9.火種
積年の凝り固まった思考から解き放たれた魔族は黎明期を迎えていた。
貴光教はそれが面白くなかった。
今まで通り、彼らは悪で、自分たちが是正してやる対象であるべきだった。
そこへ、翼の冒険者という得体の知れない力の持ち主が現れた。有体に言えば、貴光教の一部の者が嫉妬した。唯一の素晴らしい神を讃えるよりも翼の冒険者を好む人間が多いことは由々しき問題である。
エルッカはいち早く各地で損害を出す非人型異類を犬目どもに命じて討伐させた。
ところが、その暗部という特性ゆえに評価されることはなかった。それどころか、翼の冒険者やその支援団体という得体の知れない者たちが誉めそやされた。
そも、暗部の密やかな任務なのだから失敗しようと成功しようと一般人に何ら関わりはない。
しかも、あろうことに暗部どもは大きなしくじりをし、多数の死傷者を出した。暗部を動かす命を出した者としてエルッカはその責を問われることになったのだ。
普段、犬目よと謗るのに、他人の失態はここぞとばかりに攻撃する。それは大聖教司であるエルッカでも例外ではなく対象にされた。
そんな中、打開策とばかりに大陸西に蔓延する流行り病の特効薬を薬師に開発させ、商人を通して広く行き渡らせようとした。これでエルッカの名誉は大きく挽回された。民草も光の神の威に打たれ、安心して信仰することができるだろう。
オルヴォに薬師の研究への出資を持ち掛けられた時は渋ったものの、結果的には良い目が出た。同位の大聖教司であるオルヴォはあちこちに庇護の腕を伸ばすものだから賄いきれず、エルッカに泣きついて来たのだ。ここで貸しを作るのも良かろうと引き受けた薬師数人が見事に流行り病の特効薬を作成したのだ。
その時にはすでにエルッカの所属となっていたので、あのすまし顔のオルヴォはさぞや切歯扼腕したことだろう。良い気味だ。
貴光教の地位向上に大いなる貢献を果たしたエルッカは発言権も大きくなっていた。
最近、貴光教の不利益になる言動をする人間が一人二人と殺された。例えばとある知識人で、貴光教を非難した者だ。
明らかな暗殺であったが、エルッカは貴光教の代表者の一人として、神の裁きだと平然と言ってのけた。
なぜなら、自分たちは常に正当で正常であるからだ。
有識者は貴光教が手を下したのではないかと思いつつ、自分も餌食になりたくはないと遠巻きにした。君子危うきに近寄らずである。
この暗殺というものに、敏いエルッカは着目した。更にはあの変人の大聖教司ヨキアムが行う拷問だ。その二つを結び付け、一層世界を清浄化しようと目論んだ。
そこで、以前、神託の御使者を僭称する者が現れたと言っては面会を求めて来た下の者を呼び出す。
流行り病の特効薬を作成した飛ぶ鳥を落とす勢いの大聖教司に呼び出されたゴスタはしゃちほこばって一礼する。
薄い頭頂部を眺めながら鷹揚に声を掛ける。
「よく来た。楽にせよ」
「はっ」
たるんだ肉を白い貫頭衣に窮屈そうに収めている。
そこで心に秘めた壮大な構想を語った。
「魔族を排除する発令、ですか」
「そうだ。今、この大陸西では流行り病の特効薬を広く下げ渡した我ら貴光教に対して非常な尊崇の念を抱いているであろう」
下げ渡したというよりも売り出したのである。それも高額で、一般人には手が出ない代物であった。しかし、エルッカは言外に自身の手柄を誇張して見せた。
「さようでございますね。きっと不安の暗雲から一筋の光を見出したことでございましょう」
貴光教で好んで使われる修辞を用いて賛同して見せた。
「そうであろう。今この時であれば、無知蒙昧な民草も我らの言葉に耳を貸すだろう。この機を逸さず、我々は積極的に行動すべきだ」
「かしこまりました」
「うむ。その方は気が付き、よく報告を上奏していたことを考慮しての取り立てだ。人選は任せるから、他に数名を選出して事に当たると良い。何、実働は犬目を動かすからそちらに任せればよい。その方らは審問を行えば良い」
「ははっ」
「資金の心配はせずとも良い。十全にある」
