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天地無窮を、君たちと  作者: 天城幸
第六章
255/630

11.貴光教総本山にて

 

 アリゼは折角薬草園が神殿に併設されているのだから、と内部にも目を向けた。

 一番人数が多いのは労役係だった。

 神殿内部の清掃や洗濯、調理や信者の応対、畑で野菜など食料の栽培を行う。イルタマルから依頼があれば薬草園の手伝いもする。

 その労役係の長がゴスタで補佐がヘイニである。

 彼らと言葉を交わしたのは大神殿へ来た日くらいだったが、人当たりが良いのだろうと思っていた。

「そんなことないわよ! 気を付けなさいよ、結構な腹黒で隙を見せたら付け込まれるわよ」

 食堂へ向かう最中、廊下で何気なく呟いたのを拾い上げたのは同室のミルカである。

 アリゼより一つ二つ年上でそばかすの浮いた頬に上向いた鼻、麦わら色の髪をしていた。

 幼い者は別の所で簡単な雑役を行うらしく、アリゼと同年代は彼女くらいしかいない。もう一人いるにはいたのだが、このミルカの忠告によって、あまり関わりを持たないようにしていた。


「ゴスタ師は優し気な物言いだけれど、逆らう者に容赦しないわ。それに、部下の失点で自分に被害が及ぶのを毛の筋ほども許容できないの。部下をかばうという気持ちは皆無ね」

 立て板に水とばかりに小声で話す。共に食事に向かう年かさの女性たちが苦笑しつつも数人は頷いている。皆似た出来事に遭遇するか、もしかすると何らかの弊害を受けたのかもしれない。


「ヘイニさんは物事をすこうし捻じ曲げて、相手も悪い、という論に持ち込むのが得意ね。いつも自分が正しいという結果に持っていくのよ」

 姑息な責任転嫁が得意と言ったところだろうか。

「分かるわ、相手が悪い、というような言い方をするわね。自分もやろうとしていたのに、そっちが持ち堪えられなかったからお前の責任だ、って」

 ミルカの言葉に思わず、といった態で零した女性が口に手を当てる。

 一瞬間、沈黙が降り、女性たちは笑いさざめきながら軽やかに廊下を歩き、食堂へ入った。弁えたもので、途端に静かになり、歩みもしずしずとしたものになる。ミルカなど、アリゼの視線にわざと気取った表情を浮かべて見せるので、頬の内側の肉を噛んで笑いをこらえた。

 後に振り返れば、この短いひとときが年相応にあどけない時間だった。



 ミルカは実に大神殿に来たばかりのアリゼに様々なことを教えてくれた。

 風呂の使い方、労役係へ洗濯の頼み方、どの食事が美味いか。アリゼは薬師見習という身分であるものの、労役は完全に免除されているという珍しい立場だった。そのため、洗濯などと言った雑用を頼まねばならないことが逆に面倒だった。

 ミルカは大神殿へ来て三年になる労役係で、大体の事情を呑み込めている。

 薬師見習は時に労役に狩り出されるのだが、それを免除されているからといって何もしなければ周囲の視線が尖る。だから、時折労役の一環として、礼拝の補助をするよう勧められた。月のこの日とこの日にすれば、甘い物を差し入れてくれる信者に遭遇する、といった風に実に有益な情報を与えてくれた。


 初めは警戒していたアリゼが何故、これほど親切にしてくれるのか、と直接尋ねてみた。ミルカは悪い人間には見えなかった。それは甘い考えなのかもしれなかったが、アリゼは全方位に警戒することに少し疲れていたのかもしれない。

 すると、ミルカはにっと笑って、自分には郷里にアリゼと同い年くらいの妹がいるのだと話した。

 だとするとミルカとそう年は変わらない。なのに何故、姉だけが大神殿で労役係をしているのか。

 疑問は問うことができなかった。

 デリケートな部分に触れるかもしれなかったからだ。好意を向けてくれる相手の機嫌を損ねたくないという弱気もあった。

「どこもそうらしいけれど、うちの村も貧しくてさ。ここみたいに食事をきちんと摂ることができないのも珍しくなくてね。妹もあんたみたいな痩せっぽっちだったよ。もう三年も会ってないんだ。だから、代わりに面倒を見てあげたいのよ。あんたは大事にして貰っていればいいの!」

