12.双子の兄
六、七人くらい入れそうな大きな桶に湯を溜め、中央に板を渡して飲み物の入った瓶と杯を置く。
その差し向かいに半裸の男女が座って湯に浸かりながら酒を楽しむ。脚を動かして温もった肌と肌を擦り、肉と肉をぶつかり合わせた。杯を持たないもう片方の手は相手の肩や二の腕、その下の方まで降りて行く。
娼館の風呂場には大きな風呂桶が並び、ペッティングを楽しむ客と、仕事に勤しむ女性たちがいた。
異常気象に流行り病、飢饉が猛威を振るい、井戸に毒を入れる者がいるという噂が流れる最中であるというのに、いや、だからこそ浮世の憂さを忘れたいのか、娼館に客が途切れることはなかった。
濃い眉の頭に皺を刻み、厚い唇を薄っすら開けて見せ、快楽に溺れていることを示してやると、客は満足げににやつく。
マイレは慣れた作業をしつつ、思考の半分は違うことに向かわせる。この仕事を長く続けるコツだった。
思うのは半年前に殺された友人だ。
マイレはキルスティのことが好きだった。
美しく繊細で臆病だった。マイレを慕い頼った。
こんな不特定多数の男に身を任せる職業は長く続けられないだろうとは思っていたが、まさか、殺されるとは思わなかった。
大方、痴話げんかの果てのことだろうと言われたが、それならば、必ずキルスティはマイレに話していたはずだ。ならば、初見の男に言い寄られて断ったから殺されたのだろうか。
キルスティは臆病だった。客を逆上させるような真似はしなかっただろう。
怪しい風体の男の姿が目撃されたという証言があったが、後に、翼の冒険者の支援団体の人間ではないかという噂が流れた。
それは以前、マイレに危ないことをするなと忠告してくれた男が所属する団体の人だった。決してマイレを娼婦だからと蔑み馬鹿にすることなく、殺されたキルスティのことを残念だったとも言ってくれたし、マイレのことを心配してくれた。
マイレよりも一回り近く年上だったが、もっと上の年齢の男の相手もするのだ。
男というものは若くて綺麗な女を求めるのに、何かと馬鹿にしたがる。自分はこいつよりも優れていると思いたがる。何の益もないのに、いや、他人を散々馬鹿にしたら嫌われるものなのに、そうする。娼婦に対して特にそうだ。
そのくせ、自分よりも頭の良い女は避ける。つまり、自分を心地よくしてくれる女でなければいけないのだ。自分が上だと思わせる程度で賢くなければならない。
馬鹿らしい。
なぜ、他者が自分よりも下であるのが当たり前だと思えるのか。どの者も優れた点があり、それぞれに敵わないものがある。それを頑なに認めようとせず、あると察知すれば嫌い遠ざけ、最終的には生意気だという。
娼婦に対しては身体を売るという点で安心して馬鹿にできる。娼婦の方が知識や情報を持っていても、所詮体を売る人間だから、というのが全てを覆すと思っているのだ。
しかし、あの翼の冒険者の支援団体の人は男であっても、マイレを一個人として相対した。
そのせいか、あれから幾度かあの男のことを思い出すことがあった。
嫌なことを言われたり、暴力を振るわれたりした後に、ふいに思い出すのだ。
翼の冒険者の支援団体の人間がキルスティを殺したのだという噂が流れてからは彼らの姿を見かけることはなかった。
他の団員が娼婦仲間のミームに執心し、同じ団員同士で取り合って喧嘩沙汰になったこともあったが、やはりそんな噂が流れたので寄り付かなくなったのだろう。
更に、最近では井戸に毒を入れた者がいるという噂が流れていて、街の不安をあおっている。それが半年前の翼の冒険者の支援団体の噂に絡んで、彼らの仕業ではないかと言われていた。
一層、この街には寄り付かなくなるだろう。
マイレはそう思っていた。
仕事を終え、短い睡眠を取った後、所用で外へ出た際、路地で男二人に絡まれた。
以前、マイレの客だったことがあるそうだ。
「なあ、こんなところで会ったのも何かの縁だ。ちょっと付き合えよ」
「こんなところも何も、職場の近くなんだから歩いているのは当たり前でしょう? そっちの用があるんなら、娼館へ来なさいよ。そこで相手してあげるわ」
「そんな風情のないことを言うなよ」
つまりはただで相手をしろというのだ。
真っ平ごめんである。
マイレは仕事として体を張っているのだ。それに正当な対価を得ている。
はっきりとそう言うと、男たちは不満そうな顔つきになる。
「ふん、相手してやろうっていうのに、生意気な!」
「娼婦風情が! 大人しく足を開いていれば良いんだよ!」
出た、「生意気な」。
「その娼婦に払う金もないのなら、あんたたちは娼婦未満よ!」
かっとなったマイレはついぶちまけてしまった。正しいことを指摘しても聞き入れる度量がない人間は逆上するというのを知っていたのに。
「何だと⁈」
「優しく誘ってやっていたら調子に乗りやがって!」
