18.祈り
※人の死に関する記述があります。
ご注意ください。
以前は、毎日、目を覚ますと食事を摂り、整えられた薬草園の手入れを他の者と共に行い、調剤室で調合や研究を行っていた。
それがどれだけ恵まれていたことか思い知る。
あの立派な設備がどれほど得難いものだったのか、と考えずにはいられない。
胃の底がひりつく空腹から逃れ、食料と四肢を伸ばしてゆっくり休めるベッドがどれほど贅沢なことか分かっていても、それでも他者を精神から壊していくことに手を貸すこととは引き換えにできないと考えた。
貴光教の神殿で行っていた、治療を施し、感謝され、報酬を得ることがどれだけ理想的であったことか。
でも、そうやって食べていける者は一握りだけなのだ。
貴光教は特別な薬を信者に配っていた。香や飲み物に混ぜることで、知らず摂取するようにし向けていた。
分かっていて摂取するのと、知らず体内に入れられるのは違う。
間違っていることを指摘できず、声を上げてもすぐに集団の中に呑み込まれる。挙動を監視され、閉塞感から徐々にやる気が失せた。
飢えから逃れるために手を貸したことを後悔した。自分とて、それまでに苦労や経験を積まなかった訳ではないから、腹が満たされているから言えることであるとも知っていた。
だが、こんな未来を誰が想像できるだろうか。
ふと思い出す。
カレンと同時期にエディスの薬草園に来た少女はどうしているのだろうか。
病による薬草の全滅の危険性を唱え、新たな毒草を育てることを提唱し、それは受け入れられ、順調に立場を固めて行った。ひたむきさを感じさせる少女だった。
監視されていることや自分たちが作った薬で後遺症で苦しむ者がいるだろうことを知りつつ、熱意を持って務めていた少女だった。
名前はもはや思い出せないが、まだあの薬草園で特別な薬を作っているのだろうか。
カレンとて、劣っているのではない。
自論を持っていた。
研究者は実践だけではだめだ。独自で研究した理論を持たなければ。
そう考えたが、最近の医療関係者は理論に大きく傾き過ぎていた。カレンは理論を大切にしたが、実践を軽視する学者たちには辟易していた。
横行する頓珍漢な治療方法を軽蔑すらしていた。そんなことをしても、患者の病状を悪化させるだけだと思った。
例えば、矢傷にはベーコンを詰めることが有効だと信じられていたのだ。
他には、消化不良にはライオンの肝臓を乾燥させて煎じたものが特効薬とされた。皮をむいたネズミを煮出せば、栄養豊富なスープとなるとも言われてもいる。
しかし、病が蔓延するひっ迫した現場で必要なのは、その理論よりもまず物資と人手だった。
カレンが頭からかぶっていた灰色のフードは病人の体の下に敷かれ寝床になったが、もはやどこに行ってしまったかもわからない。
ここでは邪魔でしかない。顔を晒すことなど、気にしている余裕はない。
貴光教の薬草園で作っていた「特別な薬」と同じような薬効を持つ植物を、カレンは再び人々に処方していた。
エディスでは、自分たちの言うことを聞かせるために神の愛を逆手に取るのはおかしいと思った。
でも、ここでは痛みと恐怖を和らげ、少しでも神の御力を身近に感じるためにはどうしても必要不可欠なものであるのだ。
有史より娯楽としても用いられてきたが、癒しとしても処方されてきた。
物事の一面しか見えていなかった自分は滑稽だと思う。
それをどう使うかは人の手に寄るのだ。
善悪など立場が変じるにつれ簡単に入れ替わる。
そして、そんなものを超越して厳然と横たわる現状がある。
でも、それでも。
ああ、神よ。
今、ここであなたの力を顕してください。
どうか、どうか。
この暴力的ですらある圧倒的な病から、呆気なく失われていく命をお救い下さい。
カレンは貴光教の薬草園を出る際、呪いを受けることを申し出た。
ここで見聞きしたことは一切外に漏らさないという制約を課される魔法だ。
そうでもしないと、暗部に触れた者をおいそれと放流することはないだろうと考えたのだ。
「まあ、良いだろう。「光の縛め」は相当な苦痛を伴い、生涯拘束する。それを自ら申し出たその覚悟と気概を汲み取ろう」