 そう言って笑うそばかすのある笑顔は眩しかった。


 中々の情報通でどこで仕入れてくるのか、貴光教の暗部、黒の同志のことも知っていた。

「黒い変な恰好をした人たちでしょう? 何をやっているんだか、顔を隠しているんだから、大方後ろ暗いことでしょうね」

 正しくその通りである。

「知っている? 彼らはね、犬目と呼ばれているのよ」

「犬目?」

 鸚鵡返しミルカが頷く。

「そう。犬目。涙の出ない目のことを言うんだけれど、涙を流さない非情な人たちだっていうんですって。そこからつけられたあだ名よ」

 異様な風体の男たちを時折見かけることもあるだろうが、あれに関しては深くかかわってはいけないと教えてくれた。興味本位で探ろうとして帰って来ない者もいるといった噂もある。

 何をやっているんでしょうねえ、というミルカに曖昧な相槌を打つ。

 自分もまた涙を流すことはない。その権利はないのだ。



 ミルカの忠告によって、あまり関わりを持たないようにしていた同年代の女性はヨセフィーナというややふくよかな可愛らしい女性だった。

 ヨセフィーナは労役係だったが、一定の雑役しか任されていない。アリゼなどはそういうものか、と思ったくらいだったが、一度、ヨセフィーナに呼び止められてアリゼが労役を免れていることに触れて来たことがある。

「アリゼさんは労役をしなくても良いんですか?」

「はい。私は見習ではありますが、薬師に関することのみに従事し、他の一切は労役係の皆様を頼るよう申し付けられています」

「そうなんですね、私と同じなんですね! あ、その手袋、素敵ですね」

「ああ、これは薬草を扱う時に使うものなんです」

「そうなんですか。支給されたものなんですか? 私も雑役の時に手を痛めてしまうことがあって」

「はい。取り扱いの難しい薬草もありますから」


 そのやり取りを遠目に見ていたミルカに、あれは手袋が欲しいと言うことだったのだと指摘され、棒を飲んだように立ち尽くした。

「でも、これは薬草を扱うから支給されたものよ」

 だから、アリゼはそう答えたのだ。言われてみれば遠回しにそういう意図を示唆していたと受け取れなくもない。

「そこは、ヨセフィーナのためにもう一つ貰えないか聞いてみますね、くらいは言ってほしかったんじゃないかなあ」

 信じられない気持ちでミルカを見つめる。

「いや、分かるよ。うん。私もアリゼと同じ気持ちになると思う。というか、似たようなことを言われたことがあって、そうなった」

 ミルカは腕組みしながら二度三度頷いて見せた。


「私、あの子にミルカさんは他の女性たちと仲良くできて良いですね、って言われたことがあるの。自分は年上の女性と話すのが苦手でって。そうなんだ、って返事してそれっきりにしていたらさ」

