32.鉄鉱石/花帯の君 ~食パンくわえた白狐とのお約束~
この世界では高炉で鉄鉱石を製銑し銑鉄にするのが一般的だ。プレイヤー生産職はスキルによって鉄鉱石から鉄を取り出す。そのスキルを持つ者が少数であることと、一度に取り出せる量が多くない。
大量の鉄鉱石を持ち帰ったシアンは、一般人としては鉄にしなければ売れず、どうしたものかと悩んだ。
シアンは鉄を取り出すスキルを持っていない。
土産として大量の鉄鉱石を渡しがてらフラッシュに誰か紹介してくれないかと相談すると、自分がやると言ってくれた。
国が軍事に傾いているという話にも関心を示した。
風の精霊は詳細を話すことを危惧したものの、フラッシュが信用に足る人間で、ウィンドチャイムも彼女が作ってくれたものだと言うと納得した。
フラッシュ自身も国の軍事云々の話は既知のことで、プレイヤーを取り込もうと画策している向きもあるらしい。シアンも気を付けるように忠告しつつ、パーティメンバーにシアンのことをある程度話していいか尋ねられた。
フラッシュのところにグリフォンが居候しているのはプレイヤー間で周知されているそうだ。そういうことならば、とシアンは頷く。
「何かの前兆のような気がしてならないよ。こういうのをお約束というんだろうな」
腕組みしながら言うフラッシュに、九尾が混ぜっ返す。
『食パンをくわえながら走っていたら、イケメンか美少女とぶつかるアレですね!』
「食パンをくわえた白狐……それはぶつかってみたいかも?」
フラッシュが鉄鉱石の処理をしてくれたとしても、鉄が不足している現状で大量に売れば、厄介ごとを招きかねないと、風の精霊が待ったをかけた。
商人ギルドに持って行ったとしても、目を付けられる。
そこで、風の精霊は魔族の商人を推した。シアンのためにならないことはしない、と。
勧められるままにディーノの店に行ってみれば、店主は不在にもかかわらず、店内に人影があった。
「おや」
振り向いたその二足歩行の何かを見て体がすくんだ。
口をゆがめて笑う男の陰からぬるりと何かどす黒い軟体生物が這い出てきて顔に生臭い息を吹きかけられた心地になった。
身の毛がよだつとはこのことだ。
「いやいや、駄目ですからね?」
いつの間にか扉が開き、光が差し込んでいた。店主であるディーノが入ってきてシアンと男の間に立つ。張りつめていた何かが緩み、息を吐いた。数瞬間、呼吸を止めていたことに気づく。
「貴様風情が」
笑ったままの顔はだが、すうと目が細まる。途端に喉を締め上げられた。空気が質量を持って圧迫してくる。重い。
「この街で事を起こすのはまずいと申し上げているのです」
再び何かが緩んだ。
「確かに。では、我はこれで」
男はディーノに一抱えもある包みを渡し、去っていった。
呆然とするシアンにディーノが詫びた。
「いやあ、すみませんねえ。あの人、迫力あるでしょう?」
「あ、あれは人ではありませんね?」
動揺していてうっかり思っていることをそのまま言ってしまった。そして、ディーノが常になく自分に敬語を使っていることにまで気が回らなかった。
「いやいや、あれでも人間ですよ。魔族の中でも力がある方なので。でも、ご心配なく。花帯の君に万が一のことはありません」
「花帯の君?」
「あっ……」
ディーノも失言したらしい。
はっきりさせておいた方が良さそうな気がして、シアンは食い下がって尋ねた。
しばらくのらりくらりと躱していたディーノが観念して話してくれたところ、魔族の世界では闇の精霊王は尊崇を集める存在で、弟の方は美しいのに身なりを顧みないことを歯がゆく思われていたのだとか。
「いえ、それが悪いとか思うやつは魔族に一人もいませんよ? ただせっかくお美しいのになあ、って」
そして、尊敬するあまり差し出口を挟むことを忌避する中、ついに魔族の神の一人がたまには違うお召し物をと進言したが、興味がなさそうだったそうだ。
「魔族の神! って何人もいるんですか?」
「ああ、うん、そこですか。ええまあ、何人かいます。魔族の神というか、正しくは闇の属性を持つ神ですね。他の神と同じようなものなんで、滅多に会う機会がありませんよ。人間の一部には魔王のように恐れられていますがね。人間って魔王が複数いると恐慌に陥るんですよね」
人間の一部とは貴光教のことだろうか。
「ああ、まあ、そうですね。魔王が入れ代わり立ち代わり現れたら心が折れますものね」
「はは、入れ代わり立ち代わり、心が折れる。やはり花帯の君は面白い」
