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天地無窮を、君たちと  作者: 天城幸
第七章
318/630

1. 水端

 

 汗がこめかみから頬、顎を伝っていく。拭う間もない。

 耳元を羽音が横切り、えらに蝿が止まる。それすらも払う余裕もない。

 すぐ傍に折り重なる死体には白い豆粒のような蛆が蠕動している。楕円の体をくねらせ、少し前まで生きて呼吸していた黒い肌を這いまわっている。乾ききった肌は艶を失って硬くなっている。

 蒸し暑い気候の最中、昨晩遅くから立て続けに息を引き取った村人たちは異臭を放っている。

 いや、あれは昨晩のことだったろうか。

 朝方だったろうか。

 今は何時ごろだろう。

 思わず視線を空にやれば、太陽は黄色く見え、くらりと眩暈が襲ってくる。

 圧倒的なものに、全てを奪い取られていく無力感を味わっていた。

 腕を伸ばして何とかせき止めようとしても、波打ち際の水が砂を浚っていくように、呆気なく滑り出ていく。

 村で倒れた者がいた。

 三日後には死亡した。

 その後、次々と同じような症状が広まり、瞬く間に病人が増え、そして、死者も出た。

 嘔吐し、発熱し、血を吐き、死んでいく。

 時には腹を押さえて痛みにのたうち回る者もいる。

 そうして、病魔は暴力的に村人たちを次々に襲って行った。

 片っ端から薬を飲ませたが、効果は薄い。

 せめて熱だけでも下げられないかと体を冷やしたり、病人が体外に出すものを処理したりするのに忙しい。

 無事な村人は総出で看病に当たっていた。

 それだけ、罹患する者、躯となった者は多かった。

 昨日まで言葉を交わし、体温を感じ、豊かな個性で接していた近しい人たちが、突然奪われた。苦しんで醜態を晒して、呆気なく死んでしまう。

 次は自分かもしれない。

 手が空くと忘我に陥る者もいる。

 空を見上げ、地に額をつけ、ひたすら神に祈りをささげる者もいる。心境は同じだった。

 どうか、どうか。

 誰でも良い。

 誰か、助けて下さい。

 得体のしれない、真隣りにいる死から救ってください。

 動悸が激しくなるこのどうしようもない恐怖から助けて下さい。



 静謐な空間は四方八方に広大で仄暗く、空気さえもまどろんでいた。ろうそくに闇色の炎が灯り、ゆらゆらゆらめく。

 優美な柱が支える場所の奥には玉座が設えられ、座した者が思索に耽っていた。仮面の下部から続く高く広い鼻梁、分厚い唇に太い髪と同色の黒い眉をしている。

『そのしもべを連れて夜を逝き』

 グラスの中の琥珀の揺れる液体を見つめながら言葉が漏れる。

『我が君、それは?』

 やや離れた場所に佇み控えていた眷属が、不思議な響きのある語句に虎の首を巡らせる。

『以前神だった男の行きついた先よ。今は理想郷で暮らしておるわ』

 かの魔神は神を降りる際、仮面を外した。

 仮面は彼ら魔神の神としての象徴だ。人としての人格を覆うものである。

 今は白皙を晒して生きているかの者は、果たしてどんな心境なのか。

『考えるまでもないこと。花帯の君と黒白の獣の君に仕えることが叶うておるのだからな』

 主の言葉に虎は恭しく頭を垂れて同意を示して見せる。

 しばらく、思考にたゆたう主を気遣って気配を殺していた眷属は、配下の者から発信された連絡を察知し、再び口を開く。

『我が君、手の者が帰ってまいりました』

 魔神はグラスを放り捨てて立ち上がる。見事な織物に染みができるのに一瞥もくれず、魔神は鋭く言う。

『疾く通せ!』

『は!』

『ちっ、俺が行けば早いものを』

『貴方様は魔神。動くのは眷属と決まっておりまする』

 苛立ちから舌打つのを、その場にとどまったままの眷属が宥める。魔力を用いて離れた部下に指図するのは造作もないことだった。

『ふん、その様な決まり事、かの君らの前では塵芥に等しいわ』

 むしろ、かの君らに献上するものを他者の手によって用意することの方が恐れ多い。やはり、こればかりは自分が手ずから行うべきだったと後悔しても遅い。

『忌々しきはかの者よ。貢物に条件を付けてくるなど』

 金に糸目を付けぬように上限を設けて来た。下限を設けられても馬鹿にするなと憤っただろうが、あまり高額なものを贈られれば花帯の君が恐縮するので、手土産の範疇でと上限金額を明確に切って来たのだ。

