39.しもべと犬目の化かし合い
本拠地から街に戻って来るのに転移陣を使い、神殿を出て暫く歩いていると、イレルミは背後の気配がふと変わったことに気づいた。雑多な無関心だったものに、鋭くひりつく視線が混じる。すぐに尾行されているのだと知り、人気のない路地を選んで足を向ける。
路地の半ばで振り向けば、黒いローブを着用した者が拳を打ち込んでくる。声を掛けることもなく、正しく問答無用だ。
向かって来る拳を手首を捻って勢いを殺し、そのままの流れで腕を掴んで捻ってやる。
痛みにうめく。勢いがついているので相手が痛みに反射的に踏ん張る力がそのままダメージに上乗せされる。
こめかみというのは人体の弱点の一つである。
強打すれば痛みに蹲る。激しい痛みにしばらくはそのまま何もできない。
現に、眼前で黒ローブは声を上げた。
一人を無害化すると、体の向きを変えることによって真っすぐ突き刺してくる短剣を避け、渾身の一撃を繰り出したがためにがら空きになった胴に一発くれてやる。
くの字になって崩れ落ちた者には一瞥もくれず、三人目が繰り出す剣の腹を手の甲でいなしてするりと流れる動作でそのまま懐に飛び込んで顔に強烈な反撃を食らわせる。
鼻が潰され血まみれになった男の胸倉を掴んで腹に膝を入れる。ローブを剥ぎ取り放り、力ない腕を肩に回して半ば背負い引きずっていく。
ほんの数瞬の出来事だった。
イレルミはスイッチが入れば、五感が世界と同化し、意識が広く高く伸びていく。時間の流れがゆっくり流れるように感じる。相手がどういう動きをしようとするか、瞬時に察知することが出来る。
相手の動きが遅く鈍く感じられる。見えている世界が違うのだ。
イレルミは風の属性が強く性格に影響したと自認している。
別大陸へと渡り、風の民と知り合っていつの間にか代表などを務めた。
そんな中、風の神から神殿に下知があったと聞いた。ただ、特定の者に干渉するな、関わるなと。
風の神にそんなことを言わしめる存在に興味を持たない訳がなかった。
それでも、イレルミとて不自由を嫌う風の性だ。
殊更探し回ってその者の秘密を暴き立てようとは思わなかった。
しかし、当の本人が飛び込んできたのだ。
実際に会ってみて、一見普通の人間のようでいて、腹が据わり、不思議なほどの深淵を感じさせる人物だった。この者が心のままに自由に振舞ってほしいと自然と考えた。どこか心地よい軽やかな考え方で超えていく先を見てみたいと思った。
それができるように邪魔をする者を露払いをする。
そうすることが出来る力を有していることに、感謝した。今まさにかの方の眩く続く途を守ることができること、その力を有していることこそが、生きて来た証であり、誇らしくさえ思う。
そしてまた、自由気ままなイレルミが翼の冒険者を支援する団体の中で、押しこめられることなくその性質のまま在れたのは、マウロ率いる幻獣のしもべ団がはみ出し者集団から端を発したことによる。シアンもまた彼らを道具扱いせず、対等な仲間として遇したことから、扱いが難しいと自他ともに認めるイレルミはのびのびと過ごすことが出来たのだ。
取っていた宿に直接戻らず、他の宿を新たに取る。
「あ、あんた、そりゃあ」
「ああ、こいつ、弱いくせに喧嘩なんてしやがって、このざまさ」
まるで連れを介抱する口ぶりで肩を竦めて見せる。
「それで、悪いんだけれどさ。神殿へ伝言を届けるのを頼まれてくれないか?」
宿を取りつつ、そう言いながら、迷惑料込だと言って宿代の二倍の金銭を握らせると、宿屋の店主は気持ちよく請け負ってくれた。
神殿経由で連絡を受けたマウロを見てイレルミは目を見開いた。
「へえ、変装か」
「そうだ。双子にやって貰った。事が事だからな。しかし、思い切ったな」
黒ローブを捕獲しての尋問を行うので事情に明るい者を一人寄越してほしいと本拠地に連絡した。
そこでやって来たのは頭のマウロだ。しかも変装までしてくるという念の入れ様だ。状況判断の適格さに内心舌を巻く。
黒ローブからしてみれば、幻獣のしもべ団を尾行していたのに気づかれて襲い掛かり、返り討ちにされ、更には一人仲間が連れ去られたのだ。大ごとだと受け取るだろう。
「まあな。ここいらで情報を抜いておくのが良いだろうからなあ」
にもかかわらず、イレルミはへらりと笑って何てことない風情だ。こういうやつが平然と大それたことをやってのけるのだとマウロは踏んでいる。
「ああ、シアンから連絡があったティオやリムが感じた黒いのの視線ってやつか」
「幻獣たちが言うなら間違いないだろう」
