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天地無窮を、君たちと  作者: 天城幸
第一章
19/630

19.心躍らせて

 

 シアンの母はバイオリニストだ。

 シアンも幼少期からバイオリンとピアノを習った。

 幸い、二つの楽器を練習するのは苦にならず、逆に気分転換になったし、同じ姿勢で同じ動きを長時間何度も練習することによって引きおこる腱鞘炎などの故障にも無縁でいられた。

 それでいて異なる音色の二つの楽器に夢中になった。

 そして、どちらの楽器でも才能を開花させた。

 音大に入学する際、迷った挙句、バイオリンを専攻した。ピアノはそのまま恩師に師事し続けた。


 時を同じくして、シアンの父と死別した母が再婚した。新しい父には中学生の娘がいて、ピアノを習っていた。シアンの家に同居するようになり、防音室の中のピアノに夢中になった。

 連弾したこともあれば、母と三人でバイオリン二挺、ピアノ一台で演奏したこともあった。

 けれど、妹が病気に罹病してから変わってしまった。

 バイオリンのコンクールに出てピアノのコンクールに出ないのはおかしい、そんなにピアノを弾けるのに、弾かないなんておかしいと主張しだした。

 その頃、シアンは大学を卒業し、在学中や卒業後にいくつかのコンクールで上位入賞を果たし、音楽活動を行っていた。

 そんなことは関係ない、自分はもうピアノが弾けないのに、弾きたくても弾けないのに、シアンはなぜ弾かないのだと訴えた。喚き、泣き、時に物を投げつけ暴れ、病院でもほとほと手を焼いた。

 弾けるのに、ピアノのプロフェッショナルを目指さないなんて、とシアンを執拗になじった。

 彼女はピアノを奪われた可哀想な被害者で、健康で才能あるシアンは加害者だった。だから、何をしても良いという考えだった。いや、そんな発想すらなく、当たり前にシアンを批難した。


 新しい父は若くして先のない彼女の気持ちも考えてやってくれと頭を下げた。

 母は何も言わなかった。悲しそうな顔するだけで、どうすればいいかも、どうしてほしいかも言わなかったし、新しい娘を宥めることも、父を諫めることもしなかった。

 シアンは一人悩んだ。

 同じピアノを好きな人間として弾けなくなることはどれだけ辛いか、妹の死への恐怖はどれほどのものであろうか。

 でも、強制された道で成せることがあるのだろうか、それで今まで通りの音を出せるのだろうかというためらい、妹の金切り声、病院スタッフの非難の目、疲弊しきってお前さえ黙って言うことを聞けばすべてが丸く収まるといわんばかりの義父、悲しそうな顔をするだけの母、目標を持ってそこを目指す眩しい周囲の音楽を志す者たち、一部事情を知る人間の憐みの目、すべてがぐちゃぐちゃに入り混じってシアンを混乱させ動揺させた。

 そうするうちに、音楽が楽しいものだということを忘れていた。忘れるという意識もないまま、音を奏でることは苦痛を伴った。

 それでも、ピアノを弾いた。妹に言われるままにコンクールに出場し、結果は散々だった。

 ちゃんとしろ、普段通りの演奏をしていれば入賞できるはずだと責められ続けた。


 いつしか、指が思い通りにコントロールできなくて、なぜか違う指が動くようになった。

 頭で流れるメロディが表現できない。今までは指を動かそうなんて思わなくても、脳裏に旋律が浮かべば指が勝手に動いた。

 音楽家が罹患しやすい病名がふと頭をよぎった。

 自分の身に起こったことを確かめるのも恐ろしくてただずるずると時折コンクールに参加しては惨憺たる演奏に打ちのめされた。

 技法を変えても収まらなかった。一人でピアノを弾いている時はまだましだった。人前へ出た途端、脳に刻み込まれた旋律と指の動きがかみ合わない。

 意識がそのことばかりに集中して、どんどん全てが嫌になる。

 妹の治療の大変さも闘病の痛みも死への恐れも分かってやることはできなかったが、シアンの恐怖も誰も分かってくれなかった。


 人が怖かった。

 それまで家族だと思っていた人たちが突然、自分を攻撃するだけの存在になった。

 バイオリンを奪われることで同時にピアノも奪われた。自分でピアノを選んだのだが、圧迫された環境で渋々だったことが指を動けなくさせたのだろうか。もっとシアンが抵抗していればそうはならなかったかもしれない。でも、もはや自分が何をしたいのかもわからなくなっていた。