 思わせぶりに言葉を途切らせる。

「どうなったの?」

「ゴスタ師とヘイニさんに呼び出されて、何で会話の輪に入れてやらないんだって責められた」

「えぇっ⁈」

「あ、すみません、仕事の話しかしていないので、必要事項があれば、一緒に話を聞いて貰いますから、って言っておいた」

 自分から話しかけるのではなく、輪に入れてやれ、と他の者が立場を利用して注意してくる。

「どんな仲良しグループだってのよね。こちとら、忙しく働いているってのに、一々雑談にお呼びして差し上げるほど、暇じゃないってのよ」

 憤然と言うミルカは、そうしたらさ、と続ける。

「まだ何か言われたの?」

「言われたのよ、これが」

 ミルカが真面目な顔つきで頷く。

「もっとヨセフィーナにも話かけろ、彼女はお前みたいな何にでも首を突っ込める人間じゃないんだから、ってさ」

 アリゼは絶句した。

「いやあ、ここって一人の女性を楽しませるための場所なんですねー、って言ってやりたかったわ!」

 ミルカは大きく鼻息を一つ漏らす。


「確かにさあ、年上の女性と話すのが苦手ってのは分かるよ。誰にでも苦手なことはあるわよ。たださ、それを出来ないんですうって弱々しく泣きついて、他の人間に言わせるのはどうよ? あの二人もさあ、それをそうだねえ、酷いねえ、って受け容れて、私に何でやってやらないんだって責めるのはどうなのよ?」

 大方、ミルカは酷いんですう、とでも言ったのだろう、と間延びした声音で腰をくねらせながら言う。顔は眉根を顰めて唇を尖らせ、拗ねた困惑の表情をわざとつくっているような何とも言えないものだ。

 その表情と仕草、声音が可笑しくて、アリゼは思わず噴き出した。

「何よう、私は怒っているんだからね!」

 憤慨して見せたミルカも釣られて笑い出す。


 貴光教の本部でとんだ喜劇が繰り広げられているとは考えもつかなかった。

 ヨセフィーナは弱々し気に見せかけておいて結構気が強いのよ、優しい振りして自分の得になることしかしない、と目じりに浮かんだ涙を拭いながらミルカが言った。

 つまり、自分が一番大切にされなければ気が済まなく、か弱い振りで他者を動かして思い通りにしようとするということだろう。

 助長させているのがゴスタとヘイニだ。

 ヨセフィーナが弱々しい女性であってほしいのだ。そして、それを守るのが自分たちの役目だと自負している。

 それを見て取ったミルカは離れておくことにしたが、それすらも気に入らないと言われる。

 彼らは自分たちの思うままにするために、ルールを逸脱し始めていた。

 けれど、他者の動向に気を配っている余裕はなかった。後に、この場所で地位を確立するのであれば、そういった変化の激しいパワーバランスにこそ敏感であるべきだったと臍を噛むことになる。

 アリゼは薬草園の仕事に慣れることとミルカという初めて得た友人のこと、そして、もう一つの懸念で許容量を越えそうになっていた。

 大神殿の長である大聖教司の一人に面会に呼ばれていたのだ。



 大聖教司の一人オルヴォ・カヤンデルは貴光教の聖教司では珍しい黒髪の持ち主だった。瞳は鮮やかな青で二十後半のその地位に就くにしては随分年若い男性だ。

 端正な容貌と何より美しい声の持ち主だった。低くもなく高くもない柔らかいテノールは落ち着いた話し方から優しい印象を受ける。

 貴光教本部にグリフォンが神託の御方ではないかというエディス支部の訴えは伝わっていた。それに対して本拠地は懐疑的だった。安直に答えを出すべきではないと言う姿勢を貫いている。

 それよりもドラゴンを問題視しているようである。

 街や人を襲うドラゴンの話は掃いて捨てるほどあるが、街を守ったドラゴンなど前代未聞である。

 それを目撃したというアリゼに詳細を尋ねてきた。同じことを、イシドールやジェフからも聞き出しているのだろう。


「その後、一度も大きくなったところを見たという報告は上がっていないのだな?」

「はっ」

 アリゼは部屋に入って右手奥の椅子に腰かけた人物の前で跪き首を垂れながら恭しく答える。扉の正面に位置する大きく取られた窓から晩夏の日差しが注いでいる。

「そうか。では、もしかすると、容易に大きくなることができぬやもしれぬな」

「と仰られますと?」

 思案気な声に尋ねてみると、意外に気さくな答えが返ってくる。

「大きくなるために相当無理をしたということだよ。何でも、ドラゴンの屍を退けた後はまた小さくなって、力なくその翼の冒険者に抱かれていたのだろう?」

「仰せの通りにございます」

「ふむ。では、相当な力を使うのであろうな。そんな力はそうそう有していないとしたらどうだ」

「さほどの脅威ではございますまい」

 アリゼは簡単に返したが、若輩で地位を上りつめる才覚のある者の流石の炯眼であった。


「そうだ。しかし、今後はどうだ。力をつけて頻繁に大きくなられてもみよ」

 大きくなれば嬉々として肩縄張りにしている吟遊詩人の楽曲に合わせて歌を歌っただろう。

 配下の者から大きくなったドラゴンが歌を歌ったという報告も受けていた。ところが、都合よくそういった情報は頭から抜け落ちていた。どれだけ切れる頭脳を持っていても、使い様を過てば、物事は歪む。

