43.黒衣の少女の地固め
窓がなく薄暗い納屋に入ると埃に混じって汗の臭いがした。顔をしかめるまでもなく、もはや慣れた。
「いるんでしょう?」
「ここだ」
小さく声を掛けると、棚の影から黒いローブ姿の人影が現れる。
この布切れを脱ぎ、傍目から見るようになれば、まさに滑稽だとしか言いようがない。
「誰にも見られなかったか」
わざわざそんなことを聞くまでもない。見つかったらここには来れないだろうし、知らず後をつけられていたとしても、知らないのだから対処のしようがない。いわゆる形式美というやつか、と流しておくことにする。
「もちろんよ」
ちょっと微笑んでやれば、黒いフードの奥の緊張が弱まるのが感じ取れる。
一歩踏み込んでくるのをするりと避ける。
「それで、例の本の行方は分かったの?」
「あ、ああ、神秘書のことだな」
アリゼは具体的な言葉を口にしなかったのにも関わらず、明らかであることをわざと言う男に内心苛立った。言わなくてもいいことだし、誰が聞いているか分からない。つい先ほど自分が第三者への露見を危ぶんだというのにだ。
「それが、件のニカに行って隅々まで探したが」
その後にあれこれと自分が苦労したことを微に入り細を穿って説明したが、結局のところ、結論は一つだ。
「見つからなかったのね?」
くどい男につい心情が声音に出る。
途端に、傷ついた風に沈黙することすら腹立たしい。
「貴方ほどの人にも見つけられないなんて」
しかし、それ以上の内心は出すべきではない。アリゼは悲し気にため息をついて見せた。
「そうなんだ、俺ですら見つけることができないなんて」
そこで思わせぶりに言葉を切る。本がないのではないかと言いたいのだろうが、自分の役立たずを棚に上げているだけにしか思えない。
「そうだったら困るわ」
アリゼははかなげに微笑んで見せた。
男が生唾を呑み込む。
「もう少し頑張って下さる?」
言いながら今度は嫣然と笑い、黒ローブの頬辺りを布越しに撫でる。思わず、といった態で黒いローブの裾が持ち上がるのに、またもやするりと身を躱し、アリゼは戸口に手を掛ける。
「ああ、私はもう行かなくちゃ。貴方も見つからないように、ね?」
笑顔を作って素早く外へ出た。
アリゼは大国の国都において重要な役割を担う薬草館で地位を確立しつつあった。
それで満足せず、人知れず手札を増やそうとしていた。
薬草に関する知識を蓄え、新たな研究に取り組み、より効果のある薬剤を作ろうとした。
先日、手に入れた異類の素材と薬草を配合した毒は強力で、アリゼの功績を認めさせるのに十分に役立ってくれた。
だが、まだ足りない。
立場を盤石にするためには、もっと他の手も必要だ。
また、蔑まれ罵られる、八つ当たりの対象に転落するのは避けたい。
自分一人が考え出すことには限りがある。
そこで、他者の知恵を借りようとした。
そういった知識の結集された書がいわゆる神秘書と呼ばれるものだ。それを知ったアリゼはひそかに手懐けておいた黒ローブに声を掛けて探させていた。結果ははかばかしくない。元が荒唐無稽に近いものなのだ。魔術書や奥義書、場合によっては呪術書という別名を持つ。いるかいないか分からない精霊のことにすら触れている書もあるのだ。眉唾ものと言われているが、アリゼはその神秘書を手に入れていた。
レフ村の領主の館から半ば焼けた書を黒の同志が持ち帰った。
それが薬草園に持ち込まれたのは、薬草に関する記述があったからだ。すわ、神秘書かと普段地道な作業に勤しむ薬師たちは色めき立ったが、それまで薬草園で研鑽を積んだものとは違う、いわば魔女の所業と称される薬の作り方が記されていた。途端に取るに足りないものとして興味を失われた。その見向きもされぬ書はアリゼの手元に回って来た。曰く、魔女に育てられたお前なら興味があろう、と。
隅々まで目を通してみたものの、焼失が激しく、残った部分だけではろくに薬は作れないと判断し、不要とみなされたのだろう。期待が大きかっただけに、失望も深く、それだけに手荒に扱われたり捨てられずに済んだことは重畳だった。
残った部分を丹念に読み解き、類推したアリゼは何とか判別できた記述を実践することによって、イシドールに多大な影響を与えることができた。
それだけに、神秘書の完成版を目にしたい。
幻ではない。実際にあるのだ。
見込んだ男が頼りなくて腹立たしい。
捜査が進まない理由の一つに、魔族が活発に活動するようになり、本来の仕事が忙しくなっている、というのもあった。
男の言い訳に、そういえば、実働部隊から離れて情勢が分からなくなっていたことに気付かされた。
取り残された心もとなさを感じ、イシドールにそれとなく情報を得たいと漏らした。
アリゼの機嫌を取りたい薬師長は、ちょうどエディスの貴光教神殿を訪ねて来ていた放浪の薬師に引き合わせてくれた。
