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天地無窮を、君たちと  作者: 天城幸
第七章
343/630

26.錯乱

 

 前エディス支部薬師長が作り出した新種の毒は大変有益であるが、非人型異類から作り出されたのだということに反発する声も上がった。

 貴光教は清浄を掲げ、人以外は排除する傾向にある。人に無暗に襲い掛かる非人型異類の力を借りるなど、以ての外である。

 ラウノのもまた新種の毒の有益性を知りつつも、神の意志に反すると猛反発した。一方、エイナルは便利なものを便利に使って何が悪いという主張をした。

 これらの意見の対立は両者だけにとどまらず、貴光教全体に及んだ。それほど、この新種の毒が重宝され、浸透していったということもあったし、自己主張が激しく、他者の言を受け入れるという考えの薄い者たちが集っていた。

 それまでも神への愛と暗部としての汚れ仕事の狭間で苦悩するラウノとその実力を認め目標とみなすエイナルとでは意見の食い違いがあった。

 アリゼは自分が動かしやすいように、彼らのぎくしゃくした関係を軋轢にまで発展させた。

 エイナルにラウノへ薬を使わせたことによって弱みを握り、後遺症で不調を訴えるラウノには薬湯を煎じて恩を売った。全く反吐が出るやり方だが、これらは全て黒の同志や本拠地で学んだ手法だ。

 彼らは集団を泳ぎ抜く術を身に着けていた。ならば、アリゼも同じことが出来なければ濁流にのみこまれてしまう。欲や権力の甘美さに取りつかれて溺れてしまう者も幾人も見て来た。いつ自分が同じ憂き目に合うか誰も分からない。だから、やられる前にやるしかないのだ。

 三番隊の中でも若手の彼らは脂ののった時期らしく、頭角を現していっている。彼らが請け負う任務に関して詳細を知ることはできないが、話の中で出てくる彼らの身体能力の高さ、戦闘能力のすさまじさには内心舌を巻いていた。他国の騎士程度では相手にならないほどだ。

 アリゼは彼らの隊長ヒューゴについて何度かさり気なく探った。

 しかし、彼らもまた隊長のことを良く知らない様子で、特にこだわりはないようだった。伝説に近しく語られる赤手袋を身に着ける者の下で働くことが出来ることを名誉に思っている節がある。武力で優劣をつけられる者たちならではの思考である。

 ヒューゴの来歴は明かされていない。

 黒の同志の中でいつの間にか功績を上げ、あれよあれよという間に白手袋を身に着け、更には赤手袋を着用する快挙を成し遂げていた。その後、すぐに三番隊の隊長に就任している。

 判明しているのは、相当な手練れであるということ、オルヴォ・カヤンデル大聖教司に忠誠を誓っていることだ。

 そのオルヴォもまた幾重もの薄紗に包まれている。

 端正な容貌に美しい声を持ち、見る者聞く者を魅了する。感情過多の貴光教内にあって非常に冷静で合理的な考え方をする。

 ヒューゴやロランだけでなく、彼を慕う者は多い。

 アリゼは今回もオルヴォとヒューゴについて大した情報を得られずエイナルとラウノと別れた。彼らが疎いのではない。現に、会って早々、アリゼの薬師就任について言及された。ロランとの共同研究に関してすら知っていた。

 流石の情報収集能力である。

 とすれば、彼らの能力を持ってしてさえも探ることが出来ないオルヴォとヒューゴについてあまり深入りすると危険かもしれない。

 情報収集といえば、翼の冒険者の支援団体も密偵集団だという噂だったなと思考が逸れる。

 エディスの黒の同志たちが彼らを追い回す執念には狂気を感じさせるほどだが、今のところ上手く立ち回っているらしい。

 つい他のことを考えてしまうのは、これから行うことへの忌避感からだと自覚していた。

 アリゼはイルタマルに呼び出されていた。

 何を言われるか、と戦々恐々である。

 居室を訪ねると、丸く膨れた頬にうずもれる小さな目がアリゼの全身を見回す。

「貴女が最近薬師見習から昇進したって子? 若いのにすごいのねえ。異例の速さじゃない」

 可愛い高めの声をしているものの、ねっとりした口調で不快感が募る。

 それに事あるごとにケチをつける性質の人間だ。褒める時は裏がある。

「優秀な貴女に頼みたい仕事があるの」

 ほら来た、と思いつつ表情を取り繕う。押しなべて従順でない者は全力で潰そうとするのが貴光教だ。

「簡単なことよ。患者の治療をしてほしいの。言われた通りにすれば良いだけよ」

 言って、連れていかれた先は地下の廊下の奥の使われていない部屋だ。

 地下へ続く鉄格子を開ける鍵を持っている者は限られている。

 それが重々しく甲高い音をたてるのを聞きながら、暗さと湿気、埃臭さに恐怖を感じた。この先に進みたくないと鈍る足を叱咤する。

 イルタマルは巨体のわりに身軽に動く。

 アリゼは促されて廊下のアーチから鎖で吊り下げられた小さな鉄鍋のような中に木屑と火種を入れ、明かりを点す。等間隔で並んだ鉄鍋は一つに火を入れると、次の鉄鍋がかろうじて見える。そうやって廊下に明かりを点しながら奥の部屋にたどり着いた。

