置く。
対面に座った者の発言に機嫌よく笑い声をたて、疲れた風を装って隣席の男に寄りかかる。他の席よりも間隔が狭く配置された椅子から上半身を大きく傾けて、肩に頬を乗せるようにして見上げて笑う。
寄りかかられた男は笑みを返しながら疲れたのかなどと気遣う。
公衆の面前で愛人にしなだれかかる女はルーサー侯爵の妻イヴォンヌ夫人だ。
離れた席でそれを失礼のない範疇で眺めながら、アリゼは冷静にこの人はもはやここまでだと見切りをつけた。
夫人は十分に役に立ってくれた。無論、その貢献に余りあるほどの労力を割いてきた。
国王には既に繋ぎを取り付けた。
アリゼは周囲を見渡して眩暈がしそうだった。
ロランから大陸西各地の惨状を伝え聞いている。
天変地異に凶作、流行り病に人々は疲弊して多く死者を出している。そんな中、これほど無駄な食べ残しを出し平気で廃棄してしまう。例え自分の物だとしても、食べるものがなくて飢えて死ぬ者が多い中、自粛すべきだろう。
彼らにとっては対岸の火事なのだ。
「私たちがこうして楽しみを心行くまで味わえるのもアリゼのお陰ね」
取り繕った表情の下、思考を巡らせていると夫人から声がかかる。
「勿体ない御言葉です」
静かに目線を下げ、殊勝な雰囲気を出す。
「とおっしゃいますと?」
夫人の対面に座る貴族がおもねるように問う。
「あら、ご存じないの?」
夫人は含み笑いをする。気がそそられた風に隣の男が手札そっちのけで尋ねる。
「アリゼのお陰で流行り病の特効薬が継続的に手に入りましてよ」
「おお、あの薬の。そうか、手に入りにくい薬をよくぞ」
勿体ぶる夫人に男が感心したように言う。
「いえね。アリゼは若くて可愛い女性ですが、優秀な薬師なのでしてよ」
若くて可愛い、という点に安易に同意しては臍を曲げられるかもしれないと返事に窮する恋人を余所に、夫人は続ける。
「みな様にお配りした薬もアリゼが煎じたものなのですわ」
「何ですと!」
「貴光教の特効薬ではないと」
「それよりも効き目はありましてよ。みな様ご自身が証人ですわ。とても健康でいらっしゃるではありませんの」
イヴォンヌ夫人に称賛が浴びせられる。薬を作った者などどうでも良い。有能な薬師を見出した権力者、特に後者の部分が重要である。
ルーサー侯爵夫人の権勢は今や国王に次ぐものとなっていた。
国王の目は一時年若い美女らに向けられたことがあった。
魅力的ではあったが、いずれもイヴォンヌよりもやや見劣りし、その機知には遠く及ばなかった。国王の寵愛がイヴォンヌに戻ってきたのは必然だ。
例えば、ルシール・ゴヴァン嬢は若い身分の低い男性との密会が大々的に噂されたため、国王から見限られたという。
噂の出処はレースの扇子の裏なのだろう。
漂泊の薬師が羨ましい。
その思考は唐突にアリゼの脳裏に浮かんだ。
一度は貴光教の暗部に属したものの、そこから決別を思い定め、光の戒めを受けてなお、自分の進む道をただひたすらに歩き、信念を貫いているのだ。
アリゼにもやらねばならないことがある。
翼の冒険者は強い。けれど、大聖教司ほどの地位ある者を追いつめるには切り札が必要だった。アリゼごときが手を貸さずとも、あの人はきっと多くの者の賛同を得て立つだろう。
そこに立ちはだかるのはここに集まる貴族のような自分たちの利益のことしか頭にない者や、貴光教だ。前者は利があると見なせば容易に旗色を変えるだろうが、後者は手ごわい。
その力を削ぐためにはどうしても、国王の封印状が必要だ。
それを手にするために、アリゼは懸命に笑顔を取り繕うのだった。
久しぶりに薬草園で仕事をしようかと廊下を歩いていると、呼び止められた。
イシドールの姿に、アリゼは内心うんざりした。ようやく貴族の呼び出しから解放され、睡眠時間を削られた翌日の朝に会いたい相手ではない。
「忙しそうだな」
「はい。これから薬草園へ行こうと思っていました」
だから手早く用を済ませてくれという意味を即座に読み取るのは流石に順調に出世するだけはある。
イシドールは上手く異類審問官に任命されることなく、また、他の者が異類審問官を拝命することによって開いたポストを上りつめていた。
「そうか。では前置きせずに言おう。ロランが異類排除令に反発して神殿を出た」
アリゼは息を呑んだ。
「ま、まさか。破門ということでしょうか?」
わななく唇をようやく開く。
「表向きは半放逐だ。様々な意見や思惑はあれど、大聖教司の発令に真っ向から反対したんだ。罰しない訳にはいかない」
「カヤンデル大聖教司は?」
「ロランはカヤンデル大聖教司の子飼いであることは周知だからな。だから、半放逐で済んだのだ。流石にエルッカ大聖教司もカヤンデル大聖教司を敵に回したくないだろう」
異類排除令は各地に大きな混乱と反発を巻き起こした。
魔族の国から抗議を受けることすら想像だにしなかったエルッカは、各国だけでなく、各地の商人たちからも猛反発を受け、顔色をなくしている。そんな中、有能疑うことなしのオルヴォを相手取る余裕はない。
アリゼは呼吸を整え、思考を巡らした。
オルヴォは子飼いに自分が不利になる発言を許すほど甘い人間ではない。
ならば、ロランを異類審問官任命から逃し、半放逐という形にして外に出したと考える方が納得がいく。また、ロランならば、この不安定な情勢でもうまく切り抜けることができると考えたのだろう。普段から放浪の聖教司と称される異端児であるので、外に出しやすかったのだ。近くにいなければ思い出すこともない。何しろ、貴光教は今、誰も彼も忙しいのだ。
