45.音に解けゆき
鮮やかな水面を投影する、人の手では成し得ない美しいブルーの襞が曲線を描く。アーチ状に続く先に光を先行させると、奥に行くにつれ、色濃く見える。眩い明かりよりも控えめな光源の方がより幻想的に見える。
鴉の王は闇の精霊だけではなく、光の精霊の加護をも持つシアンならば、この先にいる者、元魔神にも音楽を届けることができるだろう、と結界を通してくれた。
彼もまた闇の神の肉を食べた魔族の初代である。
魔神となってからも、ずっと闇の精霊と闇の神のことを気に病んでいた。それに耐えきれなくなった。
『あれは闇の君のお慈悲ですら、勿体ないと申しておりました』
闇の精霊の力を受けたものの、徐々にその考えが積もって行って、いつしかそれに囚われてしまった。そして、自我を失いかけ、力の暴走が起こったので、自ら願い、他の魔神たちの力でここに封印されたのだと鴉の王は語った。
『この先に何かいる。四つ足で首が三つある』
広大な洞窟の中を悠々と飛翔するティオが、離れた場所にいる存在の姿形を感知して声を上げる。
「え、魔獣かな? それとも異類?」
教示された奇妙な姿にシアンは戸惑う。
『ヒュドラにしては首が少ないですね』
『あれよりも小さいよ。ぼくより少し小さいくらい』
それは美しいアーチを幾つも抜けた先にある岸にてシアンたちを待ち構えていた。
ティオの言う通り、四肢で地を踏ん張り、三つある首でそれぞれ濁った眼を向けてきた。
てらてらと濡れた黒い体毛を身体にべったりと貼りつかせ、馬よりも大きな体は痩せて骨が浮いている。身体から饐えた臭いを発する。口を開けば腐った肉の臭いがする。
『犬の頭が三つ。あれはケルベロスですね。地獄の番犬とも称されます』
「それは凄そうだね」
こちらを見上げてくる眼光は鋭く、牙をむき出しにして唸っている。黄色く汚れた牙は唾液の糸を引いている。四肢を踏ん張り、決してこの先には通さない、という意思が見て取れる。
『いいえ、シアンちゃんとは相性が良いですよ』
「僕と?」
聞き返しながら、九尾は実に様々なことに詳しいのだな、と内心感心する。
『はい。パンを与えて手懐けたり、琴の音で眠らせたりした伝説があります』
「なるほど。料理と音楽だね」
シアンは中空に浮かんだままマジックバックからバーベキューコンロを取り出す。足の裏に見えない地面を感じる。中空にあっても、風の精霊への全幅の信頼によって、普段通り調理をする。人目がないことを良いことに好き放題した。
『何を作るの?』
『ハンバーグが良い』
リムが早速、宙に浮かぶバーベキューコンロで火を熾すのを手伝いながら尋ねると、ティオがミンサーを嘴で引っ張り出す。
「じゃあ、ハンバーグを作ろうか。折角だから、普通に焼いたのと、トマト煮込みと、それにチーズとカボチャの薄切りを乗せたのを作ろう。肉にトマトにカボチャ、君たちが好きなものを味わってもらおうね」
「キュア!」
「ピィ!」
「きゅ!」
幻獣たちが嬉し気に賛成の声を上げる。
力では幻獣たちが勝っている。しかし、対象の特性を掴んで、自分たちの好きなものを分かち合うことをシアンは提案する。
そういったことに常日頃から馴染んでいるからこそ、安易に反目したり力に訴えるのではなく、寄り添った共存の解決点を見出す素地を作られていた。
例えるなら、虫けらの行動を気にしてその個性を尊重するだろうか。ティオやリムにとっては彼我の力量の差はそれほどのものがある。
九尾のごとく人の王を裁くべく、人の世の詳細を知ることはないのだ。
そして、その九尾をしても、大地に根ざす人間との触れ合いは良い経験となった。複雑なものが絡み合うのに、単一なものが突出したり、いくつかの事情に押し上げられるようにして、遠因だけが前面に出される。その裏側を知る必要性を感じさせられる。
