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天地無窮を、君たちと  作者: 天城幸
第八章
390/630

30.前後不覚2

 


 扉を開けた向こうに、石造りの床に描かれた円陣から、上半身を出した者がいた。ずるずると這い出ようとしている。人型で両手を床について下半身を引き抜いている。

『今度は三つ目の巨人か』

 ティオの言う通り、先日遭遇した一つ目の巨人と同じ大きさの神だった。

 その傍に怯えと怒りと悲しみに染まった魔獣がいた。

 黒く濡れたような長い毛に覆われた体はティオほどの大きさで、目だけがぎらぎらと光っていた。時折噛みつくように吠えかける。長い毛で覆われた首の辺りに首輪がある。忙しなく動くのに、首輪が外れそうになり、その都度気にする風を見せる。

 魔獣と化した幻獣は誰も信じられない、自分さえも信じられないと慟哭する。

『では、私を信じて。私だけを信じて』

 下位神から優しい声音の甘い囁きが発せられる。

 弱っているところに神々しい光を見つけて縋り付いた結果がこうなったのだろう。まやかしの神々しさも、曇った目では分からないこともある。

「英知、あの子を助けることはできないかな?」

『無理だ。怒りと絶望に駆られて慕う主を喰った。もう理性は残っていない。それに大分衰弱している。あの神に力を吸い取られている』

 幻獣に力を与えるために陣を描き、その血肉と強い負の感情を鍵として召喚したが、文様が正確ではないところから意図した者とは別の存在を喚んでしまったのだろう、と風の精霊は続ける。

「……そう」

 シアンはあの手記を目にした時からもう間に合わないと覚悟はしていた。それでも、喉の奥に熱い塊を突っ込まれたような心持になる。

 わんわん三兄弟が主を喰うということに驚愕してその場に固まる。

 外で待っているように言ったものの、みな付いて来たのだ。

『シアン、せめてもう楽にしてやるのにゃ。ベヘルツトなら一瞬で終わらせてくれるのにゃよ』

 カランが縋る視線を一角獣に向ける。哀れな元幻獣を殺める役目を押し付けることに申し訳なさを痛感するが、それが最善だと判断した。

 カランの言う通りだ。

 盗賊たちが逃げ出し、興味本位で幽霊城へやって来た者が冒険者ギルドに情報を売った。その間、どのくらいの日数が経ったのだろう。その間、魔獣と化した幻獣はずっと苦しんでいたのだ。風の精霊でさえもはや助けられないというほど、生きながらに力を奪われつつ、激しい憎しみと絶望に身を焦がしている。

