45.狭まる包囲網
貴光教神殿の朝は早い。
一日の始まりを告げる陽の光を眺めながら礼拝をするのが習わしだ。
その後、息をつく間もなく洗濯掃除調理補助畑仕事などを手分けして行う。どこの神殿もそうだが自分たちが食べる野菜は自分たちで育てる。神殿の敷地内の奥まった場所には畑や洗濯物の干し場があるものだ。
朝食を摂る前に一仕事を済ませておく。
ヨセフィーナはとうとうそれも免除されつつあった。
礼拝の後、特別に残って祈りを捧げたり聖教司の説法を聞いたりするというのだ。
実際は聖教司も忙しく、次の職務を行うために出て行く。
残ったゴスタやヘイニと雑談していることが多い。
それを完璧に隠せば良いものを隙が多く、目撃者は多数いた。
一度、聖教司に用事を言いつけられて礼拝が終わって随分経った後に礼拝堂に労役係が顔を出すと、慌てて、彼女は体調が悪いのだとか自分たちの用事を手伝って貰っていたのだとか言い訳した。
労役係はただそうですか、とだけ返したが、翌日からはゴスタやヘイニによってよりきつい仕事を割り振られることが多くなった。
「もう、本当に嫌になるわ。下手に関わりたくないわね!」
労役係は憤懣やるかたないといった風情でアリゼに漏らし、不条理をやり過ごしていた。
同じ労役係はそういった目に合った者は何人もいるが、できるだけ避けるようにしても、避けられているとヨセフィーナがゴスタとヘイニに泣きつけば苦情を言われ、同じように嫌な仕事を割り振られる。
素晴らしい女性として持ち上げなければならないので、順番に適当に褒めてやり過ごすことにしているそうだ。
「大変ね……」
「そうよ。良いわね、アリゼは薬師の仕事が忙しいから関わらなくて良くて」
「本当、羨ましい!」
「私も頭が良ければこの地獄から解放されたのにっ」
正式なチームではなく二人だけの小さい研究チームではあったが、大聖教司オルヴォの庇護下で研究するというのは周囲に確固たる地位を見せつけたようだ。
ヨセフィーナには時折すれ違った時に声を掛けられるが、ゴスタやヘイニに絡まれることはなくなった。ヨセフィーナがアリゼのことを言及しているかどうかは不明だが、縦の人間関係に過敏なゴスタがアリゼに何か言ってくることはほぼないだろう。
同年代の労役係は大変そうで同情せずにいられないが、事実、彼らに煩わされることがなくなっただけ有難い。
情報源であるクイスマを失った今、黒の同志であるエイナルやラウノが非人型異類の討伐で忙しくしているのでそちらも頼れない。アリゼは次の情報源として貴族の女性イヴォンヌと付き合い、彼女の我儘に対応するので手一杯だ。
その他、薬師として薬草園の仕事や研究がある。
一つでも懸案事項がなくなってくれて楽になった。
イヴォンヌのもたらした情報の中には翼の冒険者やその支援団体に関するものがあり、アリゼの心に温かい灯りを点した。
彼らは各地で被害を出す非人型異類を次々に討伐していき、評判が高いのだそうだ。
「どこかの小国の貴族の後ろ盾を得たという噂もありましてよ」
「まあ、すごいのですね」
「そうねえ。貴族というのはとかく退屈しているものですの。面白いものにはつい飛びついてしまうのですわ。幻獣を連れた人間というのは格好の話題ですもの」
そこに上手く取り入ったのだろうと笑うイヴォンヌに、シアンはそんな人間ではないという思いを茶と共に飲み下す。狭い社会でしか生きられない者では推し量れない人間なのだ。彼女は幻獣と音楽を楽しみ笑い合うことなんて、想像だにしたことはないだろう。
「そうそう、ルシール嬢のことですけれどね。今度は……」
笑顔で相槌を打ちながら、アリゼは狂暴な非人型異類と対峙するシアンが無事であることを祈った。彼の心の安寧のために、幻獣たちが傷つくことがないように祈る。
それは毎日貴光教の礼拝堂で行うものよりもよほど純粋で敬虔な祈りだった。
エディスの黒の同志たちは幾度も幻獣のしもべ団に退けられたことと魔族に押されがちになったことにより、規模を縮小していた。
幻獣のしもべ団を追い回す執念には狂気を感じるほどだったが、いかんせん、手が足りない。トップを挿げ替えてもその趨勢を変えることはできなかった。
「気になるか?」
「気になる? どうして?」
身支度をするアリゼの肩を後ろから揉むように撫で首筋に鼻先を埋めたイシドールに素っ気なく返す。
「君の古巣だろう?」
「そうね。でも、あまり良い記憶がないの」
「そうか。では、この話題は止そう」
アリゼの機嫌を気にしてイシドールは次の話題に移る。
貴光教内の大聖教司同士の諍い、その四本の系譜に連なる聖教司以下神殿の者たちの勢力争いを滔々と語る。