多数の者の事情を汲み上げて複雑な織目を解いていく。それはとんでもない回り道にも見える。
力を誇示して我を通すことができれば簡単である。
けれど、九尾にはシアンならば幻獣や精霊たちの力を借りて、軽々と超えて行けるのではないのかと思えるのだ。他の者にとっては無窮である場所へも、軽やかに超えて行けるのではないかと。
そして、初めての視点を教えられる。
先ほどの鴉の王のように。
そうやって力づくではなく、心躍らせて行こう、と眩しい途を示されるのだ。
シアンは玉ねぎをみじん切りして炒め、九尾はミンサーに肉をセットし、ティオがそれを挽いていく。リムはバーベキューコンロで鉄板を温める。
肉の焼ける匂いというのは吸引力がある。
闖入者たちが何を始めたのやら、と岸辺を行ったり来たりしながら警戒していたケルベロスは、美味そうな匂いに抗えず、差し出された料理に食らいつく。
手を加えた肉料理は果たして、ケルベロスの口に合った様子で、供したものは綺麗に完食された。
共に食事した幻獣たちも食後の演奏にうっとりと聞き入った。穏やかな旋律を奏でていると、ケルベロスがその場で蹲って眠り始める。
『寝ちゃったね』
そういうリムも心なしか目が蕩けて一緒に眠ってしまいそうだ。
『腹がくちくなった上に、優しい音楽を聴いていたからだね』
「効果覿面だね」
ティオと顔を見合わせて笑い合う。
『さあ、この隙に先へ進みましょう』
九尾の言葉に従って、音を立てないようにそそくさとその場を後にした。
その姿を見て恐慌に陥らなかったのは、闇の精霊の加護と幻獣たちのおかげだった。
灰色の洞窟の中は黒い岩や石が敷き詰められていた。
そこに、黒々としたものが浮いている。
黒い粘液を全体に纏わりつかせたものが浮いている。
シアンが周囲に放った明かりに透かされ、本体から尾を引く粘性の筋が黒茶けて見える。灰色の岩壁に当たると、しゅう、と音を立てて僅かな煙を上げ、凍り付かせる。洞窟の底には黒い岩が堆積している。
黒く凝った塊はティオの数倍もの大きさがあった。
シアンの緊張を察したティオが速度を落としてゆるゆると近づく。ふと、眼前に何かあると思った。
視界には洞窟内の岩が作る滑らかな大小のカーブが続く。が、シアンが先行させる光球が僅かに揺らいだのだ。
一度強く目を瞑り、再び開くと、うっすらと白い靄のようなものが洞窟を塞ぐようにしている。セーフティエリアにある紋章に似ている。
『結界だ。通っても大丈夫そうだよ』
「うん。そのまま進んでくれる?」
首を捻ってシアンの方を向くティオの背を撫でる。
ふわりと顔や首に何かが触れた。
「本当だ。蜘蛛の巣みたいだね」
蜘蛛の糸が作る柔い壁に突っ込んだような心地になる。
『ふわふわ、ほよほよだったね!』
『リム、ふわふわは分かるけれど、ほよほよって何?』
『ふゆふゆ、って感じなの!』
更に遠ざかった気がする。
『変な擬音!』
『変じゃないもの!』
シアンの前に鎮座した九尾に、ティオと並走するリムがへの字口を急角度にさせる。
「うーん、柔らかい中にほんの僅かに弾力があるという感じかな?」
『そんな感じ! なの!』
リムが嬉し気にシアンの肩に飛びついてくる。
ティオが完全に中空に停止する。
シアンは首筋に頬をこすり付けるリムを片手で支えながら、眼前の黒い塊を見つめる。
骸骨に乞われた対象は、岩と同化した黒い何かと同じように見え、かつ、全く違うものに感じた。
「じゃあ、演奏しようか。きゅうちゃんは彼の様子を見ていてくれる? もし、苦しみ出したりしたら教えてね」
『手拍子もお任せあれ!』
リムがいそいそとマジックバックからタンバリンを取り出す。ティオの足元には既に大地の太鼓が出現している。
