7.暗雲
おお、神よ
偉大なる神よ
見よ、蒙昧な者どもよ
絶望がひたひたと押し寄せる
讃えよ神を
崇めよ神を
主へ絶対の忠誠を
心身を捧げよ
おお、神よ
偉大なる神よ
大陸西を席巻する流行り病は猛威を振るい、屍を築き上げている。
貴光教はその特効薬を開発したと発表した。
そして、広く行き渡らせるように商人に下げ渡し、販売を依頼した。その任を受けた商人が売り出したものの、素材が高いせいで非常に高額であった。
それでも助かりたい一心で買い求める人は少なくなかった。その多くは王侯貴族か裕福な者たちばかりで、一般庶民は凶作と天変地異により、食べるのが精いっぱいだった。
貴光教は一連の凶作、巨大竜巻、地震、豪雨、氷の嵐などは神の怒りの徴であり、それらは魔族に起因するものであり、放置していればより一層酷くなると声高に喧伝した。
普段であればそれに耳を貸す者は少なかっただろう。
だが、人心は乱れ、その不安をあおられた。また、飢えや先行きの心もとなさもあり、働いても努力しても少しも改善が見込めない。それらの怯え、苛立ち、恐怖をぶつける先を探していた。
そこに貴光教の主張が嵌まり込んだ。
実際に、神がお怒りなのではないか。
それに自分たちが巻き込まれるなどまっぴらごめんだ。
情勢の不安定はスタンピード寸前にまで高まっていた。
貴光教は不浄を排除という名目を掲げていたが、その実、嫉妬していた。
それまでと同じく縮こまって頭を低くして生きていれば良いものを、魔族は積極的に行動し始めた。商取引が増え、その高い魔力を武器に、技術向上の意欲もあり、諸国の商人たちが重要な取引先とみなし始めていた。
食や音楽と言った娯楽にも関心が強く、他国の王侯貴族が高い水準のそれらを求めて群がった。
貴光教は罪の意識から解き放たれ、生を積極的に過ごすようになった魔族を忌々しく思うことを抑えきれなかった。
そこへ初見の流行り病が蔓延し、天変地異に各地を荒らしまわる非人型異類の登場だ。すべて神の怒りであると見なし、魔族への糾弾の舌鋒は鋭さを増した。
「光の神の世界のためには繊影すらも許されぬ」
天変地異への理由を明確にし、何より流行り病の特効薬を作成したことから、一時的に信者が増えた。
アリゼは研究を一旦中断し、流行り病の特効薬作りに参加していた。
植物や鉱物、動物の素材を水やアルコールといった溶媒に浸して含有成分を溶かし出し、その後に濃縮したものをエキスという。
これを行うために固体を液体にたり、液体を気体にする。逆の手順もある。
通常の乾燥させるなどの簡単な処理では危険な毒性が弱まらない薬草がある。毒を以て毒を制す。毒があるからこそ、強力な病に打ち勝ち得るのだ。そういった毒性の強い薬草は食塩に浸して加熱したり、高圧蒸気処理をするといった修治を行い、毒性を低くして用いる。
流行り病の特効薬も毒性が強い薬草を複数用いるため、修治が必要で、神経を使った。専門知識がない者や経験がない者は除外されたため、そう多くはない人数がこの作業に当たる。他の者は必然的に雑用に回った。勢い、新参者が指示する立場になる。
アリゼは居心地の悪い立場に立たされたが、気にしている間はない。
研究が中断するのは断腸の思いだった。
水銀、硫黄、そして塩という三原基の他、酸化鉄や鉛、銅といった金属を用いた薬の研究を進めていた。
だが、流行り病の大陸西を駆け巡る速度は速い。特効薬を作ることが優先された。
同時に「特別な薬」もいつもよりも多く作らねばならなかった。
「特別な薬」がもたらす心の平穏を求める信者が多く、最近入信した者たちの多くはこれが目当てとも聞いている。
神の奇蹟を体験させるとともに、最高の鎮痛薬、鎮静薬でもあったからだ。
信者を意のままに操るために作られた「特別な薬」は、有事には救済となった。
どれほど細心の注意を払ったとしても、一個のさく果から得られる「特別な薬」に用いられる成分はそう多くない。人一人分に対して用いるのは十数本、下手すれば二十本以上必要となって来る。
