17.黒衣の少女の変遷/とある黒の同志
大地を濃緑の葉が埋め尽くす中、すっくと細長い茎が伸び、その上に丸まるとした果実が実る。鶏の卵から拳ほどまでも大きくなるものもある。
アリゼは果実の一つに手を伸ばし、爪を立てて傷をつける。
作業を行うために短くした爪では表面に筋を入れるばかりだ。
風が吹く度、茎が揺れて薄い花びらが舞う。
幻想的な景色だった。
「ここにいたのか」
薬草園で働く者の頂点に立つイシドールがやって来る。
応えを返すどころか、振り返りもせず、ただ薬草園を眺めているアリゼにイシドールも並んだ。
「作業は他の者に任せておけば良い」
言いつつ、腰に手を添えてくる。
完全に熟すと植物は枯れ、果実の頂から種子が飛び出てくる。
熟す前の果実からは白や薄いピンク色の乳液が採れる。これを乾燥させて用いる。そのころにはすっかり黒ずんでいる。
次代の種を生み出すころには枯れているのだ。有用な液も、それを用いる際には黒い粘液に変化している。人の勝手で用いる際には本来の姿を変えている。
「君が調合したレフ村の異類を使って薬だがね、大きな効果を発揮したそうだよ」
「そう」
答えるアリゼの声には熱がなかった。
「気にならないか? 試行錯誤を繰り返してようやっと完成した毒が敵の足止めを立派に果たしたのだよ」
敵ではない。翼の冒険者を支援する結社であれば、アリゼの敵ではありえない。
アリゼは黒いローブを脱ぎ、薬草園で働くのは水が合ったらしく、細かった体に肉が付き、身長も伸びた。同じ年代で結婚する者もいる中、まだほっそりした体つきではあったが、女性らしく開花し始めていた。
「同志たちからの報告を私も聞きたいわ」
「では、私の執務室へ」
腰を抱かれたまま、建物内へ促される。
イシドールが言うように、アリゼは気の遠くなる手作業を免除されていた。
まず、さく果に浅く傷をつけて、そこから出てくる液を集める作業が大変だ。
それを乾燥させ、湯を注ぎ、上澄みをとる。
煮詰めた後、目の細かい布で漉す。漉された汁と粕を別にする。
汁を灰に入れ、再び煮詰める。
数時間煮詰めると、飴状になる。
これを魔道具の香炉で焚きしめる。その煙が、信者たちに得も言われぬ体験をもたらすのだ。
アリゼはこれまでに新しい薬草を持ち込み、その薬効を知らしめた他、持ち込まれる薬草の成分分析を行ってきた。そして、先日、旧家が密やかに捕らえていて非人型異類から抽出に成功した毒と植物の毒を混ぜて、新しい毒を作り上げた。
完成に至るまでに試行錯誤した。夢中で取り組んだ。
そうして出来上がった新薬は、武器に塗布することによって相手を重篤な状態に陥らせ、果ては命を奪い、黒の同志たちに大いに役立った。特筆すべき性質としては、うっかりまちがって皮膚についても害することはなく、体内に入った時のみ、大きな効力を発揮するのだ。扱いやすいと評判だ。
その功績が認められ、研究に没頭することができた。研究内容もある程度アリゼの意見が通る。時折、緑の手の持ち主として、光の属性を持たない新たな貴光教の広告塔として活動することもある。
閉鎖された歪な世界で、実力だけで得られたのではなかった。
レフ村で手に入れたのは非人型異類の死骸だけではなかった。
その村の領主夫人の生家が代々育てていた特別な植物もイシドールの態度を変えるのに大きく役立ってくれた。
上手くいったものの、アリゼが予期した結果とはずれが生じていた。
執務室へ入ると、イシドールがアリゼのこしの強い髪を払い、頬を撫でる。
その腕から逃げ、執務机の前に向かい合うソファに座る。イシドールがすかさず隣に腰掛けた。
「それで? 幻獣のしもべ団だったかしら。彼らにあの毒を使ったのよね。即死しない、じわじわと確実に体を巡って死を進めていく」
