60.疑惑/双星たるために
長く生きてみるものだ。
オルヴォはまさか、ヒューゴが人に剣技で退けられることがあろうとは思いもよらなかった。
オルヴォは幼少期を、生きるために苦労して過ごした。
神への愛以外に何も持たなかった彼は情報を上手く扱うことによって劇的に状況が変化していくのを幾度も目の当たりにした。それからは情報を得ることに執着し始めた。流石に山脈の向こうの大陸東のことは中々入ってこない。
ヒューゴにも強いてあちらの情報を得てこなくても良いと言ってある。それでも時折もたらす事柄を聞き、家族に心を馳せることもあった。
オルヴォの第一は神であり、肉親と隔絶した今は唯一と言っても良い。あくまでも、情報は神の御為にすることに役に立つ手段である。ならば、家族へのこの気持ちは何だろうか。そう考えると少し不思議な面持ちになる。
オルヴォが突き詰めて家族への感情を考えていれば結果は違っただろう。しかし、聡明なオルヴォはこの時ばかりは目が曇った。
聖職者は殆どが家名を名乗らない。世俗から切り離され、全ては神を信奉することに捧ぐからだ。そんな中、オルヴォがカヤンデルを名乗るのはあまり良く思われなかった。その上で頂点に上り詰めた。彼の神への愛は誰も疑いを持たない。
重傷を負ったヒューゴは応急処置を受けた後、動くことがままならぬ体でオルヴォに報告しようとした。オルヴォが情報を重要視していることを知っていたため、すぐに注進しよとしたのだ。
そこで、オルヴォは気軽にヒューゴの枕元までやって来て報告を受けることにした。
恐縮しきりの部下から話を聞き、良く休み、しっかり治せと言い置いた。
ヒューゴがイレルミに対して恐怖心を抱いておらず、冷静に見えるのは流石である。その本性は苛烈な光だ。自分が翳ることを好まないだろうことも熟知していた。放っておけば、何かしら狩ってくるだろう。
そして、それらは全て神の御為になる。
「こたびの結果でカヤンデル大聖教司様に何らかの影響がありますでしょうか」
危惧するヒューゴを一笑に付した。
「三番隊の補填についてはエルッカ師に出して貰うが良かろう」
平然と言ってのけた。
エルッカが非人型異類による各地の被害を、暗部を動かして鎮圧しようとした。それを利用するという。異類憎しが高じての挙動だが、その命令のために三番隊が機能しなくなるまでに追い込まれたとするのだ。
オルヴォの方針を聞き、ヒューゴはすぐさま隊員たちにも口裏を合わさせた。
一番隊隊長と二番隊隊長には幻獣のしもべ団とぶつかることを話していた。その点に関しては幻獣のしもべ団と闘う前に無辜の民を襲う非人型異類を討伐せんとしたとでも言っておけば良い。
アントンもハンネスも疑心を抱くだろうが、ヒューゴにはどうでも良いことだ。
三番隊の隊員たちは相当肉体的精神的に疲弊している様子だった。けれど、その目は完全には死んではいなかった。自分が鍛えて来ただけはある。
ヒューゴは病床で一人、暗い笑みを浮かべて再戦を誓う。
オルヴォは自室へと戻り思索の海に沈んだ。
自分の切り札の一つとも言えるヒューゴを下す者ですら翼の冒険者に膝を折る。そのヒューゴをして、幻獣たちは一筋縄ではいかぬという。しかし、当の翼の冒険者は武力を持たず無防備で、にもかかわらず、短期間のうちにエディスの英雄といった二つ名を得ている。異界人という不思議な異能を持つという報告は受けている。他の異界人についても調べさせたが、翼の冒険者のような力を持つ者はついぞ現れない。
人には為し得ない力が備わっていると見て間違いないだろう。
オルヴォは似たような者を知っていた。
ロランである。
彼は風の精霊の加護を受けているので相当な知識を持ち、また、危険なこの世界を一人流浪することを可能にしている。
この世の根源、あらゆる力の粋である精霊。
