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天地無窮を、君たちと  作者: 天城幸
第四章
183/630

38.美しい丘の奥深く5

※陰惨な表現がありますので、ご注意下さい。



 


 祭りを前日に控え、いよいよ、下の村は忙しくなり、その喧騒が丘の頂上にまで届いて来た。

 屋敷を抜け出したかと思えば、すぐに戻ってきた義妹タマラは、それから部屋に閉じ籠っている。

 新しい侍女インナは女の勘でか、夫マクシムが妹に手を出したことを察知し、事あるごとにジャンナに絡んだ。

 妹だけに粗相をするのだ。

 茶をこぼしたり、足を踏みつけたり、一度は給仕する皿の中に虫が混入していたこともある。

 軽く受け流せばよいものを、ジャンナはその都度悲鳴を上げ、周りも気づき始めている。

 姑ダリアは眉を顰め、義弟アルセンは面白がってにやついている。

 とはいえ、アビトワ家の使用人のしでかすことだ。執事のコスタヤはきりきりと侍女を締めあげた。教育係のメーリにまで類が及び、彼女からもお小言をくらっている。

 インナはそれに不貞腐れてマクシムに言いつける。マクシムは辟易していた。自業自得というものである。


「恋の鞘当ての男女逆転、というところかしら」

 他人事のようにユリアナは呟いた。

 どこかぼんやりした気分のまま当てもなく歩いていると、玄関ホールで来客対応をするパーシャを見つけた。

 侍女のしでかす騒動にきりきり舞いする執事は殊更忙しく、高齢を盾にあまり動こうとしない家政婦長も駆り出されているのだろう。

 パーシャは流石に年の功でインナと違って気味悪がる節を見せずに、陰鬱な上の村の村長をマクシムの執務室へと案内した。

 彼女のうっかりが発動し、扉を完全に閉めずに行ってしまった。うっすら開く扉の向こうから声が漏れ聞こえる。


「先月もあったというのにまたなのか? 明日は夏至祭りだぞ?」

「さよう。どの村でも大体行われる祭りですな」

 不機嫌な夫の声は淡々とした上の村の村長に、押し黙る。

「浮ついた祭りの前日であればこそ、簡単に事は運びましょう」

「だがしかし……」

 マクシムは意味のない言葉を口ごもる。

「それとも、貴方が襲撃に行かれますかな?」

「そ、それは……」

「素晴らしい。我らに敵を排除させることで領地を守ってきた代々の領主の中で、飛びぬけて勇敢だ」

 賛辞は棒読みで、全くそんな風には思っていないことが漏れ聞こえる声音からも分かった。

 上の村の村長はそんなことはできまいと高を括っており、事実、マクシムは黙り込んだ。

「そうすれば、貴方が忌み嫌っている我らの儀式も不要となりましょうな。良いことではありませんか、さあ、貴方が行って敵を排除してきてください。そうすれば、赤ん坊を手に入れて来る必要もなくなる」