『童の小遣い程度の金額ではないか!』

 そこそこ裕福な人間の一か月の生活費分くらいの金額だ。島で家令を務める彼はその辺りが妥協金額だと提示したのだ。花帯の君の謙虚さを前面に押し出されては否やは言えぬ。

 しかも、消え物でとの条件まで付け加えられていた。

 リンゴやトマトは皆が考えるだろう。

 同じものが沢山あっても仕方がない。

 しかし、喜ぶものを差し上げたい。ましてや、美味しそうに口にする御姿なぞを目にすることができてしまうことなどあれば。

 妄想は膨らむ一方だった。

 魔神たちはそうして、躍起になって上限間際の金額分の食料や素材を手に入れ、実際手に取り味を確かめ、厳選した。

 花帯の君と黒白の獣の君に直接贈り物をできる、またとない機会である。全精力を傾けてこの難題に取り組んだ。

 広大な広間の向こうの壁側に霞んで見える扉が開いた途端、逸った主が動く前にと眷属が翼を広げて駆ける。翼を用いて床を太い脚で蹴り、一足飛びに配下が携えて来たものを受け取る。

 振り向いて玉座の端近に戻ろうとしたら、そこには主が佇んでいた。

『我が君……』

 いつになく急いでみたものの、やはり主は待ちきれなかった様子だ。

 眷属の戸惑いを余所に、献上物にと手配させた代物に、尊いもののようにそっと触れた。

『おお、これが』

 魔神が管轄する地域には幸運なことに、上質なリンゴ酒を造る地域があった。

 バランスの良いリンゴ酒を造るためにはブレンドに熟練の技術と知識が必要とされる。収穫、醸造、蒸留、樽熟成の工程は数年掛かりで行われる。一朝一夕では用意できない代物だ。

『大儀であった』

『はは!』

 眷属の配下は直に声を賜う栄誉に浴し、感極まって頭を垂れる。

『ああ……。お前の言う通り、これにして良かった。礼を言う』

 魔神はため息交じりに酒瓶を見つめる

『もったいなきお言葉』

 常に傍らに従う眷属は主の役に立てた喜びを噛みしめ、こちらも頭を垂れた。



 花帯の君や黒白の獣の君、そして彼らと親しむ幻獣らから、島と館の礼として茶会を開催するという招待状が届いた。

 魔族語で書かれた文面は、数種の筆跡によることから、幻獣たちが代わる代わる少しずつ書き記したのだと知れ、神々しさに目が潰れるかと思った。高位幻獣とはいえ、魔族語を書ける者はそう多くはあるまい。わざわざ学んだのかと考えると、持つ手が震える。

 幾度も読み返し、丁重に保存してある。

 魔神は感激に打ち震え、つとに準備に余念がなかった。服装、手土産の選定、心構えである。

 たまさかに献上物が他の魔神と同じものになってしまったら。

 そんな考えを振り払うように、なまめく肌に艶やかな髪が掛かるのを煩げに払う。珍しく粗野な仕草に眷属の下位の者が戸惑う風情を見せる。上位の者はどこか気づかわしげに見守っている。