天に唾吐くというが、神々でさえ精霊には首を垂れる。精霊を自身の存在は自身の力の源であるからだ。それを疑うこと、自己を滅することと同じである。
人はその力を得ることを求めるも、存在自体が不明瞭で姿を見ることも声を聞くことも稀であった。精霊の加護を受けた幻獣といった都市伝説のような話の中に、真実を宿す小話もある。情報が短時間で正確に伝わらなく、識字率が低い世の中では流言飛語が蔓延していた。その中で真実を拾い出すことは並々ならぬことだった。
精霊の力は人どころか神ですら手に入れることが困難なものだった。
だから、どこそこの森の中にある泉に精霊の力が宿ると聞けば人は大挙し、そこここの遺構で精霊の力が宿る魔道具が発見されたと聞けば人は勇躍した。
それは莫大な富と権力をもたらすと信じられた。
欲得尽くだけでなく、ただ神ですら手にすることができない力というものに憧れる者もいた。
貴光教は光の神を唯一絶対の存在として祀っている。世界の力の根源たる精霊というのはお伽噺と認識されている。
オルヴォはシアンが精霊の加護を持つことを結論付ける。
それはロランという精霊の加護を得たものを身近に見ていたからできたことであった。情報は知識を授け、更なる情報を呼ぶ。なので、オルヴォは違和感を覚えてもいた。ロランよりもより自由度が高く、加護が強いと思われる。
もしや、複数の精霊の加護が?
オルヴォは知らず震えた。
ますます目が離せなくなる。翼の冒険者への関心が否が応にも高まる。
エルッカは苛立たしい気持ちのまま従者や労役係を怒鳴り散らした。
自分は偉い。
神の御為に様々なことをしている。
だから、このくらいのことをしても許される。
なのに、彼らは不満気で嫌そうな顔をする。
エルッカの顔を見た途端、回れ右をして避ける者さえいる。
誠に嘆かわしいことだ。
エルッカの洗礼を受けてなお、有難い激励を糧に前へ進むことができてこそ、真の聖職者の道を進むことが出来るというのに。
エルッカは自分の怒りが正当で、口汚く罵り、喚き散らすのは上に立つ者として当然のことだと思っていた。そうすることで脆弱な下の者の精神を鍛えているつもりだった。
にもかかわらず、周囲のぼんくらどもは彼の崇高な考えを、その深い意味を読み取ろうとしなかった。彼がすることをあるがままに受け入れて当然だというのに。
「だから、いつまで経っても成長しないというのだ!」
彼の部屋には彼以外は誰もいなかった。
八つ当たりされ、みな、這う這うの体で退出していった。
エルッカがその慈悲の気持ちから汚らわしい暗部を動かしてまで行った非人型異類討伐の命令が仇となった。
「ふん、精鋭ぞろいが聞いて呆れるわ」
しかし、どう喚き散らしても、三番隊が壊滅に追いやられた事実は変えようがない。
「何故、民のことを思い、命を下したわしが責められばならんのだ!」
責は他人に、功は自分に、が貴光教のスタンスである。彼はそれを実に忠実に体現していた。
「ああ、腹の立つ! あの堅物めが大きな顔で説教したのも腹立たしいわ!」
同じ大聖教司の地位にあるグスタフの来訪を拒む訳にもいかず、話を聞く羽目になったが、言うに事欠いてヨキアムを引き合いに出したのだ。まだ自陣に被害を出さないだけ、奴の方がましだと言い放った。
エルッカは足を踏み鳴らし、顔を真っ赤にして憤った。いわゆる、地団太を踏むというやつである。
そして、何としてでも奴らの鼻を明かしてやると誓うのだった。
人を宿主にする寄生虫は人の体内でしか卵を産めず、成長することもできない。何らかの理由で他の動物の体内に入ったとする。彼らにとって、そこは住み心地は良くない。
同じく、寄生虫異類もまた、居心地の良い動物とそうでない動物がいるのだ。
非人型異類がそうだ。
だから、強い異能を持つ宿主となり得ない。