「ここよ」

 イルタマルが扉の鍵を開けたが、自分は動こうとしない。しょうことなしにアリゼはさび付いた取っ手に手を掛けて開いてみる。途端に、刺激臭に襲われ、涙が滲む。

 背中を押されるようにして足を踏み入れる。

 中には明かりは灯っていなかった。

「本当、ここは臭いわねえ。ええと、どこだっけ」

 騒々しい音をたてながら何かを引っ掻き回す。節のついた口調はどこか楽しんでいる風情がある。

「ああ、あったあった」

 探す物が見つかったのか、それをアリゼに突きつける。

「これで明かりをつけて頂戴。ほら、暗いんだから、早くして」

 ようやく暗闇に慣れて来た中、覚束ないままに四苦八苦してランプに火を点す。

 それだけで絶大な威力を持ち、部屋を照らし出す。

 うめき声が聞こえ、そちらに目をやったアリゼは悲鳴を飲み込んだ。

 そちらに顔を向けたまま、目だけを動かしてイルタマルを見やると、にやにやと面白そうにアリゼの反応を眺めている。

「あらあ、やっぱりお嬢ちゃんねえ。初々しい反応! でも駄目よ。薬師は患者を治してこそ。カヤンデル大聖教司も仰っているでしょう? 重傷者の姿を見て驚いているようじゃあ、まだまだね」

 イルタマルの言う通り、部屋の壁側に置かれた粗末な寝台には重症と思しき男性が横たわっていた。

 しかし、暗闇に隔離されるようにして寝かされているから驚いたのではない。それだけならこれほどの恐怖、嫌悪感を抱かなかっただろう。

「「鞭打ちや拷問を受けた際の治療」は何だったかしら? 貴女、ちゃんと覚えている?」

 言いつつ、イルタマルは唇を舐めながら男の美しく筋肉が盛り上がった二の腕を撫でた。

「ええ、そうね。はいだばかりのまだ温かい馬の皮で患者の体を包む。その後入浴させ、消化の良いものを食べさせる、よ」

 イルタマルは質問を投げかけ自分で答えた。にたにたした笑みと相まって自身に酔っている様子だが、そんなことはどうでも良かった。

 アリゼは飲み込んだ悲鳴と共に、どうしてこんなことをという言葉も飲み込んでいた。

 うつ伏せの背中には赤い筋がいくつも走り、肉が盛り上がり皮膚が裂け、血が滲み出ていた。

 教本に書かれてある言葉通りを歌うように述べたイルタマルだったが、まさしくこれは拷問による鞭打ちだ。

 何故こんなことをしたのかという質問は愚問だ。自分の首を絞めかねない。

「ああ、臭い臭い。早くしてよ。あ、私はちょっと用事があるから出ているわ。すぐに戻って来るから、それまでに治療を終わらせておくのよ! まだまだ使わないといけないんだからね。貴重な美男ですもの。失うには惜しいのよ」

 垂れ流しなのか糞尿の匂いが漂う。

 言われるまで、目にした光景に気を取られて考えが及ばなかった。

 イルタマルは騒々しい音を立てて廊下を行く。

 アリゼはイルタマルに呼び出された際、薬師として云々を言われることを予測してあらかじめいくつか薬を所持していた。

 指示された通りにやらなければ怒りを買うだろう。しかし、患者の容体が好転しなくても、同じく叱責されるだろう。そう考えて、密やかに傷薬を塗り、熱さましを飲ませ、馬の皮で包んで入浴と食事をさせた。