「ならば、私もアビトワ家の方の儀式を行うだけだ」

 突きつけられる指を払いのけて、反射的にマクシムが返す。驚いたことに、それで上の村の村長は黙った。

 アビトワ家の儀式とは彼を黙らせるほどのものなのか。

「ともかく、領地の守りは任せている。今回も良いように取り計らってくれ」

「……分かりました」


 マクシムが話を強引に打ち切ったのに、ユリアナは慌てて隣の部屋に入ろうとした。鍵がかかっており、跳ねる鼓動を宥めてその更に隣の扉を開けて素早く滑り込み、閉じた。

 耳を澄ますと、去って行く足音が聞こえる。

 深呼吸を繰り返し、ユリアナはその部屋を出た。

 そういえば、咄嗟に開けようとして開かなかった扉は、夫が持つ鍵でしか開かないと聞いている。

 ユリアナはしばらく立ち尽くしてその扉を見つめた。


 意を決して、夫の執務室の扉を叩く。

「まだ言いたいことがあるのか」

 辟易した声を出した夫は入室してきたのがユリアナだと知り、目を見開いた。

「ユリアナか」

「ええ、わたくしですわ。一体、誰とお間違えになったの?」

「いや……」

「上の村の村長が戻ってきたと思われたんでしょう?」

 マクシムがばつの悪そうな顔つきになる。


「襲撃とは何ですの?」

「何だって?」

 突然切り出したユリアナに、マクシムは思わずといった態で尋ね返す。

「領地を守るための襲撃とはどこを襲うのですか?」

 夫の様子に構わず、ユリアナは続ける。

「それは、お前」

「答えられませんの? では、儀式とは何ですの?」

 さっとマクシムの顔色が変わった。

「どこでそれを?」

「どこでも良いではありませんか。それより上の村の儀式とは?」

 マクシムは驚きで目を見開くのではなく、今度は恐怖でそうした。小刻みに震える夫の手をちらりと見やる。恐ろしさに言葉を失う夫に、更に畳みかける。

「赤ん坊を手に入れるとはどういうことなのですか? 儀式に関わるのでしょうか?」

 マクシムの顔色は青から白へと転じた。

 ユリアナはサイドテーブルに置いてある酒瓶から酒を杯に注ぎ、渡してやった。マクシムはそれを煽り、力なく濡れた顎を拭う。

 手の中の杯に視線を落とし、マクシムがわななく唇を開く。


アビトワ家は屋敷のある丘や領地を守るために、上の村に周辺の村を襲わせていた。初めは小さな小競り合いがあり、それに上の村の者たちを向かわせ、うまく勝利を得てきたことがきっかけだったようだ。徐々に、不穏な動きを見せる領地付近の村を潰していくように指示するようになった。

「この丘は大地の精霊に祝福された土地なのだ。美しい丘の中腹は殊に作物が良く育つ。そんな土地で豊富な作物を得ることができるのは、上の村の者たちにとっても悪いことではなかった」

 その手を血で濡らすことになっても。

 それでも、飢えるよりは良いのだ。作物が実らないというのは、人を人ではなくしてしまう。

 村人たちは、特に強大な力も戦術もなかったが、群れでどこまでも徹底的に残忍になり勝利してきた。

 このご時世、豊かな領地から奪おうとする者は多くいた。困窮すればある所から貰ってくる、くらいの気軽さだった。

 回数が増えるにつれ、襲撃はうまくいかず、逃げ帰って来ることもあった。

 その際、勝利、引いてはアビトワ家の繁栄を祈って、奪ってきた乳幼児を儀式に用いたのだと言う。


「赤ん坊を儀式に用いる?」

 乳幼児を用いる儀式とはどんなものか。マクシムをこれほど酷く怯えさせるものなのか、とユリアナにも彼の不安が伝染する。

 現に、今も夫はしきりに唇を舐め、できれば言葉にしたくないという風情である。

 しかし、ユリアナの強い視線に促される。

「わ、私は当主になる前に父親に連れられて上の村の儀式を見た。そうすることが当主になる条件だと言われて付いて、行かざるを得なかったのだ。上の村の者がしていることをよく見ろと言われた」

 彼はアビトワ家の長子として、青年の頃、儀式に参加したことがある。その頃はまだ父が存命だった。

 その儀式ではアビトワ家の領主が祭壇の前に立つ。そうすることで、お前たちの勝利を願う、というのと同時に、お前たちもいつこうなるか分からないのだぞ、と誇示するのだ。

 マクシムはこれが嫌で嫌で、上の村の村長に押し付けた。だから上の村の者たちに侮られるようになった。


 上の村の村長の家に設えられた半地下の薄暗い部屋、無数の燭台の炎が揺れる度に、奥の祭壇の禿げた色彩がちらついた。すえた臭いが鼻の奥をつく。籠った空気はそれだけで質量を持って肌にまとわりついてくる。中央の台に泣声を上げる子供を捧げる。その周囲を村の主だったものが謡いながら歩く。手には錆びた鋸や鉈、斧が握られている。

