39.突きつけられた苛烈
※グロテスクな表現を含みます。
ご注意ください。
そこへ行ってみようと言ったのはカランだった。
シアンは躊躇した。
特別な力を持っていたら、困窮した人間に縋られる。周囲は無責任に助けてやれ、という。
その特殊な力はその持ち主のものであり、何故助けるのが当たり前だと思うのか。
持たない人間が特殊な力を持っていてずるいという。ちょっとくらい分けてくれてもいいじゃないか。そんなにたくさん持っているのに、という。
音楽に携わることでそういったことをよく言われてきた。シアンの技術は練習の賜物だ。その分、時間も金銭も努力も必要だった。それをいとも簡単に披露してくれという。気軽にちょっと弾いてくれたら良いという。そして、演奏に関してなんだかんだとご高説を賜る。
欲しいと思ったものは全て手に入って当然、と思う人もいる。
そこに向かっての後付けの理由を並べてどれだけ破綻していても認めない。
だから、気軽にリクエストに応じるという島での生活はとても明るくて開放的で楽しいものだった。できることをできる者がする。なんて素晴らしいことだろう。
そこには依存も、少しでも自分が得してやろうというさもしさもなかった。
けれど、シアンはカランの不安そうな表情に頷いた。
この時行くことを判断したのはあくまで自分だと後々に思い返すことになる。
白く小さい点が褐色の肌を蠢いている。
円筒形の体には脚がなく、蠕動する。
うつろに開かれた目の縁に乗りあがり、ふとした拍子に乾いた眼球に転がり落ちる。
蛆だ。
蛆が這う皮膚は生命力のある脂分や水分が失われ無機質なものへと変じている。皮膚の奥は熱が失われ、硬くなっている。
乾いて逆むけた唇の狭間からも波打つようにハエの幼虫が動く姿が垣間見える。
と、ぼとりと木の枝からより大きな、人の掌ほどの細長く扁平な形のものが落ちてくる。
蛭だ。
生物だったものを食らうために生物が集まって来る。
蛆は骨格以外の軟部組織、すなわち皮膚や脂肪、腱、血管、筋肉といったものをじわじわと食べて行く。
屍肉食昆虫が集まって来るが、蛆が一番活動的で餌を発見するのが早い。
人の死体が積み重なって蛆が湧き、異臭を放つ。焼くしかない。
死体の山の向こうに呆然と立つ女性が、シアンを見て目を見開く。やつれて肌を汚し、後頭部で一括りにした髪は手入れしておらずぼさついており、ひび割れた唇をわななかせた。
「翼の冒険者……!」
どうやらシアンのことを知っている様子だ。
「助けて、助けてよ!」
血を吐くような声は悲痛さを帯びていた。
この苛酷な世界で飢えに苦しむ者は多い。
常に食べ物のことを考え、行動原理はそこに行きつくのだ。身だしなみや衛生管理に関心が薄くなり、礼節など失われる。
けれど、痛みは飢えの上を行った。
全てを根こそぎ奪って、痛みのことしか考えられなくなる。
骨も筋肉も血も体の全てがひたすらこの灼熱の苦痛から逃れることだけを求めているのだ。この苦しみから逃れることだけを考えるのだ。
喉や皮膚をかきむしったり、背を丸めて腹を抱えて横たわる。時折、波のように襲ってくる痛みの高潮に、身悶えする。
濃い緑陰の下で浅い息を繰り返す患者の容態を見て、薬を飲ませる。
地面に敷いた大きい葉を何枚も重ねて寝かせている。
僅かな木の枝と殆どが葉でできた小屋が集まる村で、当初は一番大きいものの中で診療した。今では屋外に葉を重ねた上に患者が横たわっている。その傍らで様々な葉を摺り潰し、煮沸し、必要要素を抽出する。
普段息を吸うごとく当たり前のこととしていることが、とんでもなく難しかった。
そもそもろくな器材がない。
蒸留器や容器などない。
ましてや、窯なんて大層なものはなかった。
すり鉢と錫製の縁が欠けた鍋と棒きれ、錆が浮いたナイフだけで薬を作るのだ。
神への祈りも届かない。
頭痛や発汗があり、中毒性があるにしろ、赤い大地と呼ばれるあの植物を頼るしかなかった。
果実を別の植物の葉と共に噛むと、苦みとピリッとした刺激と共に、一時なりとも苦痛と恐怖を忘れることが出来るのだ。
それにすがるしかなかった。
カレンがここへ来た当初、中毒性があるからと止めた。
しかし、病が急速に広まり、激しい痛みや倦怠、疲労、何より息吹が感じられるほど間近に迫る死の恐怖に身を震わせるしかない者たちにとっての、唯一と言っていい救いとなった。
そして、比較的健康な者たちはカレンらの行動に目を光らせている。
カレンたちが変なことをしようとしているのを見張っているのではない。
「俺たちは十分に苦しんだ。もう楽にしてやろう。俺たちもこれ以上は見ていたくない」
つまりは安楽死を選ぼうとするのだ。彼らは仲間が罹病したと知るや否や、毒を飲ませようとした。
カレンは乾いて皮が捲れた唇をわななかせながら、懸命に動いた。
でも、痩せた両手の指の狭間から水が流るるごとく、するすると命は失われていく。
医療行為など綺麗な物ではない。患者の吐しゃ物にまみれながら、汗だくになって這いずり回っているだけなのだ。
この大陸へ共に来た冒険者パーティも、カレンを手伝って奔走していた。
彼らは流行り病を前にして打ちのめされていた。四人のうち誰かが、あるいはカレンがもう駄目だと一言でも漏らせば、立ちどころに崩れる非常に脆い上で、それでも踏ん張っていた。