執務机の向こうには壁一面のガラス扉があり、薬草園を見下すことができる。先日、その眺めを堪能するアリゼの髪を陽に透けると美しいだのなんだのと褒めながら後ろから覆いかぶさってきた。それで避けたのだが、密着度合は同じようだ。
「そうだ。芸術的ですらある。神託の御方のしもべを僭称する輩どもは今もまだ他国の街に足止めされている。うろちょろされては目障りだからね。これでしばらくは大人しくしているだろう」
アリゼは黒の同志たちの方がよほど後ろ暗いことをしていると思いつつ、おくびにも出さない。
「そう。これで貴方の地位も確固たるものになるわね」
微笑んでやると、イシドールが唾を飲み込む音がする。
「みな、君のお陰だよ」
言って、アリゼの顎を取り、更に顔を近づけてきた。
と、扉が叩かれる。
イシドールは聞こえない振りで続行しようとした。
扉を叩く音は激しくなる。
「出たら? 急ぎみたいよ」
イシドールは舌打ちしながら扉の前に立つ。
これまでならば、自分は一歩も動かず、アリゼが応対するのを当然としただろうに、変われば変わるものだ。更には、アリゼに敬語を使わないどころかぞんざいな物言いをされでも、憤るどころか喜んでさえいた。
そのイシドールは早く済ませたいとばかりに不機嫌を隠そうともせずに誰何する。
「私です。ジェフです」
「何の用だ?」
扉を開けないまま問うと、他聞をはばかると返され、再び舌打ちした。
入ってきた男は金色の髪を後ろでまとめた中々の美男である。
ジェフは入室すると、アリゼを認め、その隣に腰掛けた。同僚が並び、上司と向かい合う形で座るのは普通のことだが、イシドールの眉根に深い溝ができる。
最近、イシドールはジェフがアリゼに近づくことを懸念し、牽制する風さえ見せる。
「レフ村の非人型異類の毒はうまく働いたそうですね」
「アリゼが開発したんだ、当たり前だな」
イシドールは優雅に足を組むが、先ほどからアリゼとジェフの座る位置が近いと不快に感じていることが見て取れる。
「今後も大きく役立つでしょう」
ジェフが頷いた。
「それで? 他聞をはばかる案件とは?」
早く報告を聞いて追い出そうという意思が透けて見える。
ジェフが行った報告は黒の同志たちの活動で、その大半が人の弱みや後暗いことを掴んで脅迫し、協力させることだった。
知れば知るほど偏執な宗教だ。アリゼは表情が変わらないように努力した。
この歪な世界で生き残るために、アリゼはレフ村で手に入れた例の薬草を酒に混ぜて酔わせ、脳を鈍らせ、分別をなくさせた相手から色んなことを聞き出した。
そうして、この部屋にいるイシドールやジェフの協力を取り付けるにまで至ったのだ。二人に関しては、それだけではない。
「ふむ、黒の同志の兄とその娘、つまり姪か。家族が絡むと厄介だな」
「片付けますか?」
「いや、使えるかもしれない。しばらく、様子を見よう」
「かしこまりました。では、監視をつけておきます」
イシドールが頷くのを確認し、ジェフは立ち上がった。
「私も戻ります」
ようやく邪魔者が去るのに、とばかりに引き留めるイシドールに一瞥もくれず、アリゼは素早くジェフより先に部屋を出た。
後方で扉が閉まる音がして、足早に追って来る気配がする。
「お前、薬師長の部屋で何をしていたんだ?」
「報告をしていただけよ」
つんと澄まして言うと、疑わし気に見られる。
「ちょっと女っぽくなってきたからって、師長に媚びを売って良い気になっているんじゃないぞ」
「そうね、貴方はもっと若い子が好みだものね」
見上げて笑ってやると、たじろいで一歩下がる。
手に入れた情報にはジェフの嗜好も含まれているのだ。
