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天地無窮を、君たちと  作者: 天城幸
第九章
434/630

8.譫妄1

 

 短く切ったくすんだ金髪、開けっ広げな笑顔にラウノははっと息を飲んだ。

「エイナル、お前……」

「どうしたんだよ、ラウノ。変な顔して」

 ラウノはすぐにこれが夢だと分かった。

 なぜなら、エイナルはあの時、この世を去ったのだ。自分に赤い手袋を目指せと言い残して。

「ほら、見てみろよ。鬼みたいな顔をしているぜ?」

「鬼って、お前、随分な言い様だな」

 夢でさえエイナルはエイナルだった。

 苦笑しつつ、そら、と寄越された手鏡を覗き込む。

 そこには悪鬼がいた。

 吊り上がった眉尻、ぎらぎらと異様な光を発する目、大きく膨らんだ鼻の孔、不機嫌そうにつり下がった唇の両端。

 見る者を不快に、不安にさせる面相があった。

 一瞬の浮遊感の後、ラウノは覚醒した。

 数拍の間、身じろぎせずに横たわったままじっと天井を見上げる。

 大きく息をつくと寝台から起き上がった。

 水差しに直接口をつけて水を飲む。

 思いついて、手鏡を探す。手にした鏡を恐る恐る覗き込めば、そこには茶色の髪がやや乱れた、見慣れた顔があった。記憶よりも頬がこけ、目の下にうっすら隈ができてはいたが、夢の中の面体よりは大分ましだ。それでも、疲労感はありありと見て取れた。

 エイナルを失った後、ラウノはアリゼの薬の力を借り、命の灯を大きく燃やすことによって力を得て、どうにか剣聖イレルミを下した。アリゼが命を削って力に変えるラウノを心配していることは知っていたが、エイナルとの約束を果たさなければならない。

 黒の同志たちは幻獣のしもべ団を退け、勢いを盛り返していた。

「我らが障翳しょうえいとなりかねぬ。排除せよ」

 自分たちの邪魔をする者はすべからく排除すべし。

 黒の同志たちは不安な情勢の中、目立つ風体が自分たちの不利にならないようにうまく立ち回った。

 例えば、工房の物をちょっとくすねて売り払った職人の徒弟にそのことを親方に告げられたくなければこうしろという指示を出す。

 見るからに怪しげな黒いローブ姿の者に怯え、その指示にどんな意味があるのか分からないまま、言われるままに行動する。

 まるでチェスの駒を動かすように他者を操って事柄を勧めて行き、盤上を自分たちや貴光教に有利に動くように持っていく。

 そうすることで、次第に幻獣のしもべ団を追い詰めるのだ。

 着替えを済ませ、黒いローブを羽織った際、眩暈に襲われる。歪む視界を、目を瞑ってやり過ごす。

 エイナル亡き後、その遺志を継ぐと決めた。今更辞める訳にはいかなかった。

 お前は良いな、こんな貴光教を見なくて済んで。いや、空の上から見ているだろうか。なら、無様は晒せないな。

 ラウノは白い手袋をつけると、部屋を出た。

 エイナルの願いは楔となり、ラウノを繋ぎとめた。それは貴光教にであったか、暗部にであったか、今世にであったか。ただ、神への愛からは遠ざかって行った。



 拷問とは被疑者などに対して肉体的・精神的な苦痛を与えることによって自白を強制させる手段である。

 歴史をひも解いてみれば、拷問は奴隷に対して行われたものだ。神聖な法廷に立つためには奴隷の汚れを取り除く儀式が必要であり、それが拷問だった。

 その後、時が進み、一般市民に対しても拷問が用いられるようになった。

 古代においては神のみが真実を知ると考えられていたため、ある毒性を持つ豆を食べて生き延びられるか、熱湯の中に手を入れて火傷をしないか、水の中に投げ込んで浮き上がって来れるか、といったもので有罪無罪を決定した。いわゆる神明裁判である。

 そこから変遷し、人間による裁判が執り行われるようになった。神判の代わりに被疑者からの自白を得てそれに基づいて裁判をする形態を取るようになる。この時、拷問が用いられるようになったのである。

 神の裁きから人の裁きに移行する中で拷問は必要悪となった。

 ここには「人間は、本来、自分が行っていないことを告白するはずがない。これについて嘘を吐かないはずだ」という前提があった。拷問を受けた被疑者が「自白」した共犯者についても、罪を犯したと断じ、「自白」に基づいて有罪の宣告がなされていった。