シアンは風の精霊から譲り受けたピアノの前に向かった。
ティオと出会った時に弾いた牧歌的な曲、リムが好きな海底のテンポの弾む曲、蜂が飛び交う超高速の曲、子犬がくるくると回る曲、様々に弾いた。一角獣と王女を思って水の精霊に演奏した曲も弾いた。ティオとリム、そして九尾はうっとりと聞き入った。
幻獣たちはシアンの奏でる音が好きだった。
上滑りした薄い音は特に高音で顕著となり、耳に引っかかる。
シアンの音は粒がまろやかに揃っていて、その粒一つ一つがきらきら輝いている。水晶の階段を転げ落ちるように澄んだ音。速さが違う。どれほど早くとも、もたつくことも、もつれることもなかった。支える低音の深みが違う。音の揺らぎが豊かで、強弱のつけ方が優しい。半瞬の半分のもう半分くらいの僅かな間の取り方で全く違った印象に聞こえる。
何より、体の底から楽しい!や哀しい、切ない、寂しい、嬉しい、といった色んな気持ちが沸き起こって来る。多彩な色や光景を見せてくれる。
シアンはリムが大きくなった時の曲も弾いた。
『深遠と稀輝の音楽!』
リムが闇に弾ける光の粒がさんざめく音に合わせてはしゃぐ。タンバリンを振りながら歌を歌う。大きくなった時の声とは違う高く弾む声に、自然と唇が綻ぶ。見れば、ティオも笑っている。
頭上を広がる闇に、ちりちりと瞬く光、その中をリムが軽やかに飛び回りながら歌っている。そんな光景を夢想する。
と、あてどなく彷徨っていた黒い塊が近寄って来て停止していた。
黒いざわざわとしたうねりの隙間に目が垣間見える。
黒い何かは本体から粘性をもって、つう、と滴り落ちる。
洞窟の床は、それからこぼれ落ちるもので真っ黒に染まっている。
黒い塊は生物が発しえない冷気を漂わせている。
エディスを襲ったドラゴンの屍もまた微凍結していた。
変温動物は外気によって体温が変化する。
そんな生物としての特徴ではなく、その体から冷気が発せられていた。
ドラゴンの屍は肉の鮮度を保つ故の冷気を放っていた。では、目の前の存在はなぜ発しているのだろうか。
この黒い塊となった彼もまた魔神であったのだ。そして、魔神となってからも、ずっと闇の精霊と闇の神のことを悔い、それに耐えきれなくなったと鴉の王は語った。
自我を失いかけ、力の暴走を起こし、封印されたのだとも言っていた。
シアンもまた、色んなものに雁字搦めにされていた時、ティオやリムたちと演奏をすることで、楽しい気持ちと優しい気持ちを想起し、分かち合うことを教わった。音楽が心の底から楽しいものなのだと、リムに教わった。心ゆくまで音を旋律をリズムを楽しみ、心から愛することを教わった。
その気持ちを乗せて、彼に届けばいいと願って鍵盤に指を置く。
シアンの気持ちを察して、ティオとリム、そして九尾が静かに見守る。
静かに端正な旋律が流れていく。
落ち着いた思慮深い音の流れがゆったりと返す波に似て繰り返される。何かを優しく慰撫するかのように。
徐々に緩やかに感情が募っていき、感極まって、眩い光が舞い降りてくる。
高音でひたむきに先の調べを繰り返す。繰り返される伴奏を伴って一途に高みを目指して一つ一つ登っていく。思いの丈をぶつける風に、一つ一つ。
登り詰めた頂上からきらきらした透明感のある音の粒がぶつかりあって虹色の光をまき散らす。
光が収まった後、美しい調べが優しく訴えかけてくる。
そして、まるで真摯に問いかけるように、密やかに旋律が流れ、残響を落とす。
余韻が収まっても、幻獣たちは身じろぎしなかった。
シアンはその幻獣たちと黒い塊を暫く眺めていた。
「深遠、稀輝、僕に力を貸してくれる? 彼を元の姿に戻したいんだ。ううん、元の姿に戻らなくてもいい。せめて自分の感情や思考、記憶を取り戻してほしいんだよ」