 そうこうするうちに、シアンはすっかり不眠症になり、鈍った思考で、飲酒運転で歩道に突っ込んだ車を避けられずに怪我を負い、入院した。

 退院後、体が自由に動かないことを良いことに、すぐにピアノに向かわず、異世界に逃げた。

 初めは、牧歌的な風景をのんびり楽しめたら、そう、久しぶりに不安のない穏やかな時間を過ごしたいと思ったのだ。

 五感全てに訴えてくる初めてのバーチャルリアリティの世界では、違和感なく反応する四肢は身軽で、気分が高揚した。

 中世後期ヨーロッパを土台にした活気のある街並みは、コンクールで緊張と義務を背負わされた状態で出かけたどの国とも違って見えた。

 街の外でのリアリティ溢れる戦闘を目の当たりにして強制ログアウトになっても、やめられなかった。

 そして、ティオと出会った。


 楽しまなければ人生損をするという九尾の言葉に導かれ、異世界で楽器を手にした。

 リュートという初めて触れる楽器を弾いて、下手だなあと自覚しながら歌を歌ってみた。異世界なのだから、常に前進を心掛けなくても良い。下手でも楽しいのだとその時知った。ただ、音楽を感じれば良い。

 そして、一緒に音楽を楽しむ仲間ができた。シアンは人と親しく接するのは怖かった。信頼した人に掌を返されるのが怖かった。でも、知性がある幻獣には不思議と恐怖を感じなかった。甚大な力を持つが、それゆえに自分の心を偽ることなく、純粋にシアンと音楽や美味しい料理や美しい景色を楽しむ。

 その後、リムと出会って、心の底から、身体全体を使って音楽!楽しい!と感じ表現する彼に、改めて音楽の楽しさを教わった。

 そうだ、本来、音を楽しむものなのだ。


 リズムに関する脳の処理は聴覚野や運動前野、大脳基底核、小脳が関与し、右脳が拍子を、左脳が規則性を処理すると言われている。

 リズムに反応して、運動前野の神経細胞が反応する。運動前野は体を動かすために働く脳部位だ。つまり、プレイヤーがゲームプレイ時に見せる脳の働きを感知する優れたAIが、リズムに乗って体が動き出すシステムを読み取り、人間の脳がリズムを感じる時と同じ反応を学習して再現して見せた。