「光の縛め」は聖教司の手を必要とする。
そのため、ジェフの独断では決定できず、三十代半ばの薬師長に話は持ち込まれた。
嫌な笑い方をするのに、腹に力を入れ、気を引き締める。
「光の縛め」は激痛を伴い、人によっては死ぬ者もいるのだとイシドールは笑いながら言った。
あまりの痛みに舌を噛み切らないように、また、歯を噛みしめる力が入りすぎるので、削れるのだと言われ、猿ぐつわを噛まされた。
事実、受けた光の魔法は苛烈だった。
人体が焼ける臭いが鼻孔を吐き、音が爆ぜた。
灼けつく激痛にカレンは失神した。
人よりも豊富な魔力をこの時ほど感謝したことはない。
「光の縛め」はカレンの背中に幾つもの鞭を叩きつけたような跡を残した。
今もまだ色濃く残っている。
僅かばかり滞在した薬草園を出る際、感傷を得たが、それもすぐさま生きるための諸々のことに塗りつぶされた。
貴光教を出て方々を旅してまわり、路銀も心もとなくなったころ、食べ物を分けて貰えないかという下心から、具合の悪い村人の治療を請け負い、感謝された。
そして質素だがたっぷり食事を貰えた。その分、他の村人がひもじい思いをしたのだが、そういった気持ちはカレンの心を強く打った。
そうだ。
自分はこういうことがしたかったのだ。
薬師とは本来、こうあるべきではないか。
そして、カレンはその村で薬草を採取し、他の村人の診察を行い、次の村や街でも同じようなことを行った。
その傍ら、それまで自分でこつこつと研究していた情報を売り飛ばした。必要機材や素材を買うためだ。
現代医療はそれまでに形成された学問を、特に大学で教えるものがすべて正しく、有効な治療だと信じられていた。
医師は学問を重んじ、医療行為の実践を見下していた。だから、街では床屋が外科医を兼ねる。髪を切る傍ら、抜歯や骨接ぎをするのだ。
各人の属性に働きかけるといった原始的なやり方しか行わない。
後は、占星術をこねくり回すだけだ。
星々の位置関係から読み解くなど、曖昧極まりない。
そんなことより、実際の薬草や様々な素材を使って現れる薬効を調べた方がどれだけ有用か。そして、それらの薬効を実際に病に伏す人々に与えることによって回復する姿を目の当たりにすることがどれだけの充実感と現実感を感じるか。
あちこち漂泊するうち、品目が少ないと思っていた薬草園の食事はすぐさま恋しくなった。常に空腹で、村人たちへの処方が忙しく、調合できる薬も限られていった。豊富な器材と素材が夢にまで出て来た。使った経験がなければこれほどまでに渇望しないだろう。あったものを失ったからその喪失感は大きいのだ。
でも、カレンには汚く淀んだその裏側を看過することができなかった。
ない物ねだりをしても仕方がない。
時間を作っては方々で採取して研究を積み重ね、理論を築き上げた。
カレンはハーフエルフで、閉塞感のあるエルフの里から逃げ出した。
エルフは森や山で暮らし、自然と親しむことから動植物に詳しい。人の世の現実に即さない医療のことを聞き及び、エルフの知識をもってしてならば、生業にできるのではないかと思ったのだ。
系統だった学問を身に着けていたのではないカレンは、それが人の世では重要視されていることから苦労して薬草学を学んだ。元々、魔力が高く知識も豊富なハーフエルフである自分が、ここまで努力したのだから認めてほしいという気持ちが強くなった。
無意識のうちにハーフエルフであることからの中途半端さや足りない部分を補う努力をしているのだから自分はこれで良いのだ、と思える確固たる証を欲した。
村々で治療して感謝された際、充実感を覚え、これこそが自分がしたかったこと、欲していたものだと感じた。
カレンはそうして一人で組み立てて来た研究成果、硫黄と水銀の性質とそれらを用いた医療の情報を換金した。
二束三文で買いたたこうとする者に唾を飛ばして優位性を主張し、金銭をもぎ取った。
この金でまた困窮する村人を救えるのだ。
もちろん、中には自分たちが困ったときだけカレンを持ち上げ、病気が治った途端、冷たく追い出されることもあった。
そういう人間はまたすぐに病魔にとりつかれる。