 人は見たいものしか見ない。情報の取捨選択も自分の価値観というフィルターを通す。だから、事実は事実として伝わりにくい。


「そなたがあの毒を作り出したのだそうだな」

 アリゼはこちらが本題か、と畏まる。

「若い身空で素晴らしい才能だ。励め」

「はっ。勿体なきお言葉」

 どうやって毒を作り出したのか、今までの薬草園の様子などを様々に質問されるままに答えた。


 そうして、大聖教司との謁見が終了しようとしていた時のことだった。

 差し込んでいた光がさっと翳ったかと思うと、激しい甲高い音が響き渡り、窓が割れたと知れる。

 咄嗟に何故そうしたかわからないが、アリゼは立ち上がり、そのまま飛び跳ねるようにして駆け、大聖教司の前に立ち、振り返った。ちょうど大聖教司と闖入者の間に立ちふさがる形となる。

 体に沿う上着にズボン、顔は布で覆い隠している。

 暗殺者だ。

 アリゼがそう思う間にも、部屋の片隅に控えていた護衛の黒ローブがするすると動き、腰に吊り下げていた大ぶりのナイフを無造作にも見える躊躇の無さで投げつける。

 唸りを上げて闖入者に真っすぐ飛び、ざっくり背中に突き刺さる。

 素晴らしい膂力、コントロールだ。

 アリゼは目を見開いて暗殺者の胸から生えた刃の切っ先を見つめる。

 刺客が血しぶきをまき散らしながら倒れ伏すのを呆然と眺めていたアリゼは我に返ってそのまま振り向いて膝を折り、頭を下げる。

 その寸前に見えた大聖教司は眉を顰めていた。

 静謐と清潔を第一にする教義なのだから当然だ。それでも護衛に誉め言葉を掛けるのは流石である。内心、もっと汚さずに片付けろとでも思っていただろう。


「アリゼと言ったな。そなたもよくぞ身を挺してくれた。礼を言う」

 大聖教司の一人の心象を良くできたのだから、上々の首尾と言えた。

 けれど、頭を下げながらアリゼは身体の震えを止めることができなかった。

 護衛の男が素早く動く際、赤い手袋が垣間見えた。

 背筋に戦慄が走る。

 これがかの、世界でも数人しかいない者。犬目と呼ばれる原因となった本拠地の黒の同志の頂点に立つ者なのだ。



 神とは人と隔絶された存在である。

 とにかくすごいもので、縋りつきたい対象である。

 この世界は過酷だ。衣食住をようやっと整えて、その上で求めるのは神への慈悲だった。

 羽虫があくせくと羽ばたき、天敵から逃れるようとあたふたとしているのを、ふと興味を持って注視する、そのくらいの力量差、温度差の存在だった。

 特にここ貴光教では神への偏愛が激しかった。

 けれど、内部の人間は様々な価値観、多様な考えを持つ者の集団だった。

 アリゼは早く研究に携わることができるように今できることを懸命に頑張った。

 そうすることで、研究者である薬師に物品を運ぶ任を任された。

 痩せぎすで青白い肌の悪い男もそのうちの一人だった。

 最近ではもっぱら地下室に籠って研究をしているから、日光に当たることなく血色が悪くなったのだという噂である。

 そんな話を耳にするくらいには馴染んでいた。

 だから、同じ薬師見習に聞いたことがある。

「ねえ、あの人って、何だか左耳が大きくない?」


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