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天地無窮を、君たちと  作者: 天城幸
第四章
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46.自分の精いっぱいで ~存分にたらしまくっているのです!~

 

 暗くて遠い闇に沈む冥漠ゆうばくの中をずっと彷徨っていた

幽冥にも行けず、ただただ漂っていた。

 永きに渡り、粘着性の強い黒い泥に全身まみれていた。腕を動かしても泥の海から持ち上がらない。鼻が曲がるような臭いがする。

ふと世界は幽暗に変化した。

徐々にうすぼんやりと明るくなっていく。感覚がなかったのがじわじわと冷たさを感じる。冷涼は寒さへと変わり、明るさとともにゆるりと温まっていく。感覚が戻ってくる。

 おかしい。

 もはや嗅覚はおろか、五感は全く利かないのに。そんな気がするというだけか。記憶が臭気を呼び覚ましたのか。

 飴のように纏わりついて離れない泥にずぶずぶと呑まれる。思考も奪われる。


 ――――――そうだ、考えるな。


 ――――――考えてはいけない。

 ――――――思い出すな。


 闇の中に輝きが見えた。

 こいねがうあの方の美しい闇の中の輝きとは異なる、優しく端正に整った慎ましやかな輝きだ。

 それに触れると焦げて焼き付いてしまった感情がするするとほぐれて柔らかく溶けていく。

 時折、じりじりと痛みを伴ったが、そんなことより、もっと触れていたい。整ってささやかに輝く、胸をじらすような、そう、音だ。優しく差し伸びてくる音が附着して離れない泥に構わず、ふわりと胸をくすぐる。


 涙が、流れた。

 もはや以前の形が崩れて原型を留めていなかった指が、手が、見える。

 聴覚が戻ってきて、視覚も取り戻した。徐々に感覚が戻ってくる。

 蘇った触覚が、直に触れる手のあえやかさを伝えてくる。

 触れたものが何か言葉を発した。理解することはできなかったが、懸命に自分を思ってくれていることが伝わった。

 柔らかく優しく温かいものに満ちた。


 あの方そのものの、闇の中の輝きが、そこにあった。


 ――――――。



 闇の精霊と光の精霊の力の影響によって、黒い塊はもはや死霊はもちろん、魔神とも魔族とも全く別の存在になった。

 冷徹な執行者を、忘我に堕ちた魔神を、狂気にまみれた存在を、穏やかで優しく癒し、温和で静穏な心持に引き上げる音。

 シアンの神髄はそこにある。

 自分には力はないと思っているが、シアンの奏でる音楽はAIの心を揺らした。

 一角獣しかり、ドラゴンの屍しかり、黒く凝った元魔神しかり。

 高位幻獣であるグリフォンやドラゴンの心を揺らし、精霊の心を揺らした。AIに訴える音色、旋律、リズム。

 この世界の管理者がシアンの脳の働きを読み取り、影響されたことも挙げられる。高位であればあるだけ影響されたのかもしれない。



 シアンはゼナイドで見た緑色になったジャガイモを食べソラニン中毒で死んだ子供やドラゴンの屍に葬送の曲を奏でた。子供は見つけた時にはすでにこと切れており、ドラゴンも一度死んで蘇らせられた存在だった。