事実、エルッカは流行り病の特効薬を売って得た金銭で未だかつてないほど潤っていた。財布はさらに膨らむだろう。
一方、ゴスタの方はと言えば、今まで自分が上げた報告に大して興味を示す風ではなかったが、その実、しっかりと見てくれていたのだと内心感激していた。しかも、自分に大きな裁量と金銭を任せてくれるという。
この人について行こう。
今まで自分は認められず不当に扱われているという不満を抱えていたからこそ、振れ幅は大きかった。
そして、それは後に惨劇を招く一因となった。
ゴスタは早速人選に取り掛かった。まずは自身の部下であるヘイニを取り立ててやる。これは同輩ばかりを集めては自分の立場が危うくなりかねないからだ。更には、気心知れて、なるべく自分に逆らわない、反旗を翻さない者を選んでのことだ。もう一人はさほど優秀過ぎない者が良い。まずは三人で良いだろう。
業務が忙しくなれば、折を見て増やせば良い。
ゴスタは新たなやりがいのある任務に、期待に胸を膨らませながら意気揚々と神殿の内部を進んだ。
地下室の研究室でアーロは今日も非人型異類をあれこれいじっては楽しんでいた。
巷では彼が放出した非人型異類が存分に暴れまわり、効果を上げているようだ。
噂では翼の冒険者やその支援団体が活躍し、討伐しているらしい。アーロが貴光教本拠地内に放った子供や孫たちが送って来る情報によれば、暗部たちも動いたようだ。ただ、彼らは一時、多くの犠牲者を出した。
「狩られる速度が速くて、中々、強力なのを送れないな」
強力な異能を付加した非人型異類を作り出すのには相応の時間を要する。
折角手間暇をかけたのにあっさり倒されるのも面白くない。
「でもまあ、人間を恐怖に陥らせるのは成功している」
アーロは心地よさげな笑みを浮かべる。
非人型異類の跋扈の他、各地で異常気象が発生し、人心が乱れ、快感をもたらす感情がそこここで溢れかえっていた。
「同胞もそろそろ目を覚ますだろうし」
そうすれば、もっと多くの不安と恐怖を味わうことが出来るだろう。
アーロは今や右よりも倍以上も肥大した左耳を触りながら、喉を鳴らして笑った。
薬草や生薬を水に浸して加熱沸騰させ、水蒸気蒸留する。
この時、植物の中の揮発性の油性分も、沸騰した水蒸気と共に分離される。油成分は水に溶けず、蒸留液を冷却すればこの油成分が得られる。
これが精油、エッセンシャルオイルである。
薬の成分を抽出するだけでなく、良い香りの成分を得られることもある。
生薬重量の数パーセントから二十パーセント近くを精油として豊富に含む生薬もあるが、多くは一~二パーセントの精油しか得られない。
そのため、大量の植物を必要とする。
アリゼが薬効というよりは香りを目的として植物を大量に手に入れようとするのに、 良い顔をされなかったが文句を付けられることはなかった。流行り病の特効薬や「特別な薬」を作る重要な戦力として活躍したのを認められているからこそだった。
多少の無理を重ねた苦労が報われる気がする。
だが、向かう先では別の苦労が待ち受けている。
イヴォンヌ・ルーサーは侯爵夫人であり、国王の愛人でもあった。
これら二人の男が後押しし、優れた容姿と才知ある話術を持つ夫人は宮廷で一大勢力を作り上げていた。
彼女を陰で支えて来たアリゼへの信頼は厚く、その携えるエッセンシャルオイルは貴族の中でも人気が高い。一介の薬師がもたらす精油など見向きもされないだろうが、権力者が後押しする良品には飛び付いた。
アリゼは今や貴族たちから手厚く遇されていた。
イヴォンヌもまた腕の良い薬師を重宝した。
見目良く年若いにもかかわらず、万事控えめで心得ている。もはや腹心と言っても過言ではない。
「そうですか、流行り病の特効薬を手に入れられたのですね。流石はイヴォンヌ様」
「ほほ、あれは今本当に手に入りにくいようでしてよ」
だとしても、国王の愛人が手に入れられぬものがあろうか。
機嫌よく扇の向こうで笑うイヴォンヌの言外の言葉は明白だった。