 シアンは脳の働きのことはよく知らないが、リムが人と同じく音楽を楽しみ心から湧き出るリズムを小さな体全身で表現していることは分かる。

 音楽を彼らに教え、うまく伝えられずに思う通りのリズムにならなかったこともあったが、笑い合いながら過ごした。ミスしても気にしない。全体の音楽が整えば良かった。

 音楽は楽しいのだということを思い出して、ティオやリムが好きそうな弾むテンポの曲を、と現実世界で探した。

 幼少の頃から長時間練習をすることで脳に繰り返し沢山刻み込んできた旋律が戻ってきた。

 目の前の風の精霊が言う通り、どこか回線がうまくつながらなくなり、ちぐはぐな動きをする指は、今なら以前の通りに打鍵することができるのだろうか。



「キュア?」

 黙り込んだシアンを心配して、リムが肩に乗って顔を覗き込んできた。

 夢から覚めたようにシアンは目を瞬く。

目前には黒い光沢を発する楽器がある。苦しみながら演奏した、けれど、どうしても嫌いになれなかった楽器だ。生み出される旋律がどれほど美しいか知っているからだ。

 閉じた蓋にそっと手を触れる。

「これも楽器なんだよ。そうだ、リムが好きそうな曲を弾いてみようか」

 シアンがピアノの前に座ると、演奏が始まると知ったリムが肩から降りた。少し間を取って鍵盤が見える高さに位置取った。

 初めて見る楽器に興味津々の様子のリムとティオを見た後、シアンは鍵盤に指を乗せた。

 鍵盤を叩くのが怖い、指が動かなければどうしようと言う思いも少しはあったが、弾きたい、という欲求が勝った。

 この楽器の音を聴いたら、リムが喜ぶかもしれない、という気持ちが勝った。


 高音のメロディの出だしをゆっくり辿っていく。

 可憐な高音の問いかけに応えるような左手の低音に支えられながら、徐々にスピードが加速する。滑るように高い音へと駆けあがっていく。呼応する高音と低音。時に、間を取りリズムを揺らす。

 何度も低いところから高いところへ転がるように透明な音が跳ねていく。

 その場で硬質な高音が足踏みする。

 低音と高音の美しい和音を紡ぎながら、前を見てひた走る。しっとりとした静かに内に秘めた揺らぎを込めて同じメロディラインを繰り返す。


 記憶したフレーズが、音符の連なりが、旋律が、奔流のように流れていく。

 それがそのまま脳神経の運動野を刺激し、指が動く。


 リムが鍵盤の端から端まで駆け上がる音に合わせて後ろ足を俊敏に動かす。目はしっかりピアノにくぎ付けだ。

 高音の音の反復に合わせてリムが素早く足踏みするのが可愛くてつい笑みを誘う。ティオも笑っている。


 楽しい。

 ピアノの美しい音が、旋律が、律動が、和音が、楽しい。


「キュアキューアー」

 繰り返すメロディラインに合わせて鳴き声を上げる。

 正確に音程を捉えている。複雑な音程に合わせ、抑揚がついている。

 シアンのピアノの音に合わせて、歌っている。


 最後の一音を弾き終えた。残響が尾を引く。

 ミスタッチなく弾き終えた。

 満足のため息が出た。

 弾き終わった後、いたくリムが気に入った様子で、サビの部分を反芻するように歌っている。

 懸命に曲のことを思い起こした。そう、確か古いアニメ映画の主題歌だった。

「この曲はね、今まで見たことのない世界へ、っていう歌なんだよ」

「キュア?」

「何かしろとか駄目だとか夢を見ているだけとか、誰も言わないんだ。誰かが言ったって、そんなの気にしなくていいんだよ」

 一番、シアンが欲しかった言葉だ。

「この世界を君たちと分かち合えたから、心躍らせて探すんだ。眩しい途を、初めての視点を、新しい世界を。そういう意味の歌詞だよ」

 リムもティオも何も言わずにじっとシアンを見つめている。

「ふふ、ティオとリムと一緒にそうできたらいいね」

『きっと一緒に沢山の初めてを見つけられるね』

『綺麗なものも楽しいこともいっぱい!』

 微笑むシアンに、ティオとリムも笑顔を返す。

 唐突に思う。

 ああ、分かり合えるのだなと。

 異世界で、種を異にする存在と理解し合うことができる。シアンはその僥倖を噛みしめた。

 リムが今の曲をもう一度、とせがんだ。

 請われるままに鍵盤を叩く。

 終盤のフレーズを繰り返す部分で歌詞が口をついて出てきた。それにリムが鳴き声で答える。幾度か呼応するようにやり取りし、最後は緩やかに締めくくられた。

 ティオやリムが言う通り、色々探してみようと思う。この異世界で初めての経験を。それはきっと心躍るものだろう。



 シアンのピアノによってリムの鳴き声が歌に変化した。

 明らかに、動物の鳴き声ではなく、複雑な音の高低や長短を持つメロディに合わせて声を出している。

 こんなに複雑な音を表現できるのであれば、もう少しで話せるのではないか。そうシアンは夢想した。


 シアン自身も解き放たれ、無色の光景が端から鮮やかに色づいていくように、世界が姿を変えた実感を得ていた。

 リュート演奏で素地が作られていたシアンの脳はピアノを再び弾くようになって、よりイメージが明確になって、脳神経が激しく反応するようになった。あちこちの脳部位がそれぞれリズム、ピッチ、音色、ハーモニー、メロディの音楽要素の処理に働く。