「馬鹿なことを言うんじゃないわよ! プロにただでやらせろってことでしょう? この集りが!」
「この女!」
「あ、警邏の人ー、こっちです! ここでもめ事が! 女性が殺されそうです、早く!」
激昂する言い争いに間延びした声が加わる。
そしてそれは沸騰する場に差し水となった。
見る間に勢いをなくした男たちはあたふたと逃げ出した。
「大丈夫? 何かされていない?」
穏やかというにはやや怯えが混じった恐る恐るといった態の問いに振り向けば、細身の男性が立っていた。
「あんた、誰? ……あ、確か、ミームを取り合って喧嘩してぼこぼこにされたやつじゃない?」
ちょうど今日、あの時のことを思い出していたのですぐに思い出すことができた。
「えっ、違うよ! それは弟の方!」
「嘘よ。喧嘩沙汰は珍しくないけれど、大きな奴に向かっていく馬鹿だったから覚えているもの」
「違うよ。顔は一緒だけれど、俺は兄の方! 双子の!」
「ああ、だから同じ顔なのね」
マイレは大きく息を吐いて壁に背を預ける。汚れているが構うものか。今になって脚が震えてくる。やはり、自分よりも体の大きい異性二人に激昂されると恐ろしい。でも、だからって引く気はなかった。自分の尊厳は自分で守るしかないのだ。
「これ、飲む?」
渡された水筒に口をつける。毒を仕込むほどの関わり合いもない人間だ。
「えっ、何、これ、美味しい!」
「だろう? 汗をいっぱいかいた後に飲むと特に元気になるんだ」
頼りなげな風貌は笑うと更に気弱さを増した。
せがんだが、レシピを教えてくれなかった。大切な人が考案したものだから、勝手に教えられないと言っていた。その時の顔はちょっと精悍さを増したから、大切だというのは真実なのだと思った。そして、何故か面白くないとも思った。
「ふん、そんなに大事なら私なんかに飲ませなければよかったのに」
「いや、疲れているみたいだったからさ」
「ふうん? あんたは疲れている人全員に飲ませてやるの?」
ことさら顎をあげて鼻を鳴らして見せれば、男は頭を掻いて眉尻を下げる。
「うん、まあ、言いたいことは分かるよ。全員を助けることなんてできないよね。でもさ、俺の大事な人は沢山の人を救ってきたんだ。すごい人なんだよ。だから、俺も、って思ってさ。もちろん、出会う人の中で困っている人全部を助けることは出来ない。ただ、助けたいと思った人はなるべく力を貸せたらなって思うんだ」
「……それなら、どうして私には飲ませてくれたの?」
男の言葉に誠の声音を聞き取った。
マイレは負けん気は強いが馬鹿ではないつもりだ。この男は頼りなさげに見えるが、一本芯が通っているのではないかと思った。
「うーん、自分の心と体を守るために立ち向かっていける人だと思ったから、かな。俺はさあ、小さいころに両親を亡くした後に引き取ってくれた里親に暴力を振るわれたんだ。自分より大きな人間複数に怒鳴られたり殴られたりすると怖いんだ。逃げることもできずに縮こまってぎこちなく過ごすことしかできなくなる」
考えながら一生懸命言葉を尽くして説明しようとするのに茶化したりせずに耳を傾ける。
そのマイレの姿に勇気づけられたように男は続ける。
「でも、君は違った。異性で力や体格差がある者にもしっかり間違っていると言った。自分を貶める言葉をきちんと否定してみせた。だから、何かしたいと思った、のかな?」
最後はあやふやになったが、言いたいことは伝わった。
「それで、あんたはその里親に反撃できたの?」
「ううん。ばらばらに引き取られた双子の弟が俺の殴られた顔を見てぎょっとしてそのまま一緒に逃げてくれた」
「そう、それで今こうしてぴんぴんしているのね」
良かったじゃない、というマイレに笑って頷く。気負いない風情に過去が影を落としていないのだな、と胸をなでおろす。そんな風に考えた自分に慌てて思考を逸らそうとする。
「じゃあ、弟の方は自分よりも力がある男に向かっていったのね」
「いや、まあ、あれは自分の身を守るために立ち向かったんじゃないからなあ」
「それもそうだ!」
言って、マイレは思わず噴き出した。男も釣られて笑いだす。
散々二人で笑った後、何となくそうなって、男と連れだって娼館へ入った。
頼りなさそうに見えたから、最低限の料金を言って、後は自分が娼館に払っておこうと思ったが、一晩分でも余るほどの金銭を置いて行った。
「あ、名前、名前を教えてよ。私はマイレ」
「マイレか。俺はフィンレイ」
またね、と言って立ち去った彼は二度と現れなかった。
後に、彼と同じ顔をした者がやって来て、マイレに教えてくれと言っていたと言って、あの美味しい飲み物のレシピを教えてくれた。
「柑橘系の果汁に塩に砂糖、蜂蜜って……そんな高価なもの、手が出るはずがないじゃない。どうして自分で言いに来ないのよ。馬鹿……」