「わたくしもお役に立てれば良かったのですが」
「いいえ、いいえ! あれほどの薬ですもの。貴光教では取り扱いに厳重になるでしょう。みなさまよろしくて? 決してアリゼに無理強いをなさってはいけませんわ」
しおらしく視線を下げ、弱々し気に微笑んで見せればイヴォンヌは思い通りの反応を見せてくれた。たとえそう思っていたとしても、自分の腹心を他者に謗られたくはない。重きはイヴォンヌの、という点に置かれる。決してアリゼのために、ではない。
後でアリゼを捕まえて特効薬を手に入れさせようと思っていた未入手の貴族たちは愛想笑いを浮かべる裏で落胆した。
「アリゼは久しぶりの茶会に出席しているのですもの。そんな些事で煩わせたくはなくてよ」
「温かいお心遣いに感謝します」
自分が特効薬を手に入れていなければ些事ではないだろう。他人事であるから些末なことなのだ。そんな心情を読み取ったことを悟らせないように従順な表情を浮かべる。
この面相を取り繕うことも大分慣れて来た。
黒の同志や貴光教本拠地でも必要とされてきたが、ここではまた違った迂遠さがある。美しく繕う裏側にはどろりと濁った感情が渦巻いている。けれど決してそれを見せない。はしたない真似は貴族としてあってはならぬことなのだ。
礼儀作法に則った動作を行い、体面を取り繕い、機知に隠れた棘で相手を刺し、美しく飾り立てた虚構の上で美食に耽り、暇と退屈を慰める物を所望する。そこには一片の誠実さも感じられなかった。政略はポジション争いでどの者につくか、どの者を味方に引き入れるかを争うゲームのようだった。失態を犯した者はあっさり切り捨てる。もしくは後がない者を使ってえげつない真似をさせる。レースの豪奢な扇の影で浮かべる優雅な笑みの何と醜悪なことか。
他の者のために必死になって動くことがないのだ。
当の本人たちは心を痛め、知略を巡らし、手を煩わされたと思っている。
けれど、そんなことではパン一つ贖うことはできない。
貴族はただ楽しむだけに存在するのだ。
アリゼはふと思う。
あの翼の冒険者を慕う幻獣たちも常に楽しそうにしている。けれど、彼らは違う。彼らは人にはない力を持ち、自身で凶悪な魔獣を狩り、それを食べて生きている。実にシンプルだ。自身の力で完結している。そして、世話してくれる者、例えば翼の冒険者を心から慕っている。そして、慕われている。
幼少期以後、アリゼはこの世界のどこでもそんな光景を見たことがなかった。彼ら周辺の空気はとても柔らかく、優しい明るさに彩られ、光に溢れていた。
そう、アリゼに取って光の象徴は彼らだった。
決して自分の好き勝手をするための道具とされた光の神を崇める宗教などではなかった。光は人それぞれの心の中にあるもので良いではないか。それぞれが胸に抱く千差万別のもの、それらを光として信仰すれば良い。それを無理に人の作った枠組みに押し込めるから、いびつな形でしか光を伝えることができないのだ。
アリゼは皮肉気な笑みが浮かびそうになる口元を隠すためにティーカップを傾けた。
と、不意にざわめきが聞こえた。
「あら、陛下」
イヴォンヌの声に、一斉に貴族たちが起立し首を垂れる。アリゼも倣う。
きたか。
アリゼが待ち望んでいた瞬間である。
「やあ、美しい人。話は弾んでいるようだな」
居並ぶ貴族たちを悠然と見渡す。芝居がかった動作は自分の権威を見せつけるためだろう。そうやって常に誇示していかなくては虎視眈々とより良い地位を狙う廷臣たちの頭を押さえつけておくことができないのだ。
翼の冒険者の自然体の物腰の穏やかさとは違う。一見頼りないほどだが、それだけに幻獣たちも彼を支援する結社の者もこぞって助けになろうとする。自然と手伝いの手を差し伸べられ、彼の方も気負いなく差し出すのだ。
どれほど憧れても、アリゼが置かれた環境はパワーゲームの場だ。うまく乗り切らねばならない。
ふと止まった国王の視線に、婉然と微笑んで見せた。ひげを生やした口元が弛緩するのに、一層笑みは深くなった。