ティオやリムが妙な視線がシアンに向けられていると訴えたのだそうだ。しかも、一度ではなく複数回で、すぐにその場を離れるようにはしているが、向けられる視線の色合いが不快だとも言っていた。明確にシアンを害する意志を持ち、人間としてはそこそこの実力があるらしい。シアンに気を付けるよう忠告してくれたのだという。そこで、シアンは自分だけでなく幻獣のしもべ団にも何らかの干渉があるのではないかと注意喚起の連絡を寄越したのだ。
「こいつは何も知らない可能性もあるぞ」
縛られ、猿ぐつわを噛まされて気絶している男を足で突く。
「その場合はこちらの思う通りの情報を持ち帰って貰おう」
「なるほどね」
マウロはにやりと笑って見せた。
今回の出来事はイレルミの単独行動で、諜報隊には何も知らせていない。
「諜報隊の連中は汚れ仕事に向いていないからな」
というのがそうした理由であるという。
「俺の他なら誰が適当者だった?」
「ディランやリベカ辺りかな。アーウェルも頭が回るし双子は腹が据わっている。カークは武力がないから」
不測の事態に対処が出来かねるだろうという。
短時間に自陣の戦力と特性を正確に把握するイレルミにマウロは驚く。
二人掛かりであれこれと質問したところ、特に翼の冒険者に何らかの目的があるのではなく、イレルミに対して探りを入れているのだと判明した。
調査も何も、尾行に気づかれたと知れた途端に襲われた。照準を定められた当の本人は平然としたままだ。
「あんた、尋問が上手いな」
「嬉しくない褒め言葉だ」
「違いない」
肩を竦めるマウロにイレルミがへらへらと笑う。
「しかし、困ったものだな」
笑いを引っ込め、イレルミが困惑した風情で腕を組む。
「シアンの警備を強化するしかないか」
「何も教えなくて良いのか?」
目をつけられた自分のことに言及せずに真っ先にシアンのことを心配したマウロに当然のようにイレルミは返す。己がことをマウロはそれなりに評価していることに気づいていた。
「シアンは知らないままの方が良い。今まで通り、気ままにあちこち旅をして料理を作って音楽を楽しんでいれば良い」
「そうだな。そのための俺たち幻獣のしもべ団だ」
だからこそ、イレルミは入団を決めた。シアンのための支援団体が永らえることができるように力を尽くすのだ。
「お、分かって来たな」
マウロが片眉を跳ね上げる。
「まあな。景気づけに下で一杯やろうぜ」
「おいおい、交代要員はどうするんだ?」
軽い調子のイレルミにマウロが殊更呆れて見せる。実に察しの良い男だ。
「縛られているから構やしない。固いこと言いっこなしだ。ああ、でも、頭が見張っておいてくれるんならそれでも良いね」
「いやいや、大丈夫だろう」
軽い調子で笑いながら、二人は階下の酒場へ向かった。
黒の同志はその絶好の機会を逃さず、逃げ出した。多少痛めつけられたくらいでは二階の窓から出て行くことなど造作もないことだ。
そして、隊に合流し、こちらは特に情報を与えず、逆に見聞きしてきたということを報告する。
「翼の冒険者は幻獣やその支援団体に護衛されなければ何も出来ず、また、各地を遊覧しているだけで特段目的があるのではない様子」
三番隊隊長の乾いた温度のない視線を向けられ、数拍の沈黙に息を詰めて耐える。
「そうか。他には何か言っていたか?」
ようやく声を掛けられて息を吐いて答える。
「はっ。翼の冒険者は何も知らされておりませんでした。また、支援団体の規律は緩く、隙だらけでした」
その相手に尾行に感づかれ、手痛い反撃に遭ったというのを自覚しているのか、とヒューゴは片眉を上げて唇を歪めた。
「分かった。ご苦労。治療して隊務に戻れ」
「はっ」
戻っていく後姿を眺めつつ、顎を撫でる。
「さてはて、どの程度信ぴょう性があるのか」
エディスの黒の同志が神託の御方だとみなしていたグリフォンはどれほどのものかと思っていたが、実際目にするとさほどの威容を感じなかった。存在感が薄く注意を引かない。
グリフォンといっても、こんなものか、とヒューゴも思った。
噂が独り歩きするのはよくあることだ。グリフォンを連れているということ自体が珍しいので、期待をされ過ぎているのかもしれない。
けれど、何かが気になった。
自分が監視をし始めた直後、目が合ったのだ。相当な距離を置いての観察だった。にもかかわらず、目が合った後、幻獣たちは翼の冒険者を誘導して自分から隠そうとした。空に逃げられてしまえば追えない。いや、他のものならば大鳥だろうと追って打ち落とす自信はある。しかし、あの飛翔速度、高度にはついていけない。
罠を張るしかない。
それには翼の冒険者の支援団体という打ってつけの存在がいる。
何しろ、向こうにはあの男がついたのだ。
「剣聖イレルミ、か」
面白くなる、と知らず、ヒューゴの唇には歪んだ笑みが浮かんだ。