「つまりは、拷問は文明社会において必要不可欠なものなのだよ」

 長々と語ったヨキアムはいかにも真面目そうな初老の男をにやつく口元を隠しもせずに見つめた。年相応に皺の目立つ顔には呆れと怒りがないまぜになっている。

 対して、ヨキアムは六十台だが肌艶が良く、もっと若く見られることが多い。

 見た目通り、大聖教司グスタフは生真面目な男だ。

 ヨキアムの拷問が目に余るものがあると物申しに来たのである。ヨキアムが世情に合わせて秘密の部屋から日の当たる部屋に拷問場所を移してすぐのことだった。

 そこで、ヨキアムは滔々と拷問の正当性を語ってやった。

「君も知っての通り、最近の魔族の跳梁跋扈は目に余るものがある。彼奴らは元々自身の罪深さから息をひそめて生きていた。だからこそ、我ら光の神のしもべは彼奴らを生かしておいてやったのだ。それがどうだ。ここへ来て突然、のさばり出した」

「うむ。それは常々疑問に思っていた」

「だろう? 何があったのか気になる。我々はそれを解明する義務がある」

「だからこその拷問だと言いたいのか?」

 苦々し気な表情ではあるが、怒りは静まった様子だ。あともう一押しだと内心ほくそ笑む。

「そうだ。それに拷問が一種の抑止力ともなろう。大事の前の小事だ」

 多少の犠牲は致し方がない。しかも、対象はにっくき魔族だ。嫌いな者は積極的に酷い目に合えば良いというのは多くの者が抱く感情だ。他人の痛みに鈍感で、かつ、感情が先走る者が陥りやすい心情であった。

 貴光教内部でも良識派のグスタフはそうではなかった。しかし、相手は同位の大聖教司だ。自身の立場を危うくしてまで反対するほどではない。念のため、はっきりさせておかなければならないことだけ口にした。

「我ら教義は清浄。血で汚すことがあっては……」

「おや、グスタフ師は知らないのかね」

 片眉を上げて殊更おどけた表情を作って見せる。

 彼らの拷問の代表的なものとして金属ねじを使うものがある。

 金属製のねじで、被疑者の骨を潰したり砕いたり引き離したりするのだ。

 ねじを使う理由としては、清浄を良しとする教義から、血を流すような拷問は忌避されたことが挙げられる。

「どんどん締め上げていくこの方法はね、苦痛を徐々にしかも固定的に永続させるのに好都合なんだ。骨が抜けたり砕けたりするように工夫されたのだよ」

 だからなるたけ血を流さないで済む、と愉悦を持って語るヨキアムを、グスタフは不気味そうに見やる。

 他に、ハルメトヤでは刑の執行の場合でも、なるべく血を流さないことを推奨とされていた。そのため、車輪による刑などが採用された。これは大きな車輪を上から打ち下ろして骨を粉砕し、体をめちゃくちゃにした。更には車輪に乗せて括りつけて晒すといったことまで行われた。この車輪は太陽を模し、光の神の裁きであるという意味もあった。大陸東から伝わったとされている。

 グスタフはヨキアムの長広舌に気味悪そうにそそくさと退室した。

 ヨキアムはこの日、グスタフと語り合ったことを契機に拷問の歴史をもっと知ろうと調べ、結果、古い書物から串刺しという拷問を知る。

「なんて美しい!」

 魔族を排除しようとする傾向を盾に、自身の性癖を余すことなく楽しんだ。狂人の所業だった。不幸にして、止める者はいなかった。

 精神疾患があることは明らかであるのに、神への敬虔さは本物であり、何より地位があり権を持つことが災いした。



 イルタマルは初めは貴光教の頂点に立つ大聖教司であるヨキアムに逆らうことが意味するものをよく分かっていたから、そのおぞましいことに付き合っていた。ところが、徐々に自身の性癖を満足させることへシフトしていった。

 魔族は男女ともに見目麗しい。

 忌まわしい魔族の女はたっぷり痛めつけてやれたし、見目良い男はじっくり可愛がってやった。

 イルタマルはぽっちゃり目の体つきと円らな目、可愛い声がチャームポイントの女性だ。ポイントが幾つもありすぎて、我ながら魅力にあふれていると思う。もう中年の域に達しているのに、二十台に見られることが多い。実は以前は結婚し、子を儲けたこともあった。残念ながら、夫とは別れ、子供は失われてしまった。

 彼女は特別だった。

 声が聞こえるのだ。

 無論、彼女しか聞こえない声だ。

 そんな他とは違っている彼女は貴光教の本拠地でも順調に出世した。

 ところが、最近のヨキアムの拷問は常軌を逸していた。

 地下の暗く埃っぽい穴倉から地上の明るい部屋に移ったことはありがたいことこの上ないが、あれは人の体を痛めつけ、苦痛に引き裂かれるのを見るのがこの上なく楽しいという部類の人間だ。恐らく、そこに快楽を感じるのだろう。

 繊細かつ正常なイルタマルの神経では理解し得ないことである。

 そこで、イルタマルは酒を飲むことでやり過ごした。

 でっぷりとした体はより一層膨らむ。当の本人は気づいていなかったが、気が小さい彼女は知らず気に病んでいた。

 これまで手を貸したことが積み重なり、精神を苛み始めたのだ。

 彼女が散々他者に行っていたことに比すれば些少なことでしかなかった。




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