 打鍵のタッチの違いで音色が異なる。脳の運動野の指令でその微妙な違いを指の動きで表す。複雑な指使いで演奏していても音の表情のほんのわずかな違いを聞き分けることができるからだ。

 音をイメージするだけで手指が動く脳の回路がある。スキルに頼らず楽器の演奏ができる。


 リュートは多少上達した。

 スキルもリュートを弾くために初期に取ったが、スキルによって演奏すると何かの乖離があるような気がしてならなく、イメージとどんどんずれていく。そのため、途中からリュートもスキルを使用せずに弾いていた。

 ピアノもほんのわずかな誤差があっては違和感が生じて気持ち悪い演奏になってしまいそうで、スキルを取らずに弾いた。


 表現の微細な彩りが聞き手に通じるのは人間の脳にだけだろうか。幻獣の脳は違う風に感じるのか。鳥は求愛の歌を歌うが、幻獣は音楽を理解するだろうか。

 音楽の感動は人の脳に快楽をもたらす。音楽を聴いて感動したとき、食事やドラッグの摂取など快楽を感じるときときと同じ脳部位が働く。報酬を与えるときに出す神経伝達物質ドーパミンが出る。


 AIもそれを感じるか。


 音楽を好ましいものとして捉えるのなら、人と同じものを好ましいと取るか。

 この異世界では、奏者の脳の反応を演奏という現象に置き換え、そこから発生した音として、周囲の数多の脳に働きかける指令を、AIが出す。

 このゲームのプレイヤーの脳を統括したAIは、そうやって人が脳のどこで音を感じ好ましく思うのかということを学習していった。



 シアンはバイオリンも弾きたいと思った。

 風の精霊にこの世界にないか聞いてみたところ、闇の精霊が手に入れてくれた。

 早速、隣町アラステアの職人にバイオリンの顎当てをオーダーメイドで作ってもらった。壊れたバーチャイムの修理も同時に依頼した。

 バイオリンの顎当ては顔の輪郭や演奏時の姿勢や癖など、シアンに合った納得いくものとなった。

 現実世界での素材は黒檀、ローズウッド、柘植などだ。風の精霊が細かい指示を出し、大地の精霊が最高の材料を手に入れてくれた。

 弓も現実世界では数百万する。総じて高価なものだ。

 ピアノも高価だ。

「君たちは人の世界のお金はいらないよね。お礼はどうすればいいかな」

『それはもちろん、演奏を』

 バイオリンの起源は十字軍遠征後、リュートのような形のレベックという楽器がヨーロッパに伝えられ、徐々に形状が近づき、作り出された。

 初期に手に入れたリュートは手放さずにいる。


 現実世界でも異世界でも、ピアノもバイオリンも弾いた。

 感覚の違いはそれほどなく、現実世界で肉体を酷使する可能性が減ったくらいだ。暗譜が得意で良かった。

 現実世界でこれをティオに聞かせたい、あれをリムに、それを精霊に、と次から次へとどん欲に脳に記憶させるために弾いた。ピアノだけでなくバイオリンをも弾き始めたシアンに周囲は色々言ったが、とにかく弾きまくった。

 ジャンルもクラシックだけでなく、映画やアニメの挿入歌やジャズ、古い海外の歌謡曲など多様に広げた。蓄音機になった気分だ。


 そして、音楽だけではなく、狩りについていき、綺麗な景色や料理を楽しんだ。世界には音楽が単独で成り立っているのではなく、沢山のものが複雑に交じり合う中に音楽も調和しているのだと、この異世界で知った。色んなものが構築されて、音楽はそれらの一部であり、またそれらの土台によって支えられてもいるのだと、この世界で出会った者たちに教わった。



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