 どちらにせよ間に合わなかった。

 音楽を奏でるしかできない自分が歯がゆかった。

 そして、レフ村の領主の娘の涙ながらの要請を退けたことによって、惨劇に巻き込まれるのは回避できたものの、後味の悪さを感じた。

 けれど、今度こそ、シアンは間に合ったのだ。

 色んな者たちの力を借りて、それでも、間に合ったのだ。


 彼の上に柔らかな一筋の光が差し伸べられた。岩盤の天井から、一筋、二筋と続き、太い光の柱となる。

 纏わりつく粘性のものが光の粒子によって溶けていく。

 黒い塊の中から、人の骨が現れる。いや、白い肌に骨が浮き出ていてそう見えただけだった。肉づきの薄い顔は骸骨のようだ。

 呆然とする彼は自分の手足を見下し、骨と皮の姿にそれを見られることに怯えた風に、じりじりと後退る。

 シアンは思わず彼の手を両手で握った。掌の中の骨がひくりと動いたが、引き抜かれることはなかったので、そっと握りしめる。

 涙がこぼれ落ち、握った彼の手に雫が弾ける。不思議そうにその液体を眺める様子に、ため息交じりに笑った。シアンが笑うと驚いたようにまじまじと見つめられた。

 ふう、と何かが吸収されるように感じ、次の瞬間、彼の瞳に知性が宿るのを見る。

 音楽が届いて、自我を取り戻させることができたのだ。

 自分が自分でないほどの強い感情に支配されるのはどんな気持ちだろう。

 灼熱に焼かれ続けながら存在し続けるのはどれほどの苦痛だっただろう。

 シアンは骨ばった手を握った自分の両手に、額を当ててきつく目を瞑った。途端に、大粒の涙が粒を散らす。

「良かった。君が君でなくなってしまう前に間に合って、良かった」

 涙まじりに言うシアンに、彼は深々と頭を下げた。



「これはね、永遠の別れに悲しむその時は来る。だから、愛しうる限り愛しなさい。そういう曲なんだよ」

 穏やかな表情で言うシアンを、ティオとリムは真剣な眼差しで見つめる。

 彼らにとっても、他人事ではない。シアンは異世界へ頻繁に戻る必要があり、なおかつ、長寿な者が多い幻獣たちに比すれば、人は囁きのように短命だ。

「何にでもいつか必ず、別れが来る。だから、今この時、精いっぱい愛するんだ。次の瞬間、突然断ち切られて別れが訪れたとしても」

 それは、思いもかけぬ仕儀で生が断ち切られ、それが理解できずにアンデッドになってしまった者にも言えるだろう。

「僕もね、こことは違う世界で、精いっぱい愛することはできなかった。でも、今は自分なりに音楽を愛しているよ。そして、こちらの世界でも」

 そして、ふふ、とため息交じりに笑った。幸せそうな笑顔だった。

「ううん、こちらの世界では、もっと愛するものができたかな。この曲はね、自分に心を開く者がいてくれたら、その者のために尽くしなさい、ということも含有しているんだけれど、本当にそんなことができるなんて考えてもいなかった。僕はね、役に立ちたいと思える沢山の出会いを得ることができたよ」


『愛せるだけ愛せ、ですか。異世界でのシアンちゃんには難しいことなのかもしれませんね』

『どうして?』

 二度三度頷く九尾に、リムが小首を傾げる。

『シアンちゃんはあちらの世界では見目が良いからですよ』

『どういうこと?』

 ティオがいぶかしむ。

 幻獣たちはシアンが異世界からやって来ており、向こうで生理現象を処理しなければならないということを、エディスで毒を飲まされそうになった一件で知っていた。考えたくもないことだが、こちらの世界で大きな怪我を負ったり、死んでしまったりしても、しばらく経ったらまた戻ってくることができると聞いている。

 だとしても、シアンが痛い思いをするのは許容できることではないので、彼を守ることは最優先事項である。


『考えても見てください。美しい人間に優しくされたら、好意を寄せられやすいでしょう。ともすれば、気の多い人間だと言われてしまう』

 理不尽だが、事実である。

 そして、シアンがあまり人の事情に容喙することを良しとしない原因の一部でもある。

『ひるがえって、こちらの世界では地味な見た目です』

『シアンは可愛いよ!』

『笑顔が優しい』

 九尾の言葉にすかさずリムがへの字口を急角度にして反論し、ティオが重々しく頷きながら追随する。


 鳥の中には紫外線を加味した四色型色覚を持つ者がいる。猛禽の一部は人の数倍もの視細胞を持ち、鮮明な解像度を誇る。

 幻獣はそれ以上の身体能力を持つ。

 人とは物の見え方が違うのだ。そして、物事のとらえ方もまた、異なる。

 その彼らに、見え方は違っても、それぞれがそれぞれなりに、同じ世界を、同じ景色を見て、楽しみ分かち合うこと、それをシアンは教えてくれるのだ。

 ただそこにあっただけのものが、脆く儚くそれだけに美しい一期一会で、その瞬間が大切で得難いものなのだと、知ることができた。


『そうです。ですが、それは内面を反映してのこと。知らぬ者からしてみれば、なんてことない周囲に埋没する外見です。だからこそ、シアンちゃんとしてはこの世界は居心地が良いのですよ。だって、人に親切にしても過剰に反応されることはないのですから』

 美人には美人なりの苦労があるということだ。

『そして、シアンちゃんは対人間にはまだ遠慮が勝つのでしょう。だから、自分と恋愛感情のもつれが起こりえない幻獣や精霊は安心できる存在なのです。心を開いて、存分にたらしまくっているのです!』

 酷い言い様である。

 しかし、シアンは真実、この世界で外見に惑わされることなく、シンプルに思い思われ、存分に幻獣や精霊たちに尽くすことができる喜びを知った。

『シアンは仲良くしようとしているだけだもの!』

 リムがどんぐり眼を怒らせる。

『そう、その威力たるや! 優しく、それでいて芯の通った心根と美しくも楽しい音楽、美味しい料理! 持てるもの全てで攻略しにかかっています! 癖のある精霊王たちも何のその!』

『癖がある最たる者が狐だけれどね』

 ティオに鋭い視線を向けられ、ようやく口を噤んだ。

 シアンは幻獣たちが好き勝手さえずるのに、首を竦めていた。

 ふと視線を感じ、黒い粘液から抜け出した彼を見やる。

 彼が興味深そうに眺めている。そんな気がして、思わず、顔を見合わせ、ふふ、と照れ笑いする。


 くだらない、何てことのない会話だった。

 けれど、それが心地よかった。

 思い思われていることが良く分かる。

 もう少し、その気持ち良さを味わっていたかった。

 そして、ふと思う。自分は自分の指を握って涙をこぼした彼が言っていた通り、愛しうるだけ愛しただろうか。

 もっと、他の観点をもって、違うやり様ができたのではないか。

 その考えはこの世の楔となった。

 彼は、この世に留まることを選択した。



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