そんな状況にも関わらず、冒険者パーティは翼の冒険者の助力の申し出を跳ねのけた。彼らの何がそう頑なにさせるのか、カレンには理解不能だったが、もう限界だった。
「助けて貰いましょう。私たちだけの力では到底こんなに多くの病人を救えないわ。現に、これまでどれほど多くの人が死んでいったか」
カレンの言葉は最後は嗚咽交じりだった。
誰かが、翼の冒険者の力を利用するべきだと言い出した。彼らはその言葉に飛びついた。
「そうだな、大事のためにいけ好かない奴の力を借りられないなどとは言っていられない」
「逆にその力を利用してやるのは胸がすくわね」
カレンは力なく笑った。
現状に刮目せず、彼らは自分たちの無力さに向き合わずにこうやってごまかしてきたのだ。
そして、彼らは自分たちは来て早々手荒い歓迎を受けたのに、翼の冒険者は幻獣のお陰で下にも置かない丁重さだったと文句を言った。
この地帯にはグリフォンが飛来する。人々は強者に生贄を捧げ、共存してきた。
カレンも遠目に見たことがある。
しかし、翼の冒険者が連れたグリフォンはあんなのとは比べ物にならないほどの威容を持つ。村人たちも一目でそれと知ったのだろう。従来自分たちが恐れて来た存在よりも数段上の同種が現れた。村人たちが恭順するのもむべなるかな。
その翼の冒険者は疲労から無気力に陥ったカレンや冒険者たちがただ機械的に手当てをするのを呆然と眺めた後、慌てて手伝った。
「ねえ、磁石を持っていない? もう使い果たしちゃったのよ。火星に関した病には一番効力を発揮するわ」
貴方も知っているでしょうと視線を病人に向け手を止めないままカレンは尋ねる。
磁石は火星や鉄に関連した病を吸引し、それら病原を体外へと輩出することができるのだ。粉末状にした天然磁石を水に溶かして使用する。
当時の医学界では当然のこととしてそう信じられていた。
「磁石、ですか?」
困惑してシアンは聞き返した。
そんな様子に薬師ならそのくらい知っておいてしかるべきだとつい意地悪に思ったことを、慌てて取り繕う。今、翼の冒険者につむじを曲げられたら大変だ。
「少しは効いたの。でも、目覚ましい効果は得られなかった」
カレンは唇を噛む。
磁石ではこの病を治すことはできないと分かっているのだ。
カレンとて薬師だ。
病に有効な素材であるのならそれなりの数を有していた。それらを全て消費しても、村人の死は加速度的に訪れた。
翼の冒険者はこの村の惨状を見て蒼白になった。
よろめき倒れこみそうになり、すかさず支えるグリフォンにもたれて、浅い息を繰り返した。
一瞬、失望がよぎったが、それでも、ようやく見えた一筋の光だ。
その翼の冒険者は物資を調達して来ると言ってグリフォンに乗って飛び立った。
「あいつら、戻って来るかな」
冒険者の剣士がぽつりと言った。
そうであってほしい。
生贄を捧げても神は答えてくれない。
神は気まぐれで人の価値観では推し量ることなどできない。
だから、人は人で力の限りを尽くすしかないのだ。
シアンが精霊の助力を願うのは食事や環境を整えることに関することが多い。
そして、それは周囲の者にも及ぶ。
逆に言えば、関わりの薄い者に関することや大きなことは頼まない。自分の責任能力が及ばないからだ。幻獣たちはシアンのために力を尽くす。シアンも同じだ。だから、最後まで責任を持とうと思える。
しかし、見ず知らずの人間の生死というのにはおいそれと関わりを持てない。しかもそれが大人数となればなおさらだ。
力があるからと気軽に使って誇る気にはなれない。使うのなら最後まで付き合う覚悟が必要だと思う。一時の感情で軽々しく使うには大きすぎる力だ。
精霊たちの力を使えば、それこそ、より多くの人の命を救える。
でも、それは何だか違う気がした。
できることをして、それにちょっとした助力を得る。
シアンは精霊の加護を得た後、そういうスタンスでいた。
努力をせずに力ある者に頼り、恭順を示すことで恩恵を受けようとするのは違うと思うのだ。
今までこの世界の各地を見回り、努力をしてどうしようもできない部分、たとえば自然の驚異に対して、できるだけの尽力をした上で力ある者に祈る、そういった人々と出会い、これかと目の前が開けた気分になった。
まずは自分の精いっぱいをしてからだ、と。
シアンも精いっぱいの努力をして、その自信が裏打ちされて、難曲でも気負わずにステージに立ち、演奏することができる。音楽の才能への信頼などではなく、出来る限りのことをしてきたという自負に裏打ちされた一種の開き直りに似た納得した心境で演奏をするのだ。
もちろん、毎回毎回がそうすることができればいい。練習不足を自覚していることもある。けれど、だからといってあきらめていい加減な演奏はしない。忸怩たる思いで、その時できる最高の演奏をしようと努力する。
それと同じで、過失やちょっとした怠慢、甘い見通しがあったとしても、それを受け止めながらも、その時その時に精いっぱいの努力をして、その上で上位存在に祈る。ちょっとやっただけで、後は力ある存在にどうにかしてくれと頼るのとは違う。
何のことはない。
現実世界と同じことだった。
異世界でも同じことだった。
そのシアンに風の精霊が問う。
自分が助けようかと。