アリゼは何となく、どこかに傾いて不可逆の方向へと突き進んでいるように思えた。漠然としていてどういった方向なのか、そこへ行きつくとどうなるのかは分からなかったが、そこへ行ったらもう戻っては来られない、そんな気がした。そう仕向けているのは大聖教司の誰かか、はたまた、それを陰で操る者でもいるのか、王侯貴族の誰かか、もしくは他属性の神殿か。もしかするといずれかが手を組んでいるのかもしれない。だから、複雑化して全貌が掴めないのかもしれない。
それは何事にも理由を見つけたがる陰謀説に過ぎなかったが、アリゼはそういった思考に捉われずにはいられなかった。調べれば調べるほど、危うい均衡の上に立つ宗教に想えた。
神託の使者を僭称した彼は逃げ出した先で、翼の冒険者を見かけた。
非人型異類を討伐したとかで、街中で噂されていた。すぐに誰だかわかった。彼はグリフォンや馬、ロバの他、多くの動物や幻獣に囲まれていた。
特に、幻獣グリフォンだ。
あれほどの大きい巨体で体重を感じさせない動きを見せる。彼はわざと翼の冒険者一行とすれ違ってみた。その際、するりと隣をすり抜けて行ったあの感覚。
意志のある眼光、く、と下方に落ちた嘴の先端、しなやかに動く首、筋肉が隆起する体、鋭い鉤爪、全てに圧倒された。一つひとつが美しく、これこそ、神が造り給うたものだ。
彼はその街で翼の冒険者の噂を集めた。
そして、幻獣のしもべ団という翼の冒険者を支援する団体があると知り、一も二もなく入団しようと思った。調べてみたところ、密偵集団というではないか。あちこちで嗅ぎまわるのは得意である。その得意技を駆使して、彼は何とか幻獣のしもべ団の仮団員になることができた。初回の審査ではねられる者も多くいる中、上出来だった。
正式な団員になる前に翼の冒険者に話し掛けてはいけないと言われたし、正団員となっても街中でみだりに声を掛けてはいけないとまで言われた。
ただし、翼の冒険者と親しくする者であれば例外のようだ。つまり、これらのことは翼の冒険者は与り知らぬことなのだ。
彼は実は仮団員になる前に翼の冒険者に話しかけたことがある。噂負けしていて、グリフォン頼みで、本人は何てことないと思った。
屋台で行列に並んだのを見かけてそのすぐ後ろについた。
暇を持て余して話しかけた風を装って、この街の名物料理を紹介してやったら話に乗って来た。随分気さくなんだなと驚いた。噂される討伐の功から居丈高な者をイメージしていたのだ。
話してみると普通に良い人間だった。幻獣を褒めると嬉しそうだった。
嬉しくなって、自分も小さいころ、犬を飼っていたことまで話してしまった。
子犬三匹がバスケットに詰め込まれていたが、実は幻獣で人間と同じものを食べるのだというのに仰天した。彼の大げさな身振りに翼の冒険者が笑った。
何だ。
英雄だって言っても普通の人間じゃないか。普通に話が弾む、良い人間じゃないか。
小悪党の彼は何かしら悟った気持ちになる。
彼は幻獣のしもべ団の古参の団員に実は貴光教に潜り込んだことがあると話した。
「俺も善人とは言えないがね、もっと悪どい奴がいましたよ」
「「神託の御使者」とやらを名乗るのは何人もいたんだな?」
「ああ。その中には本気で自分が使者だと信じている者もいたっす」
彼は敬語があやふやな言葉を切って息を吸い込み、唇を舐めた。
一か八かの賭けだった。
幻獣のしもべ団は入ってみれば、規律はそう厳しくもないが、無法者の集まりとは到底異なる。身なりや立ち居振る舞いにだらしないと注意を受ける。そこらの飲んだくれの警邏よりもよほど立派なものだった。
その彼らに嘘をついて貴光教の内部に入り込んだというのを知れたら、そんな無頼漢は置いておけないと言われるか、それとも情報源とされるか。
「それで、貴光教のやつらが幻獣のしもべ団に注目しているというのは?」
問われて、彼は逃げ出すときに盗み聞いた話を懸命に思い出す。
「こんな忙しい時に。幻獣のしもべ団なんていう得体の知れない相手をどう調べれば良いのか分からなくて大変なのに、あの方は思い付きで好き勝手喚いていれば良いんだから楽で良いよな」
「自分が思ったらすぐにできないと腹を立てるなんて、子供か!」
そんな風に話していた。
彼は問われるまま、神殿内部の構造や人の出入り、様々な物の位置関係、果ては礼拝の様子などをも問われ、記憶を掘り起こしながら話した。
情報をもたらしたとされるかどうかは、相手の性質が掴めていないので分からないところだった。
「なるほど。有用な情報だった」
彼は賭けに勝った。
拳を握り締めてガッツポーズを取る。
「あの、これで仮団員から正団員になれるっすかね?」
「ああ。査定に加味するよう付け加えておく。また何か思い出したら教えてくれ」