しかし、アリゼは知らなかった。
成長中の危うい色気にジェフが惑っていることを。
目立つ黒い布を頭から足首までかぶった格好で路地に入り、素早く布を取って、何食わぬ顔で他の通りに出る。その服装はどこにでもあるシャツにズボンだ。一般的な用心の範疇に見せかけて、腰につけたベルトに短剣を差し込んでいる。
脱いだローブは丁寧に折りたたみ、布袋に押し込んだ。黒いローブの内側には特殊な織で加工され、無数の薄刃のナイフが仕込まれている。取り扱いは慎重を要する。
痩身の男の顔色は悪かった。
安宿に潜り込むと、買い込んだ酒を立て続けに煽る。
魔族と取引をしたことへの見せしめとして、とある親子を片付けるのが今回の任務だった。しかし、実際、その親子を目の前にして驚愕のあまり、あろうことか、逃げ出してきた。
異様な風体の自分が立ちはだかると、親子は驚いて揃って腰を抜かした。
男は三十歳で、少女は十歳だと聞いていた。
お父さん、と呼びながら父親を庇うように少女が動く素振りをしたので、もうだめだった。
男の方に見覚えがある。
兄だった。
「すると、あれは俺の姪か」
自分と兄とが独立して間もなく、両親は他界した。年の差分、兄の方が先に働きに出たが、自分は十代半ばで貴光教の尊い教えに触れ、実力でのし上がることを夢見た。それから、兄とは会っていない。両親の葬儀も遠方での任務のため、出席することができなかった。
思えば、物心ついた後、人生の半分は家族とは縁遠い暮らしを送って来た。
「今更、だな」
会わないのであれば、生きていても死んでいても同じなのではないか、という考えと、それでも、この世界のどこかで懸命に幸せを求めて暮らしているということとは違う、という思いが錯綜する。
分かっていた。
保身を考えるのであれば、迷う間隙はない。
自分がやらなければ、他の者が任務に就き、自分も処断されるだけだ。
それでも、世界に残されたたった二人の肉親を手に掛けることに強い忌避感を感じて、酒に逃げずにはいられなかった。
最近、魔族の行動が活発化しており、エディスの黒の同志たちも任務過多な日々が続いていた。
纏め役の男は案件の母数が増えるにつれ、任務失敗も増え、神経を尖らせている。もともと、感情に支配されがちで、平時ではそれなりの力を発揮しても、有事には向かない人物である。
それと、翼の冒険者が行動範囲を広げ、神託の御方ではないかと目されているグリフォンの姿を拝見することが叶わなくなったことも、苛立ちの原因の一つであろう。
「いや、母数が増えたから失敗が増えたのではないな」
どうも、以前は殆ど無抵抗のまま嬲られるに任せ、抵抗らしい抵抗をしてこなかった魔族どもがここ最近、反抗的だ。
その高い魔力を用い、身を守り、こちらの攻撃に反撃すらしてくるようになった。
大人しくやられるがままだと高を括っていた同志が幾人も怪我を負って帰還し、人手不足が忙しさに拍車をかけている。
しかし、悪いことばかりでもない。
この逆行が神への愛を貫く試練として、結束が固まったのだ。一度はレフ村の大失態で亀裂が入ったが、再び任務遂行に燃えている。
佞悪どもが反抗するならば手を変えるまで。
搦手として、外堀から埋めて行こうとばかりに、魔族と関わるとろくな目に合わないと知らしめる方法を取りようになっていた。
秀でた武力を駆使しての粛清ではないことが残念である。
「それでも、やらねばなるまい」
それが光の神の御為になるのであれば、自分の手をどれほどであろうとも汚す覚悟はできていた。
兄が務める工房では異様な風体の者と出会い、一日二日は警戒していた様子だが、人間、働かなければ食べられない。
三日目からは普通に店を開けていた。