そう思いながらやり過ごすしかなかった。
自分の貴重な研究成果を手放したのだ。自分の手札を晒した今は、方々で評価を得ているということだけがよすがとなっていた。
そうするうちに、貴光教の放浪聖教司の噂を耳にした。
自分の他にもそうやって村々を訪ね歩き、評価を得ていることから、カレンのすることは間違っていないのだという安堵と成果を上げていることへの嫉妬、彼が持っているのではないかと想像される豊富な医療知識と神殿という国際機関が後ろ盾にあることへの羨望、様々な思いが胸に去来する。
彼が金髪の美男と聞き、ふとジェフのことが脳裏を掠める。頭を振った。もうエディスでの薬草園のことは忘れるのだ。あんな、人の精神を壊す特別な薬を作ることを、衣食住と引き換えにする必要はない。今また日々の糧を得ることに不安を感じながらも、心の充足感とは引き換えにならないと思っている。
カレンはこだわらずに人間の先達の研究を学び、取り入れることにした。
そんな折、村で出会った商人に聞いたサンゴについて、素材として取り扱ってみればどうだろうという考えを持った。
商人の他に気づく者は少ないが、情報というのは重要なものだ。その中から必要な要素を取捨選択していく。
そうして得た着想にカレンは支配された。突き動かされるようにして南下を早め、港町を目指す。冬を迎えようというころ合いのため、同じ方角へ向かう者も少なくなかった。そんな者たちが病にかかった際、薬を処方してやることによって、カレンは少ない路銀の足しに食料や日用品を分けて貰うことで凌いだ。
罹病した冒険者の一人が手持ちの薬では目覚ましい効果を得ることができなかったのを、近くの薬草を採取して煎じてやった。見る間に顔色が良くなり、回復した仲間に安堵の涙を浮かべながら冒険者たちに感謝された。
彼らと行動を共にしたのはカレンに感謝し、向かう方角が同じというのだけではなかった。
彼らもまた翼の冒険者と直接言葉を交わしたことがあると分かり、その悪口で盛り上がったのだ。
幻獣頼みで自分は何一つ苦労をしない。地を這う者の気持ちが分かるのか、という四人組の冒険者パーティに初めは同調していたカレンは、だが、しつこく繰り返される言葉に、それが彼らの支えになっていて、全て彼が悪いという帰結によって物事を丸く収めているのではないかと察した。
そうなると、自分も全てのつけを翼の冒険者に背負わせているだけではないか、とばつ悪い気持ちになる。狡いことをしている者をあげつらうだけで自分は変わらないままでいれば向上することはできない。
到着した港町で首尾よく海の素材を得ることができたのは彼らのお陰でもあるから、カレンは余計なことを言わないで置いた。貴光教を出てから、口を噤むことも覚えたのだ。
その街で妹の病を薬で助けたことにより、小さな女の子に憧れの眼差しを向けられた。
それがきっかけになり、病を治す薬師を求めて別大陸からやって来た者の話を聞いてやることになった。
黒い肌に縮れた黒髪を持つ若者は、エディスで出会った魔族のことを思い起こさせた。彼の肌の色はもっと薄く、髪にも艶があり、垂れた目じりに色気があってもっと整った容姿で、と続けさまに浮かぶ考えを振り払う。
溺れる者が必死でしがみつくように、話を聞く素振りを見せるカレンと冒険者パーティに縋りついて話す。訛りが強く話を理解するためには根気強さを必要とした。
カレンも冒険者たちも冬の間は暖かいこの地域に留まることにしていたので、言語を習得していた。
驚いたことに、若者は南にある別の大陸からやって来たのだという。
彼は自分の大陸にやって来た商人から言葉を習ったのだと言った。その時は少し得意げだったのが人間らしいという感想を抱いた。
この大陸では服を着ると聞いたから、とりあえず布を巻いていると言う。つまり、彼らの暮らす大陸では暖かく、それだけに衣服を必要としないのだ。
男女ともに腰を布で覆う程度なのだという。
そして、その彼の郷里で村人が次々に倒れたのだそうだ。
初めは神の怒りだと思った。
けれど、以前やって来た別大陸の人間が言っていた病というものではないかと言い出す村人がいた。その場合、薬というもので治る。ならば、それを手に入れようとやって来たのだと言う。