 入浴といっても桶の中に汚れた水しかなかったので、穴の開いた布を濡らして絞り、それで身体を拭いた程度だ。

 しかし、戻って来たイルタマルは満足げに頷いたので、及第点だったのだろう。

「それにしても、勿体ないわあ、こんなに美男なのに。ヨキアム師も数寄者よねえ」

 小さく呟いたつもりだったが、静まり返った部屋に大きく響き、しまったという表情を浮かべ、アリゼの方を窺う。アリゼは知らぬ顔で部屋の片づけを行う振りをした。

 都合の良い時には部下をぼんくら扱いするイルタマルは安心した様子で失言をしたことを記憶の彼方に追いやった。

「ほら、さっさとしなさいよ。鍵を締めるんだから」

「はい」

 適当な所で切り上げてアリゼは部屋を出た。

 廊下を仕切る鉄格子がたてる音が地獄への境界を遮断する合図のように聞こえた。

 ヨキアムの指示でイルタマルはこの地獄を作り出しているのだろう。



 寝台が置かれただけの部屋に事を済ませた余韻がけだるく漂っていた。

 湿ったシーツにしどけなく横たわる肌は柔らかくそれでいて弾力に飛んでいて、白い。

 佳い女なのに、惜しいと思う。

 美しく何より臆病そうなのが良かった。

 けれど、ヒューゴは一時の情に流される愚を犯さなかった。

 情報を抜いた娼婦の首を絞める。一瞬で終わる。

 物事には時運があるように、こういったことにも機がある。急所を締めるのも相手に短剣を突き刺すのも一瞬の見極めが重要だ。それを逃すといつまでも力を籠めたり短剣を突き立てることができず、そのまま機を逸してしまう。

 首を絞めた後、赤い手袋をつける。首を絞める際の躍動感を直に味わいたくて、手袋を外していたのだ。

 ヒューゴは物言わぬ躯にはもはや興味を示さず、身支度を済ませ、躊躇なく二階の窓から身を投じた。

 学がないどころか考えることをしない娼婦だと高を括っていた。殺すことに躊躇はなかったし、死体が見つかっても客とのいざこざが原因だと思われるだろうと予測していた。

 しかし、その女には仲良くしていた友人がいた。彼女もまた同じ職業で、度胸があり、頭の回転も速かった。

 同じ娼婦仲間が殺された日、変な恰好の者が目撃されていることを聞く。

 そしてそいつが怪しいと思い定めたのだった。

 他国での調査は隊を纏める者としては他の隊員に任せるべきことだが、いかんせん、極秘で依頼されたものだ。依頼主に忠誠を誓うヒューゴとしては調査とはいえ疎かにはできない。

 隊を長らく留守には出来ないと迅速にキヴィハルユに舞い戻り、詰め所で不在時の確認や普段通りの仕事を行ったヒューゴは、オルヴォの警護につく。

 来客があると聞いたので、自分が代わることにしたのだ。

 労役係が持って来た茶をオルヴォが手を付ける前に、するすると歩み寄りながら、剣を素早く鞘から抜き取りその勢いを殺さないまま、テーブルの上の杯を掬い上げ、剣に乗せて突きつける。

「まずは貴様から飲んでみろ」

 毒の懸念だ。

 労役係は自然なふるまいをしていた。しかし、その目には一種の怯えが宿っていたのを見逃さなかった。そして、ヒューゴの流れる動作に棒立ちになり、慌てて身を翻して逃げ出そうとした。ヒューゴは証拠品である茶碗の中身を零すことなく、空いた手を伸ばして女の髪を掴み壁に放り投げる。それだけで呆気なく気を失い、ずるずると壁を滑り落ちていく。

「な、な、なに、一体」

 客人が慌てふためいて意味のない言葉を口にする。

「毒か。薬師に回して分析させておけ」

「かしこまりました。刺客の方はどうしましょうか?」

「尋問は任せる」

「はっ」

 客人を余所にオルヴォは冷静に刺客を見やりながらヒューゴに指示を出す。

 体調が思わしくないという客人は、部下に指示して刺客を運び出させている間に帰ってしまった。

 大聖教司ともなれば、オルヴォには敵が多い。

 ヒューゴはそれをことごとく排除する。

 全く遺憾ながら、偏見と権力の公私混同甚だしい貴光教内部では敬虔かつ有能な人間は邪魔で仕方がないのだ。

 あれほど神秘的な魅力に満ちている人間もおるまいに。

「ヒューゴ、そなたの有能さはまことに素晴らしいな」

「恐悦至極に存じます」

 ヒューゴが神以外に尊崇するのは唯一、オルヴォ・カヤンデルである。その彼から褒められ、こけた頬に喜悦を浮かべる。

 オルヴォは思索に耽る様子で黙り込み、それを邪魔しないように気配を消す。

「ドラゴン、か」

「翼の冒険者が連れている者でしょうか?」

 オルヴォの手足となるヒューゴはそうすることで彼の思考回路を僅かに読み取ることができるほどになっている。

「そうだ。エディスの黒の同志たちはグリフォンを気にしておったが、種族としてみればドラゴンの方が生態系の頂点に立つではないか」

「はっ」

 エディスの黒い同志たちは畏れ多くも、神託の御方をグリフォンだと断じて滑稽に動き回り、散々な醜態を晒している。そのため、トップがすげ変わった。

「しかし、そのドラゴンはその後大きくなった姿を見たという報告は上がっていない」

「今一度、調べて参りましょうか」

「ふむ。まだそれができるだけの力をつけていないということなのだろうが」

 中途半端に言葉を切るオルヴォを急かさずに静かに待つ。

「何かが引っかかるのだ」

 ぽつりと呟かれた言葉は静謐な部屋に漂った。


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