兄はこぢんまりした細工士の工房の職人をしており、姪はその工房で雑用をしている。その工房では兄の提案から魔族との取引を行うようになったのだ。
少女が使いに出たのを機に、見張っていた路地からするりと抜け出る。
これから殺害しようとする姪が、忌々しい佞悪の店で愛想よく話し込んで駄賃に菓子を貰っていたことが、せめてもの慰めだった。
これで多少の罪悪感から解放される。
「幼くとも女か。佞悪の皮一枚の見目の良さに釣られおって。奴らと積極的に関わり、菓子など貰って手懐けられたのがいけないのだ。心配するな。父親もすぐに一緒の場所へ送ってやろう」
男は先回りし、黒いローブを頭からすっぽりかぶると、少女を待ち構えた。
細い路地で目の前を少女が通りかかろうとした時、素早く腕を引き、反対の手で彼女の口を塞ぐ。
そのまま、後退して驚き暴れてもがく少女を路地へと引きずり込む。
得意の得物を取り出すまでもない。
そのままタイミングを見計らい、勢いをつけて捻ってやるだけで、首をへし折ることに成功した。
「あんた、何をやっているんだ?」
後ろから声が掛かる。
自分は運が良い。標的自ら飛び込んできてくれたのだから。
男はおもむろに立ち上がった。
姪の死体が路地に転がる。
通りから薄暗い路地を覗き込んだ兄が、ようやく自分の娘が物言わぬ躯となり果てたことに気づき、悲鳴を上げて突進してきた。
男は数歩歩くことでそれを避ける。
「お、おい、目を開けろ。どうして、どうして!」
娘の名前を懸命に呼びながら、体を揺する。
それをぼんやり見つめる男を、しゃがみこんだ体勢で兄が見上げる。
「お、お前ら、何でこんなことをするんだ!」
あり得ない方向に首を曲げた姪を抱きしめながら、涙と鼻水とでぐちゃぐちゃになった顔で喚く。
「こ、この子が何をしたって言うんだ! 俺のたった一人の家族なんだぞ! お前には家族がいないのか⁈」
自分も標的として会うまでは兄のことを思い出したりしなかった。にもかかわらず、弟の存在を忘れていることにかすかな胸の痛みを感じる。
「お前たちは薄汚い魔族と取引したからだ」
「何を言っている? この子と魔族に何の関わりがあるっていうんだ?「
冥途の土産に魔族の悪辣さを語ってやった。
「我々は悪と戦っているのだ。魔族に利する者もまた悪。よって、お前たちは粛清されなければならない」
言葉を尽くしても兄には届かなかった。娘を殺されて常軌を逸しているのかもしれない。
「この子が魔族に有利に働くようにしたとでも言うのか? 第一、魔族にも家族がいる! 誰にだって大切な者がいるんだ。お前たちがそうやって魔族だからって傷つけて来た者の中にも家族がいた! お前たちが一人を殺めたら、苦しむのはその一人だけじゃない。もっと沢山の人間だ。そうやって、お前らは一人を殺めることによってより多くの人間を苦しめて来たんだ!」
そう、そうやって自分たちは知らしめているのだ。魔族の罪をより多くの者に。
「そうだ。そうして、佞悪どもに知らしめるのだ。あやつらの罪をな!」
「何を言っているんだ! 魔族が何をしたって言うんだ! お前らの家族を殺したのか? 違うだろう? そうしているのはお前らだ!」
「魔族は存在自体が罪だ。我らはそれを粛清しているだけ。美しく清らかな世界にしようと尽力しているだけだ」
兄はやはり何もわかっていない。そう実感すると自然と声に憐れむ色合いが混じる。
「しかし、この子は何の罪も犯していない!」
「お前たちは薄汚い魔族と取引したからだ」
「え……、お前たちって」
再び告げると、ようやく言葉の内容が脳に浸透した様子で唖然となる。
「そうだ。お前も、だ」
腰のベルトからナイフを抜き取ると、兄の方へと一歩足を踏み出した。