さく果に傷をつけ、へらで薬効成分がある液を掬いだしていく。これを延々と繰り返すのだ。気が遠くなる作業だ。しかし、慣れた作業でもあった。
「特別な薬」は貴光教の秘薬であり、エディスでも栽培し、精製していた。あの薬草園の薬草は元気に育っているだろうか。天変地異が各地で起きているが、エディスに大打撃を与えたとは聞いていない。
液を乾燥させた後に煮詰め、漉し、灰と共にさらに煮詰めると柔らかい粘土のようになる。これを魔道具の香炉で焚きしめる。この時、触りすぎると硬くなり、煙が出ず、直接火に触れさせずに熱してやる必要がある。取り扱いにある程度の練度を必要とされ、仄かな煙を立てるのを見るといつも安堵する。
その香りを吸い込んだものは浮世の憂いを一時忘れて神の存在を身近に感じることが出来るという。
「上手ですね」
無心にさく果から乳液を集めていると、声を掛けられ、危うく液の入った容器を落としそうになった。
「いきなり声を掛けないでください、ロランさん!」
振り向いて金髪の男を見上げて眦を吊り上げる。
「す、すみません」
肩をすぼめて謝罪する姿は色男が台無しだ。いや、こういうのが母性本能を刺激するというのを聞いたことがある。あれは食堂でだったか、就寝時間前のことだったか。貴光教の本拠地内部でも外の世界の天変地異や流行り病の影響は色濃かったものの、女性たちはそれでも明るく姦しかった。賑やかで溌剌としている。暗い現実に負けない健全さにアリゼは救われていた。
「手伝いますよ」
背嚢を下して中を引っ掻き回し、道具を取り出す。
流石は放浪の聖教司と称されるだけあって、いついかなる時も薬作成ができるように道具を所持している。
「良いですよ。旅から戻られたばかりなんだから。少し休まれた方が良いのでは?」
「いえいえ、私など、旅から旅で、各地で薬を作っては配っているくらいなので」
自然災害が多発している最中に旅をして、少ない物資で薬を作り配布していることこそがすごいのだ。不安に苛まれる村人たちにとって、それはまさしく救いの光に等しいだろう。
「アリゼさんこそ、ちゃんと休息や食事をしていますか? 「特別な薬」だけでなく、流行り病の特効薬を作る方も手伝われているとか。研究の方は停止してくださいね。貴族のサロンにも出入りして色々と作られているんでしょう?」
不在だったのによくアリゼの行動を把握している。
「良く知っていますね」
ロランが心配してくれるのがくすぐったくも有り難く、そして、後ろめたい。ロランは貴光教の良心でもあるようにさえ思えた。
「ええ、まあ」
良心は歯切れ悪く答える。
「ああ、戻ったからあの方に報告をされたんですね」
善い行いをするのだとしても、それなりの力を必要とされる。その力を借りた大聖教司の求めるまま、ロランは各地で彼の耳目となって情報を集めた。貴光教の暗部、犬目と揶揄される黒の同志たちの怪しげな風体では知り得ぬ、村人の開いた胸襟から得てくる情報は得難いものがあるのだろう。
そのお陰でアリゼはロランの引き合いによって大聖教司オルヴォの一声で研究に携わることが出来た。当たり前に、ある程度の成果を要求されたし、アリゼの動向も掴まれることになった。
ロランは帰って来てまっすぐにオルヴォの下へ報告しに赴き、アリゼのことを聞いたのだろう。
本人不在の場で噂話に興じましたというのは気持ちの良いものではないだろうという気遣いを見せ、ロランは話題を変えた。
一つひとつ手作業で乳液を集めながら、外界の出来事に耳を傾ける。
天変地異に流行り病、人々の暮らしぶり、ロランが語る出来事は暗雲が立ち込めていた。
「こういう時こそ、人々は光を欲するでしょう」
ロランの言う通り、心のよりどころを必要とするだろう。
だからこそ、自身のしたいことばかりしたり、思い通りに我を通そうとする者ばかりの貴光教内部に歯がゆく思うのだ。
そんなことをしている場合なのかと。