 敢えて広くせず、居心地よく品よく整えられた居室で彼らの主は普段の落ち着きはどこへやら、そわそわと浮足立っていた。

 座ったかと思えば立ち上がり、長い裾を優雅にさばいて部屋の中を歩き回る。そんな児戯じみた行動をしてすら、侵しがたい気品は損なわれていなかった。

 仮面の下部から伸びる鋭角に高い鼻梁とそれに続く薄く形の良い唇と細い顎、頬を紅潮させ、期待に胸を高鳴らせる。

『我が君、献上物もご衣装も整いました。後は時が来るのを待つだけ』

 側近たちがこぞって手伝い、準備は万端に済んでいる。まだ日数はあるのに、落ち着かない日々が続いていた。

 普段の鋭利で必要最低限の動作で最大の効果を得る主とは打って変わった様子に、そっと眷属筆頭から声がかかる。

『おぬしらは分かっておらぬ! あだやおろそかにはできぬのだ』

『勿論でございます。ですから、心身を整えるのも肝要かと愚考いたします』

 手土産も衣装も整った。後は心構えだけだと言う。

 眷属の言を受け入れ、魔神は席へ戻り、茶器を手に取った。

 迷いない美しい所作、無駄のない動作である。下位の者が思わず、ほうと息を漏らす。

『そなたのような者がいてくれて私は果報者よ』

『身に余る光栄に存じます』

 諫言した眷属が首を垂れる。

『そちらもよう手伝うてくれた』

 部屋の壁一列に整列し、膝をついて控えていた眷属たちにまでも声が掛かる。主の高揚が分かろうものだ。

『恐悦至極に存じます』

 揃って床に額が付くほどに頭を下げる。

『ああ、待ち遠しいものよ。ようやっとかの君らの御尊顔を拝することが叶うのだ』

 常の鋭い気配からは想像もつかない蕩ける眼差しで中空を見つめる主を、眷属たちは微笑ましげに見守った。



 その他の魔神たちでも似たような事象が起こっていた。

 眷属たちは魔神たちを率先して手伝い、事態を加速させる者や諫める者、様々である。諫める者も理性ある忠義者で、主人のためを思ってのことだ。それが分からない魔神ではない。

 彼らは真剣だった。

 これほどの力を注いで何かを成し遂げるなど久方ぶりだ。

 いや、花帯の君らに島と館を献上した際、吟味した時も同じだった。

 神々はその威に自然と頭が下がる、隔絶した存在だ。

 そんな神に、人の身からなった魔神たちは、自分たちの庇護下にある一族が闇の君の加護に相応しくないと花帯の君を襲ったことへの謝罪を込め、衣服などを献上した。謙虚極まる花帯の君は、あろうことに、闇の君に譲渡された。魔神たちはあに図らんや、自分たちの営みの粋を込めた物を、身に着けていただく至高の栄誉に浴することを賜ったのだ。

 これほどの幸せがあろうか。

 感激に打ち震え涙し、意識を手放しそうになった。

 しかし、花帯の君はその先を行った。

 魔神を含め、魔族が長年囚われていたことに終止符を打ったのだ。

 自分たちは間違っていた。

 闇の君に許しを乞うていたこと自体が間違っていたのだ。

 それを花帯の君は、人の身でありながら、敢然と許すことを強要するなと宣われた。

 闇の君のご友人であった魔神を食らって生き延びたのだから、それを良きものとするために、尽力せよと仰せられた。

 これほどの毅然、これほどの高潔があろうか。

 人の価値観や力から大きくかけ離れた神を前にして、闇の君の御為にいかほどの勇気を奮われたことか。

 そして、魔族らが罪悪にとらわれて生を全うしていないことを指摘され、そんなことを慈悲あまねく闇の君が望むだろうかと訴えられた。

 まさしく、その通りである。

 重厚さからほど遠い、不思議な軽やかとすら思える威厳に打たれ、魔神たちはことごとく膝をついた。

 実に、実に花帯の君は花のごとく優しく麗しいご気性の方だった。

 そうして、輝かしい途を、魔族たちに示して見せたのだ。

 花帯の君の言は闇の聖教司たちを通じて広く魔族に伝えられ、その指し示す途の輝かしさに民は心を震わせた。

 初めての価値観へ、新しい世界へ、と誘われ、魔族たちは勇躍して生を全うすることを誓った。



 狼の王の眷属フェンリルは伝承に残されるほどの巨大さを誇っていた。

 普段は動きやすいように大きい狼程度の姿を取る。

 フェンリルは前狼の王に仕え、かの御方が封印される際、次代の狼の王に仕えよと命じられた。かの御方には筆頭の眷属ケルベロスが付き従うのみだった。

 叶うことならば、自分も付いて行きたかった。けれど、後のことを考えれば、それができるはずもないと知っていた。

 フェンリルは地獄の番犬と称されるケルベロスとは双璧を為し、前狼の王に良く仕えた。

 その前狼の王は現在、闇の君の加護を受けた御方の領土と館を守っているのだという。そして、その傍らにはやはり、ケルベロスが従っているのだと聞いた。

 猛々しく狂暴なかの者が他の幻獣たちと軋轢を生じさせていないか、闇の君が心を分けた御方に無礼を働いていないか、と遠く離れた地へと思いを馳せた。





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