48.思い置く ~トマトを食べられなくなっても~
ニーナは料理を教えてくれたり、街が熱狂に包まれ、街の者が押し寄せて来た時に助けてくれた。
新居を探す際にも村で使い勝手の良い家を借りることができるように手を貸してくれたし、リムが料理をするのも村人に浸透させてくれた。
普段穏やかに接する者に突如ナイフを突きつけられることがあると知っていた。でも、心許した者に突きつけられてみれば、足元が崩れ、身体が宙に投げ出され落下するような心地になった。
エディスから転移陣を踏んで島へ戻り、ようやく人心地が付く。
「英知」
震える唇で呼んだ。何度となく、口にした名前を。名の主は常にシアンに知恵を授けてくれて来た。
「ニーナさんみたいな人を、僕の周りから出さないようにできる?」
漠然とした質問はだが、風の精霊はまさしく理解して答えた。
『できるよ』
シアンはぎゅっと目を瞑った。
そうか。
できるのか。
『しようか?』
「ううん、良いよ」
シアンはそれを望まなかった。南の大陸で流行り病に倒れる人々を目の当たりにし、助けようかと言われた際、頷かなかったように。
それをしてしまえば、シアンはこの世界の枠組みから大きく逸脱してしまう。
天空の朽ちた村で人面鳥を退治した時、シアンは精霊の力の一端を教えられ、驚いた。
それでも、シアンは「大いなる力」を借りることができたとしても、他者の考えを捻じ曲げて何かを成そうとは思わなかった。
人によっては宝の持ち腐れと失笑するかもしれない。
けれど、時に、巨大すぎる力は制御できずに、また、用いる者の性質を変容させ、身を亡ぼさせる。それは痩せた土地に恵みをもたらす幻獣の力を得た王族であったり、血肉を捧げる儀式によって領土を守る貴族であったり、守護竜の力を得たとある国の女王であったり、国際機関の神殿の威光を得た聖職者であったりした。
精霊に頼って何でも叶えて貰うのは、違う気がするのだ。
異類審問官らの逮捕対象である異能保持者を逃すことで黒ローブの注意を引き、そうすることで、少しでもニーナから意識を逸らせるのではないかと考えた。自分にはそのくらいしかできない。
ニーナの裏切りのように、のっぴきならない事情によって、生きていればそういう選択に迫られることもあるのかもしれない。
どうしようもなかったのだと。
悪いのはそうし向けた者なのだと。
懸命にシアンは事態を呑みこもうとした。
しかし、もっと違ったやり様はあったのではないかと常に問いかけて行かなくてはならない。それを怠ってしまえば、自分は常に正しいのだと一歩も動くことができない者になってしまう。
『おばちゃんだ!』
元気よく鳴くリムにニーナが相好を崩すのを見たことがある。自分の事を覚えてくれていたのか、と嬉しそうで、自らをトマトのおばちゃんだと言っていた。
『トマトのおばちゃん!』
好物を育てるニーナに、リムも好意を抱いている。
リムに何と説明すればよいだろう。
『それは正直に言うべきでは?』
九尾は隠すべきではないと言う。
『どうして? どうしてトマトのおばちゃんがシアンを悪い奴らに引き渡そうとしたの?』
『リム、トマトのおばちゃんは黒いのに脅されて息子を人質に取られていたんだよ。息子を殺されたくなかったら、シアンちゃんを捕まえるのに協力しろってね』
ニーナの言動から類推した言葉に、リムはきゅっとへの字口を急角度にさせる。
『じゃあ、トマトのおばちゃんは悪くないよ!』
『そうだね。でも、トマトのおばちゃんはシアンちゃんより息子を取った。そうしてシアンちゃんを傷つけてしまったら、もう前の通りに接することはできないよ』
『でも、トマトのおばちゃん、悪くないのに』
シアンはぼんやりリムと九尾のやり取りを眺めていた。
本来であれば、自分がリムと話し合うところだ。でも、こうやって、九尾がしっかり言い含めてくれる。
ふと、自分は必要ないのではないかという考えが浮かぶ。
ティオが気づかわし気に顔を寄せてくる。反射的に手を上げてその首筋を撫でる。
ぐいぐいと力を込めて胸に頬をこすりつけてくるのに、これも習い性となるように笑い声をあげる。
シアンは気づいていなかった。撫でる手も、笑い声も、いつもの心が籠っていない、機械的なものであると。
謝罪すれば良いものばかりではない。取り返しがつかないものもある。
そして、ティオにとってはシアンの安全は何にも勝るもので、「悪いことをしたらごめんなさいと言うんだよ。心から反省するんだよ」では済まないのである。
シアンの様子がおかしいのを、リムは正確に見て取った。
『シアン、悲しくなっちゃったの?』
リムが小首を傾げるのに、そうか、自分は悲しいのかとようやっと自覚する。
「うん、でも、大丈夫だよ。僕にはリムもティオもきゅうちゃんもいるからね」
『うん!』
「リムもティオも悲しくなったら、僕のことやティオやきゅうちゃんたちのことを思い出してね」
『うん!』
リムはその言葉をいつまでも忘れなかった。いつだってシアンがくれる優しくて温かくてきらきら輝くものを大切にしていた。
だからこそ、決定的な場面でそれに助けられるのだ。
ティオはニーナの裏切りに対して、大きな衝撃を受けることはなかった。
確かにニーナは他の人間よりも少しは慣れていた。しかし、それだけだ。何なら、カラムだろうとマウロだろうとどうなろうと構わない。ティオに取って一番はシアンとリム、そして大地の精霊だ。
ただ、島の幻獣たちが害されたら守ろうとするだろう。無論、シアンと天秤に乗ればシアンを守ることを取る。
ならば、島の幻獣がシアンを害したらどうするだろう。言うまでもなく、シアンを守ろうとする。だが、その時、普段通りの心情ではいられないだろう。そう思うことが出来るようになっただけ、ティオは変化していたのだ。シアンに出会うまでは、大切な物以外はどうでも良かったのだから。
『シアン、ぼく……、ぼくね、トマト、食べられなくても良いよ』
「えっ? どうして?」
リムが急に言い出したことにシアンは面食らう。
『うん……、だってね、トマトを食べていたら、シアン、トマトのおばちゃんのことを思い出しちゃうもの。だからね、ぼく、食べられなくても大丈夫だよ』
「リム……」
シアンはリムの細い体をそっと両手で掴み、その丸い顔に頬を寄せた。体は胸に抱く。体格差から肩を竦めるような背を丸めるような姿勢になる。
まるで、縋りつく形となった。
リムの優しい気持ちが温かかった。それに慰められた。
「ありがとう。でもね、リム。料理にはトマトは欠かせないもの。大丈夫。うん、もう大丈夫だよ」
『良かった』
うふふと笑い合うリムの顔が歪む。
『シアン?』
ぽろりとシアンの瞳から大粒の涙がこぼれる。
この世界に来て度々泣くことがある。それだけ心を大きく動かされる。
「キュア……」
リムが囁くように鳴きながらぐいぐい頬をシアンの頬にこすりつける。それはまるで慰めているかのようだった。
「暖かい。柔らかい」
そして、脈動している。
ニーナはイレーヌと違い、豪快でてきぱきと料理を教えてくれた。口がよく動き、コツを分かりやすく伝えてくれる。少々の失敗を笑い飛ばしてくれた。
イレーヌとは違うタイプの、それでも理想の母親像だったのだと知る。
失ってから知ることはままあることだった。