人型異類でもその異能が知性などに偏っていれば寄生しやすい。
魔力が強かったり精神力が高いと寄生しにくい。
貴光教内部で口では神の愛を謳う聖職者たちは自分の孫に操らせることができた。
聖教司を操って翼の冒険者と対立させようとした。
翼の冒険者が自分たちを狙っていて、いつ仕掛けてくるかわからないと散々聞かされていた。そして、実際、様々に教えてくれた同族は休眠を強いられている。いつか自分も追い込まれるのではないかという恐怖を抱いていた。
今使っている聖教司が使えなくなっても、ここは権力を持ち、自分の感情の赴くまま好き勝手することが許される場所だ。宿主を選びたい放題だ。
しかし、聖職者たちのトップは操ることが出来なかった。
中には卵を産み付けることに成功した者もいたが、育たなかった。神への一心の愛によってその精神は強固な鎧に覆われていた。
魔獣を宿主としたこともある。その際、毒素を吐き出すことなく、魔獣から栄養分を貰い依存して暮らしていた。ひょんなことからその魔獣は倒され、その肉は食べられた。そこから、別の宿主に入り込むことになった寄生虫異類は戸惑った。そのままうろうろと見知らぬ場所、つまりは新しい宿主の体内を探し回った。時に、皮膚の近くを這いまわり、コブが躍っているかのように見えた。それを上から叩き潰されそうになって必死になって逃げた。上の方へと。脳へと到達した異類はそこで身を潜めつつ、脳を食べた。脳の一部を取り込み、同化した。やがて、その思考に影響を及ぼすようになった。
その宿主は左耳が顕著に大きくなった。
同族の非人型異類はこれで自分を見つけやすくなるだろう。
同族は今、消耗し過ぎて休眠状態に陥っている。
もうしばらくしたら目が覚めるはずだ。
寄生虫異類は気づかなかった。
自分の宿主がほぼ地下の研究室に籠り、人と接触しないでいるということに。人間のすることは不可解なことが多いという程度の認識で、深く掘り下げてその行動様式を知ろうとしなかった弊害である。
それにしても、先日、薬師見習が作ったという薬草は臭いが酷かった。あれをずっと嗅がされていたらどうなったか分からない。本能が激しく拒否を示した。
突然、暴れ出したアーロの剣幕に、薬師見習は驚いた様子だった。その薬師は今はいわゆる「神の御許」で薬づくりに励んでいることだろう。
ラウノは紙一重の所で除け、剣を振るった。
アリゼが処方した薬を服用してから、身体能力が飛躍的に上がった。
四肢はこんなにも自在に早く動くものだったのか。どれほど動いても疲れを感じない。
まだだ。
まだ足りない。
これではあの男には届かない。あのヒューゴすらを退けたのだ。
アリゼに何度か言って、強い薬効のものを求めた。それらは徐々に体に馴染み、成果を現した。
ふつふつと湧く充足感の中に漂うむなしさ。けれど、目的のためになら、虎狼にもなろう。
ラウノは得た力が馴染むにつれ、手ごたえを感じた。嬉しさと同時に後ろめたさも味わった。
体が軽く手にした剣は自在に動く。相手の動きが微かな空気の震えで判る。それを読み取って動いても十分に間に合う。踏み込み、剣を薙ぐ。その剣を掴む白い手袋が視界に入る。
ラウノは不思議だった。
何故、まだ白いのだろう。
エイナルは今際の際に赤い手袋をつけてくれと言っていた。
なのに、どうしてまだ到達していないのだろう。
しかし、この男には届いた。
ラウノは無機質な瞳で剣聖イレルミを見た。
驚愕に目を見開く彼は今しがたラウノが負わせた傷によって、速やかに後退した。敵ながら引き際も見事だ。
それが何なのだというのだ。
ラウノはその場で立ち尽くしながら、空っぽな瞳で手袋を見つめ続けた。
燦たる双星は一つになってもなお、同じだけの光量を発しようとした。それは叶った。驚異的である。しかし、為すためには相応のものを要求された。