 もう、終わらせてやろう。

「うん。そうだね。ベヘルツト、お願いできる?」

『分かった』

 シアンたちのやり取りから餌である魔獣を取り上げられるまいと下位神が腕を振り回して邪魔をしようとする。

 シアンはスリングショットを放つ。立て続けに三回、目を狙う。

 弾の中身はハバネロではなく、南の大陸で手に入れた乳液状の樹液だった。焼けるような痛みと痒みをもたらし、一時的な失明すら引き起こす。目くらましには打ってつけだ。

 風の精霊の助力を受けて、全て被弾し、下位神は両手で顔の上部を多い、口からは絶叫が迸る。

 ごとりと音がして振り向けば、一角獣の角から滑り落ちた魔獣の姿があった。

「深遠、彼に安寧を」

 言いながら、シアンはリュートを取り出した。

 幻獣の主が何の曲を弾いてやっていたのかわからないから、続けざまに奏でた。

 もう力尽きる間際だった魔獣は、エディスを襲ったドラゴンの屍のように以前の姿を取り戻すことはなかった。

 ただ、リュートに視線をやったので、僅かながらも幸せなころを思い出したのかもしれない。

 そうして、するすると小さく縮み、消し炭のような黒い塊と化した。

 シアンはそっと跪き、その体を抱きしめた。

『島に埋めてあげようよ。見晴らしの良い所! きっとね、綺麗な景色の中だと嬉しいよ!』

「うん、うん。そうだね、リム。そうしようか」

 それまではマジックバッグの中で我慢して貰うことにする。

 魔獣は主を喰った。

 二人一緒に島の美しい光景を眺めながら眠れると良い。

『シアン、あれ、出てきそうだから倒しても良い?』

 ティオが一応、という風情で尋ねてくる。

「ええと、英知、倒してしまっても差し障りはないかな。どこかの要になっているとか、誰かが困らないかな」

 あれというのは下級とはいえ神である。

 神に対してあまりにもぞんざいな物言いにシアンは慌てて風の精霊に確認を取る。

『ああ。むしろ、出てきたら人の世に災いをまき散らすだろうね』

 大地の属性の理性に乏しい神だという。

『そういうのが英雄譚に出てくるんですよね』

『苦労して倒すもんにゃが』

 ティオのひと蹴りで上半身が引きちぎれて吹き飛ぶのを眺めながら九尾とカランが何とも言えない表情で語り合う。

『あっさり終わってしまうのですね』

 リリピピも流石に遠出で行動を共にするようになって、一部幻獣たちの規格外の強さを目の当たりにしている。

 向こうでは消沈する麒麟をわんわん三兄弟が励ましている。自身も主を喰った幻獣という彼らにとっては最悪の禁忌を目の当たりにしたのに健気なものだ。

 鸞とユエは床に掛かれた魔法陣に興味津々である。

『ふむ、これは召喚の魔法陣だな。風の精霊王が仰った通り、別の者を喚ぶつもりだったのだろうが』

『下位とはいえ神を呼び出せるの?』

『人と幻獣が一体となった魔力を呼び水にしたのだ。そういった特殊な条件下でならば可能な神もいるようだ。あれは魔獣に近い程度の位だったしな』

 ユルクは幻獣の死を目の当たりにしたネーソスを気づかい、逆に気づかい返されている。

 シアンはこれほど多くの高度な知能を持つ幻獣たちと行動を共にしているのだ。今回のように人を慕う幻獣について考えずにはいられなかった。

 シアンも音楽の世界で金銭を得ている。

 彼は優しくて弱かったのだろう。

 音楽に関する世界は確固たる自分を持っていなければ簡単に押しつぶされる。

 ちょうど以前、シアンがそうだったように。

 飢えは苦しく惨めで哀しい。

 魔獣と化した幻獣の育て主も飢えさえなければあんなことにはならなかっただろう。

 飢えは人の尊厳を奪う。理性がなくなる。規範が失われる。

 生きながらにしてじわじわ死に覆いかぶさられ飲み込まれ、内部から食い荒らされる。

 不安がどす黒く心を染めていく。

 他者などどうでも良くなる。

 そこにはシアンが幻獣たちと目指した尊重も共存もない、殺伐とした世界だった。

「彼にも僕にとってのティオやリム、きゅうちゃんや他のみんなみたいな存在がいたら良かったのにね」

 音楽が楽しいもので、心の底から愛する気持ちを思い出させてくれる者がいたら違っただろうか。

「ただ、それでも、彼がしたことは許されないよ。憎まれても良いから覚えておいて欲しいなんて。そんなの、幻獣が可哀相だ。幻獣が辛いだけだよ」

 あれほど慕っていたのに。

 あんなに心を許していたのに。

『シアンちゃん、同じ狐の姿のきゅうちゃんを代わりにぎゅってしても良いですよ』

 シアンは涙を拭ってため息交じりに笑った。

「ありがとう、きゅうちゃん」

 九尾は本当にタイミングよくシアンの気持ちを浮上させるために戯言を言う。

「ふふ、きゅうちゃんは闇属性なのかな。人の心を知り尽くしているね」

『人の世の是非を問うには人の世に明るくなくてはなりませんからな!』

 九尾に抱き着いてまた溢れて来た涙を隠す。

 ティオがシアンの背に頬を寄せてくる。

 他の幻獣たちもシアンに身を寄せる。それを代わる代わる頭や頬、顎、首筋などを撫でる。

 シアンはその時自分の気持ちで精いっぱいだった。

 だから気づかなかった。

 狐の姿の幻獣だという記述に思い至ったのはしばらくしてからだ。

 気づいて問うた。

「きゅうちゃん、もしかして、この狐の幻獣というのに、思い当たる者がいる?」

『妖狐候補でしょうなあ。まだまだ下位幻獣というところでしょうが、育てばきゅうちゃんのような天狐になったかもしれません』

 同族だった。

 どれほど衝撃を受けただろう。

 同族があんな仕打ちを受けたのだ。

 なのに、九尾はいつもの調子でシアンを励ましてくれた。

 シアンはしゃがんで両腕を広げた。

「じゃあ、今度は僕の番。ぎゅってしても良いよ」

 シアンの傍らにいる幻獣たちの中でも九尾は奇異な存在だ。彼は他に召喚主を持つ。

 けれど、友人として認識してくれていると良いなと思う。

 うっすら口を開けて茫然とした九尾は次いでいたずらっぽく笑ってシアンにしがみついて来た。

 温かく柔らかく、生命力による弾力に富んでいる。個性と意思によって動く。

「君たちはいつも強くて優しいね」

 後頭部から首筋、背中にかけて撫でながら言った。

『誰にでもそうというのではないのですがね』

「そう? 僕はそんな君たちの温かい気持ちに救われているよ」

 この高度知能を持ち、多様な個性のある幻獣たちが自分にどれほどの気持ちを向けていてくれているか。それがどれほど心震えるものか。

 そして、自分は彼らの気持ちに少しでも何かを返しているだろうか。

 常に、そう問い続けていたいと思う。




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