「で、その花帯の君とは?」
まだ出てこない。
「身なりに興味のなかった闇の精霊王様の麗しい顔を隠す髪を整えまとめ上げ、花で編んだ帯を付けて、不快に思われないどころか喜ばせた、というので花帯の君と呼ばれているんです」
自分のことを見ず知らずの魔族が知っていた。闇の神も含め。
「ええと、ディーノさんの知り合いとかに?」
「いえ、魔族全体で」
「魔族全体で!」
「そうです。敬意をこめて」
「深遠にはちょっと強引に勧めてみただけなんですけど。魔族ってどのくらいいらっしゃるんですか? この街の人くらい?」
「あのお方に強引なんて無理です、そんな。魔族はこの国の人口よりちょっと多いですかね。総数で二百万人くらい?」
「にひゃくまん……」
笑顔で頷かれる。
中世ヨーロッパでは時代や資料によって異なるものの、その人口は一億人に満たなかったと記憶している。この異世界では魔法や幻獣といった不思議な事象や動植物がいることからも、多少の違いはあるだろう。けれど、それでも、何十倍もの人間がいるわけではない。そんななかでの二百万人だ。
「二百万人に知られているんですか、僕?」
「ああ、さっきの方みたいに顔や名前は知らないですよ。花帯の君という名称だけです」
心の底から安堵した。二百万人の敬意とは何だ。
「俺は唯一、先に知り合っていた魔族ってんで、同じ街に住んでいるし、都合がいいから色々便宜を図って差し上げることになっているんです」
「え、そんなご迷惑は」
「いえいえいえ、俺の身の安全のためにも!」
ディーノが笑顔で必死に否定する。
「身の安全?」
「全魔族が花帯の君の自由を阻害しないように、不要な干渉をされないようにと強権で取り決められたんです」
「ええええ英知、強権って何?!」
動揺が限界点を超え、風の精霊に頼った。
『国家が国民に対して持つ司法上、行政上の強い権力』
「いや、言葉の意味じゃなく!」
『私が闇のを通して全魔族にそうするように依頼したんだよ。彼らは真実、闇のに心酔しているから。その彼に影響を及ぼせるシアンを放っておくはずがないだろう? だから、先手を打って余計な手出しをしないようにしておいたんだ』
先見の明、恐るべし。
言われてみればその通りだ、とシアンは得心がいった。
「英知!」
風の精霊の両手を掴む。
「ありがとう! 本当に助かるよ」
満面の笑みで礼を言うシアンに、風の精霊は微笑んで優雅にお辞儀した。
「あー、もしかして他の精霊王様がここに?」
「風の精霊王がいます。説明の補足をしてくれていて」
言いにくそうに聞いてくるディーノにシアンがそういえば精霊は他者には見えないし声も聞こえないのだと思い出す。
「本当に俺、いつこの世とおさらばするかってヒヤヒヤする」
ディーノが天を仰いで呟く。
「すみません、ご迷惑をおかけしているようで」
完全にとばっちりである。
「いえいえ。本当に花帯の君はお気になさらずに」
なのに、嫌な顔一つせず、逆に歓迎されている風ですらある。
「で、さっきのは魔族でも力が強い方で、その分、権力もあるんですよね。引いてくれなくて貴方に危害が及ぼそうとでもしたら、と思うと……さすがに同族が細切れになるのを見たくないですし」
「え、僕がではなくて?」
困っているものの、本当に迷惑そうではないのが不思議だ。また、先ほどの男の方が危険にさらされていたというのに首を傾げる。
「何をおっしゃる。風の精霊王がさせませんよ」
「魔族の神はさっきの方よりも強いんですか?」
怖気が走るほどの違和感を思い出す。
「神ですからねえ。比べ物になりません」
「そ、そうですか。まあ、今後会うこともないでしょうし」
会えなくてもいい、そうは思ったが口にしないでおいた。
その後、シアンは本来の目的であった鉄の売買をディーノに引き受けてもらうことができた。
「ちゃんと正規の値段で買ってくださいね?」
「大丈夫ですよ」
にっこり笑って言われる。
「必要以上に高く買ってくれなくていいんですよ?」
「今は高騰していますからね」
物の価値に疎いシアンにはそれが適正価格なのかどうか不明だ。ただ、この価格で適正だと言うディーノの言葉に嘘はないように思えた。
「早く収まるといいんですが」
「どうでしょうか。色々きな臭い噂も流れてきますからね」
やはり戦争が始まるのだろうか。
プレイヤーのようにイベントの一つとしては考えることができないシアンにとって、それは避けたい事態だ。知人を失うのは仮想現実の世界でも辛い。