彼は祭壇を背負ってあちこちで布教しながら薬を煎じている、まさに聖教司の模範とも言うべき人間だった。少し前、エディスの貴光教神殿が火災に遭ったと聞き、手助けに駆け付けたのだという。
「あちこちをうろついているので、駆け付けたと言っても、事は収束しているのだとは存じていました。それでも、もし事後の影響に悩まされている方がおられたら、その助けとなりたいと思ったのです」
そう言って爽やかに笑う男は正しく聖職者の模範となるべき人物だったが、違った意味で異性を惑わしそうな色男でもあった。
縮れた金色の髪の毛が跳ね上がった眉尻に掛かっている。髪をいつもは伸ばしっぱなしにしているが、こちらへ来て切って貰ったり、逆に世話をしてもらっているという様子に嫌味がない。
アリゼを喜ばせたことに、彼は翼の冒険者とも出会っていた。
「アリゼさんはシアンさんのことを知っているのですね。彼は穏やかで安定していて、とても良い方ですね。傍らにいるだけで癒されるような心地になりました」
そうシアンを評価し、更には幻獣たちを連れて薬草に興味を示したり、出会った村で料理をしていた様子を話した。
相変わらず、幻獣と連れ立っているのだな、やはりあの優しい笑顔で接しているのだろうか、と想像するだけで幸せな気分になれた。
そんなアリゼの様子を、放浪の薬師ロランは微笑まし気に眺めていた。二心ない視線を向けられるのは久々で、アリゼは何故かばつの悪い心地になった。
よくよく聞いてみれば、彼は例のアリゼに役立ってくれた異類が出没した村にいたらしい。その時、天から差し込む光を受けたような心地になった。
「貴方、もしかして、薬師として放浪しつつ、あちこちの情報を黒い同志たちに渡しているの?」
衝動的に口にしてしまっていた。
ロランもそれが分かったのだろう。苦笑しながら諫めて来た。
「いけませんよ、そうやって不用意に隠されたものに触れてしまっては」
言われてはたとなる。
確かにそうだ。そんな不注意な人間はまずまっさきに食いつぶされる。使いつぶされて簡単に打ち捨てられるのを今まで何度も見て来たではないか。
表情を取り繕うアリゼに、それでいいのですよ、とばかりにロランが笑顔で頷く。
「とは言っても、私はアリゼさんにはシアンさんの話を聞く楽し気な少女のままでいてほしいのですがね」
表情を維持しつつ、一々核心をついてくる男だと歯がみする。
思えば、この出会った当初から苦手意識を抱いていたのかもしれない。
優しい笑顔と物言いをするのに、物事の本質を指し示す。
そして、それはまさしく聖職者の中の聖職者と言えたのかもしれない。
そうやってアリゼに無邪気な笑顔を向けられるロランを、イシドールが暗い目をして見つめていた。彼女の笑顔は頭の奥が痺れるような心地にさせるのだ。それを他の男たちと共有する気はさらさらなかった。
最近、アリゼはイシドールに中央との繋がりを得ようとせがんでいた。薬師長はアリゼが他者に笑顔を振りまくのを止めたい嫉妬の一心で協力していた。
そんな二人をジェフは胡散臭く思いながらも、静観していた。
アリゼの貪欲さは薬草や他者の知識だけに留まらなかった。その中には魔族の魔力の高さにも及んだ。
貴光教の者たちは敵を知るために、魔族を捕らえて情報を得ることもした。
黒の同志の場合、多くが拷問からだ。
それを実施する場所に貴光教の聖教司が同席することもある。どうかとすると、黒の同志よりも嬉々として魔族を痛めつけた。
これらの出来事はアリゼの精神を苛んだ。
自分から望んで近づいて行ったことではあるが、予想を遥かに超えて精神に負荷をかけた。
アリゼはふとハーブ類を手に入れようと森へ足を運んだ。
そこは青々と生命力に溢れた懐かしい場所だった。
祖母と暮らした頃を思い出す。
蜂がその匂いを嗅ぎつけると真っすぐに飛んでいくと言われる良い香りのするハーブを見つける。防腐効果の他、咳やのどの痛みに効果を発揮するので、寒冷なゼナイドで重宝する。
強い香りを持つハーブもある。こちらは神経痛や下痢に効く。
上品な香りが鼻腔をくすぐる。美しく葉を広げるハーブには解熱作用がある。
殺菌作用や利尿作用のあるハーブもある。
それらは全て料理にもよく用いられる。
そこからアリゼは翼の冒険者のことを考える。
元々、寒冷地にもかかわらず恵まれた土地ではあったが、これほどまでに多様なハーブを手に入れることはできなかった。それこそ、祖母のような腕の良い魔女でなければ見つけることが出来ないハーブが森に入ればあちこちで簡単に手に入る。
アリゼは翼の冒険者がエディスに姿を現したからこそ、もたらされたのではないかと夢想した。あまりに荒唐無稽なことで我ながら何でも翼の冒険者に結び付けているなと内心自嘲する。
根拠のない良いことを全てシアンに結び付けてしまったことからの発想ではあったが、実は的を射ていたのだが、アリゼには知る由もない。