「俺、商人に言葉覚えた。だから、俺、来た」
もうしばらくしたら暖かくなる。そうしたら、また別の所へ行こうと思っていた矢先のことである。
ならば、必要とされる所へ行くのも良いのではないだろうか。
カレンの脳裏には妹を救った薬師への少女の尊敬の眼差しがあった。多くの者が倒れたのならば流行り病だろう。老人や幼子がまず餌食になる。
若者が単身、木を組んだ粗末な船で別大陸から助けを求めに来た命を懸けたその熱意に、冒険者パーティはほだされた。
危険で金にならないと見て取ったから、誰も相手にしなかった。その冷たい態度に、自分がやらなくては、と思い込み、突き動かされたのだ。
だが、彼らはカレンを含め、冷静に考えるべきだった。
近くを通る商船に頼み込み、小舟を積み込んで勢いで出発した。
乗船するのに掛かった金額も少なくなく、手持ちがないと言う若者の分も支払った。
南の大陸が見えて来て小舟に乗り換えた。
若者の案内で密林を進んだ先に村があった。
そこには苛酷な現実が待ち受けていた。
実践的医療や理論がどうのなどといったことは吹き飛んだ。
死体が積まれて放置されて異臭を放っている。その傍らで、痛みに七転八倒する者たちがいて、まだ無事な者はそれらの出来事に恐れおののき、現れたカレンたちに縋りついた。
痛みが正常な判断をできなくさせ、狂暴になる村人に薬を飲ませるのも大変だった。
うるさくわめかれて冷静な判断ができない。早く治せとせっつかれた。
生まれた場所が違うだけで、これほど苛酷な運命が待っているのだ。
他所では飽食や遊戯に耽っている者がいる。王侯貴族は他者を働かせて楽しむだけである。むろん、血筋の存続のために結婚が自由にならないなどの点はある。だけど、これほど生々しく生命が脅かされることがあるだろうか。
カレンはとにかく働いた。
寝る間も食事をする時間もろくになかった。
神などいない。
胸をかきむしられるような慟哭が常に付きまとう。
助けられなかった者が出るたびに、内臓を掴まれるような激しい痛みを覚えた。
カレンも冒険者パーティも自分たちの甘さを呪う。
それでも何とか踏みとどまった。
もはや麻痺してそれが日常となっていた。必要とされることによって互いが依存していたとも言えるし、共同体に飲み込まれたと言っても良い。
それまでの価値観が全く通用しない共同体ならばこそか、無理やり体を繋げさせられたこともあった。それは襲い掛かるというよりも当然の行為として行われた。
カレンはその種族特性により魔力は高いが、細やかな魔法操作を不得手としていた。だから、手加減をしながら撃退するということができなかった。それ以前に、心身ともに疲れ果て、疲弊していたというのもある。ここにきて器用に魔力を操る人間をこれほどまでに羨ましいと思ったことはない。
彼女の高いプライドは完全に失われていた。
ばさりと大きなものがはためく音がして、びくりと体を震わせる。
いや、あれはここには来ない。
でも、最近、祭壇から離れた場所に降り立つ姿が目撃されている。
あれは正しく猛獣だ。獰猛な爪で肉を切り裂き、柔らかく熱い内臓を啄み千切り食らう姿は目に焼き付いている。
あんな獰猛な獣を飼いならすなんてできる訳がない。
あの力強さは確かに神の域だ。
村人たちが崇め畏れるのも無理はない。
神を祀るところに生贄あり。
生きるために強者に生命を捧げ、食べられることで神の一部となる。
生きることは残酷でグロテスクだ。
生生しいとは「生」が二つ。強調された言葉だ。
神は容易に助けの手を差し伸べてはくれない。
それでも、圧倒的な力に縋りたくなるのだ。
自然の猛威から逃れたいと願う。
神の力は軽々しく顕現しない。
人とは異なる価値観を持つからこそ、人ならざる者なのだ。
では、この苦しみ、この願いはどうやったら聞き届けられるのだろうか。
誰か。
助けて、助けて下さい。
誰でも良い。
無力な私を笑うなら笑えば良い。
灼熱の苦しみの果てに冷たい死が訪れる。
それから一人でも多く逃すことができるのであれば。