彼に質問した男は見るからに武力を持たなく、聞けば後方支援担当なのだという。それがこうやって人事にも関わることができる。有能であれば取り立てられるということだろう。
緊張から解き放たれ、彼は機嫌よく街を歩き、ふと通り過ぎた路地に何か動くものを視線の端で捕らえて戻った。
普段なら、妙なことに関わり合いになって厄介ごとに巻き込まれることを恐れて無視して通り過ぎただろう。しかし、彼は翼の冒険者の支援団体に入団する男だ。いわば、正義の味方だ。気になったことをきちんと見定めて報告すれば、更に株が上がるかもしれない。
彼が路地裏を歩き進むと、ばさりと後ろで音がした。布が翻る音に振り向けば、闇が拡がっていた。
そして、彼の意識はそこで永遠に途切れた。
自分の人生はこんなものなのだと思いつつも、常にもっと何かを成し遂げたいと願っていた。力を注いで奮闘して、それに見合う成果を得て自分が心から誇らしいと思ってみたかった。それがようやく見つかったのかもしれないが、他者の思惑から突然その生は絶たれた。
唯一、救いだったのは、彼が希望に満ちたまま、死ぬ瞬間も眩い途の中で自分の生を奪われたと気づくことなくこと切れたことだった。
これが幻獣のしもべ団の第一の死亡者となる。
この危険な世界で神出鬼没の団体が初めて出した死者だ。驚異的な保全力だ。
それだけ、トップが安全第一を重要視していたのだ。
幻獣のしもべ団がアルムフェルトの貴族の後ろ盾を得たと聞いて、看過し得なくなった。
早速、とある街でみつけた団員を手に掛けた後、死骸のすぐ傍の地面に黒い布切れを短剣に突き刺しておいた。造作もないことだ。幻獣のしもべ団はさぞかし臍を噛んだことだろう。
連中が馬鹿でなければ、死体の傍の合図の意味が分かる。それが戦端となるのだ。
黒の同志たちは全面対決に入る。エディスの黒の同志のようなぬるい仕儀では終わらせない。
一番隊、二番隊の隊長に三番隊隊長ヒューゴがそう宣言した。
「何だと? 聞いていないぞ!」
「勝手なことをするな!」
「これは決定事項だ」
誰の決定かは明白だ。ヒューゴが大聖教司オルヴォの子飼いなのは自他共に認めている。
こんな狂犬を飼いならすオルヴォにいっそ呆れと尊敬の念を抱く二番隊隊長ハンネスは唸る。
「幻獣のしもべ団を使って翼の冒険者を心理的に追い込むのだ」
「どういうことだ?」
「かの者は手下の安全を掲げている甘い夢想家だ。ここいらで現実を見せてやって、その内実を詳らかにしてやろうと思ってな」
「翼の冒険者について調べているのか?」
一番隊隊長アントンは背が低いががっしりした体格で筋肉がついており、太い腕を組んで見せた。対照的にハンネスは背が高く細身で、全身がばねで柔弱な風情はない。頭髪をきれいに剃っているのが特徴だ。
「そうだ。遠くない未来、我らの前に立ち塞がらないとも限らない」
「それは単なる予測だろう?」
「実際に塞がれた後では遅いだろう」
貴光教の明日をより良いものにするためだとうそぶくヒューゴを、胡乱気に見やる。白い視線に動じず、三番隊隊長は隊員を引き連れて出掛けて行った。
「ちっ、行きやがった!」
「相談どころか、自分たちの通常任務を押し付ける宣言をしただけじゃないか」
その理由を聞いたところ、先ほどの答えが返ってきたのだ。
「翼の冒険者だ? 何故、そんな者が出てくるんだ?」
ハンネスは遠ざかっていく後姿が見えなくなった後、頭を抱えた。
「いや、そういえば、うちの隊のエースをエディスの同志たちに貸し出した時、翼の冒険者の支援団体と戦闘になったと報告を受けている」
「そういえば、そうだったな」
一番隊の槍の名手をしばらく派遣したのだ。
「連中、翼の冒険者が連れたグリフォンが神託の御方だと信じていたが、よもや?」
「まさか。だったら、大聖教司様たちが黙ってはいない」
アントンの言葉をハンネスは言下に否定する。
「だからよ。この一件、ヒューゴの後ろに坐す方の指図ではないか?」
大聖教司の一角、オルヴォのことだ。
「すると何だ? 本当にグリフォンが神託の御方だってのか?」
「いや、まだそこは分からん。ヒューゴもその背後の方も分かっていないのかもしれないな」
アントンが首を左右に振る。
「そういやあ、ヒューゴのやつ、翼の冒険者の内実を詳らかにしてやろうとか何とか言っていたな」
「翼の冒険者を心理的に追い込むとも言っていたな」
「おいおい、何を企んでいるんだ?」
途端に不安になってハンネスは落ち着かない気分になる。
「俺らも周辺国に気を配っておこう」
「おう、あちこちへ行って酒場に顔を出しておくわ」
「情報収集の前に酔いつぶれるなよ」
「酒場にしか転がっていない情報ってのもあるんだよ」
こればかりは真面目なアントンにはできない芸当だ。つまり、ハンネスは酒を楽しみつつ任務を全うできるのだ。