恐らく、ほとぼりが冷めたら戻すつもりだろうとオルヴォの考えを読み解いた。黒の同志たちは異類審問官の護衛官として大半が駆り出されている。オルヴォの目となり耳となる者が少ない中、その足りない部分を補わせる腹積もりなのだ。
アリゼはようやく気持ちが落ち着いてくるのを感じた。見れば、そんな自分をイシドールが観察している。
「気になるか」
「もちろんです。共同研究者ですから、破門となると、今後の研究に差支えがあるかもしれません」
敢えて暗い表情をしてやると、イシドールが満足げに肩を抱いてくる。
「大丈夫だ。俺が研究予算をもぎ取って来てやろう」
朝方なのにと思いつつ、イシドールについて行ったアリゼは自分に感じる男を見て心地良さを覚えた。
まだこの手札は自分の手の中にある。
けれど、自分が薬を処方するラウノはもうそう長くはないだろう。エイナルも失った。
ロランはしばらく戻って来ることはできないだろう。
その事実に胸を刺す痛みは、他の男たちから受けるものとは種類が違うことに、アリゼは目を逸らした。深く考えて答えを見つけてしまっては、進んでいけないような気がした。
イシドールの私室から出ると、ジェフとすれ違った。
強いまなざしを受けたが平然と前を向いて歩いた。
あと僅かで事態は大きく動く予兆を見せている。それまでに、集めることができるだけの手札を手にしていたい。
翼の冒険者が自由に空を駆けて行くことができるように、地を這うアリゼは尽力するのだ。
「全く、こんなこともできないなんて。厳しい神殿務めをしてきたから結婚を許してやったというのに。とんだはずれ嫁を貰ったもんだよ」
人を外見で判断してはいけないとは言うものの、意地の悪さというのはにじみ出るらしい。
ヨセフィーナは姑となった人の前でしおらしく振る舞いつつも辟易していた。
「こんなご時世で食べるものもろくにないってのに、何だい、あんたは。そんなに肥えてちゃ、あたしらが村の者よりも余分に食べ物を隠しているようじゃないか」
ややふくよかでそれが愛らしいと言われてきたのに、姑にかかればそれすらも嫌味の種でしかない。
貴光教が幅を利かせるキヴィハルユは清浄を掲げているだけあって、品行方正な、言い換えれば面白みのない街だった。それでも、物品に溢れ、それなりの活気があった。
そこで自由気ままに暮らしていたことから一転、辛気臭い村での生活は閉塞感を覚えずにはいられなかった。
神殿ではゴスタやヘイニが何かと気を回して良くしてくれ、周囲の人間もちやほやしてくれた。
ここではそれどころか、働くことを強制された。
ヨセフィーナとて、労働をしない訳ではない。気働きができると良く言われたものだ。ただし、それは権力者に取り入り、自身の仕事ぶりをアピールするためのものだった。
凶作の波が及ぶ村では、食べるための労働を必要とされていた。
異類排除令の是非に関しては全く何も思うことはなかったが、優遇してくれるゴスタやヘイニが異類審問官に任命され、しばらくは各地へ出向すると聞いて、ここが潮時とばかりに神殿から出て嫁入りすることに決めた。
国都キヴィハルユから離れたのどかな村でのんびり新婚生活を送るのも悪くはなかろうと考えてのことだった。異類排除令の陰惨さは村にまで噂が届き、自分の判断は間違っていなかったと思えた。
それで、適当な相手を見繕ったのだが、彼に付随する母親が強烈だった。
朝も早くからたたき起こされ、家事を言いつけられ、何をするにしても文句をつけられる。
夫に泣きついたが、うまくやってくれとしか言われない。
「悪気はないからさ、何とかやっていってくれよ」
頼むよと一見依頼の形を取っているものの、それは丸投げする言葉だ。
姑に受ける被害に、都度夫をせっつくうち、うんざりした顔で言われた。
「そんなの、お前が自分で言えよ」
「言っているのよ? でも、お義母さん、全く聞いてくれなくて」
「じゃあ、おふくろの言っていることが正しいってことなんだろうさ。あーあ、おふくろの言う通り、はずれ嫁を貰っちゃったかなあ」
穏やかで優しく、ヨセフィーナを大事にしてくれる人だとばかり思っていた。
ヨセフィーナの顔色が変わったことに気づいた夫は慌てて、受け流せば良い、老人が言う事なんだから、などと言っている。
この人は駄目だ。
ヨセフィーナは早々に見限った。
今まで通りの弱々しく常に被害者であり、守られるべき存在という立場に固持していては好き勝手されるだけだと気づくと早かった。
ヨセフィーナは次第に姑に言い返し、やり返すようになった。
どうしてこうなったんだろう。
こんなはずではなかったのに。
神殿での暮らしが懐かしくて仕方がなかった。
異類排除令が収束してゴスタやヘイニが戻ってくるころに、また神殿に戻ろうかと考えた。きっと、二人ともその時には出世している。何しろ、大聖教司の肝いりの大事業で要職に就いたのだ。戻ってきたらそれなりのポストが用意されていることだろう。
それまで、何とかこの結婚を続けていかなければならない。
ヨセフィーナは姑の監視をどうかいくぐって家事をさぼろうかと頭を捻った。
彼女にとって、凄惨な異類審問など別世界の出来事であり、自分の理想の生活を送ることの方が重要な事だった。