「素揚げして食べりょうか」

「焼いて食べろうか」

「煮て食らおうか」

 節をつけてそう言いながら、赤ん坊を殺すのだ。動物が反射的に上げる痛みへの喚き声が村人たちの嗜虐心を加速させる。

「さあさ、血を飲みゃんせ」

「温かい血ぞ」

「新鮮な血じゃ」

 噴き出す血を啜りながら謡うのだ。

 けたたましく泣き喚く赤ん坊の嗚咽がやがて小さくなる。それに反比例して鉄さび臭い熱気をはらんだ臭気が増す。

 彼らは乳児を儀式に用いた。産まれたばかりの子の、新しい生命の、温かく新鮮でさらりとした血を肉を必要とするというのだ。

「やれ、柔肉じゃ」

うまい肉じゃ」

「心地よい脂じゃ」

「歯ごたえの良い筋じゃ」

 腕に抱えるほどの生命の肉を食らいながら、謡うのだ。

 若いマクシムは卒倒した。



 夜、ユリアナは寝室を抜け出した。夫は深酒からいびきをかいてぐっすり眠っている。

 彼の首にかけた鎖を外しても、一向に起きる気配はなかった。

 鎖の先には、鍵がぶら下がっていた。

 ユリアナはその鍵を夫の執務室の隣の部屋の鍵穴に差し込んだ。果たして、すんなり鍵は回る。

 鍵を夫がしていたように首から掛け、冷たくなる指先を一度握った後、音を発てずに扉を開く。

 中に入り込むと、腕を伸ばし、その手に持った燭台で先を照らす。

 足元にぽっかり口が開いている。下に続く階段が黒々と闇に沈んでいる。ろくに手入れされていないらしく、埃まみれである。

 燭台だけでは心もとないが、致し方ない。


 夫にいくら言っても、この扉の向こうのことは口を割らなかった。

 ユリアナは小さく笑って見せた。

 そんな事を言いながらも、酒におぼれて結果、この様である。

 怖さを押し隠すためにわざと笑ってみたが、案外、足を進める契機となってくれた。


 夫は言った。

 上の村の儀式は上の村の半地下にて執り行われると。

 では、このアビトワ家の領主が肌身離さず持つ扉の向こうにはいったい何があるというのだろうか。

 一歩一歩確かめながら階段を下りた。自分も暗闇の中に引きずられていくようで、恐怖が喉元までせり上がって来る。

 足を乗せるたびに軋む音に、ようやくびくつかなくなった頃、足元は平面になった。

 埃臭いともかび臭いともつかぬ廊下をしばらく歩くと、行き止まりだった。

 ユリアナは不安にかられながら、燭台を高く掲げたり、壁を触ったりした。

 何もない。

 ふと足元に視線を落とすと、室内履きが随分埃にまみれて白っぽくなっている。

 そのつま先が、筋を踏んでいるのを見た。

 初めはゴミでも踏んでいるのかと思った。

 よくよく見てみれば、床に薄っすら筋が入っている。

 ユリアナはしゃがみこんで、指でそっとその筋を辿った。

 と、指が引っかかる部分がある。中に指を入れることができる。そのまま、引っ張ったり押したりしていると、小さい音を立てて、床板の一部が沈み、その分だけ逆側が跳ね上がる。

 その奥に、鉄環があった。恐る恐る手をかけ、引いてみるがびくともしない。

 力いっぱい引くと、鈍い音をして、行き止まりの壁が横にスライドした。

 驚いて鉄環から手を離すと、がらがらと音を立ててその先に繋がる太い鎖が巻き取られ、元の位置に戻る。壁も元の行き止まりに戻る。

 ユリアナは隠し扉だと合点して、鉄環を引っ張った。歯を食いしばり、足を踏ん張って、腕が抜けるかという思いをして扉を開けた。

 鉄環を限界まで引き上げると、鈍く重い、何かが嵌る音がした。行き止まりの壁は半分ほど横に移動し、完全に止まった。

 ユリアナは恐々鉄環から手を離した。果たして、扉はそのままの状態でユリアナを中へと誘っていた。

 ふらふらと入り込む。

 燭台の炎が小刻みに揺れているのは、力の限り鉄環を引っ張った余波だ。手ががくがくと震えている。

 まるで、昼間、自分に上の村の儀式を話した夫のようだった。

 その夫や上の村の村長をして、怯えさせるものがここにある。

 つまり、長らく上の村を抑えておける何らかのものがここにあるということだ。

 ユリアナは知らず、つばを飲み込んだ。

 それでも、前を向いて歩いて行かなければならない。


 ユリアナが勇気をかき集めているのは、中が暗いのもそうだが、扉が開いたくらいから微かに聞こえる音も原因の一つだった。そして、何とも言えない生臭い匂いがする。中の空気が淀んでいる。燭台の火が消えないということは、少なくとも息はできるということだ。

 進むにつれ、音は大きくなってくる。

 その音の主は明かりに驚いて体を鉄格子にぶつけるのを止め、奥へ素早く逃げ込んだ。

 そう、廊下の先には鉄格子のある部屋がぽっかりと口を開いていた。手前の広間には中央にアビトワ家の家紋が織り込まれた絨毯が広がっている。祭壇らしきものや台が置かれ、その上には錆びた鉈や手斧が置いてある。

 ユリアナは鉄格子には近づきたくなかった。怯える心を叱咤して、無理やり進んだ。

 その奥に納められている何かは、鉄と鉄をこすり合わせるような甲高い音を発していた。

 鉄格子の隙間から腕を出されて攻撃されては敵わない。

 ユリアナは震える腕を差し伸べて燭台の灯りをじりじりと近づける。

 ふと、その上部にも鉄格子がされているのが垣間見える。上をくりぬいて、空気穴でも作っているのかもしれない。

 そんな埒もないことを考えられたのも、束の間だった。

 燭台が照らす先には、異様な姿があった。

 赤黒い毛に覆われたアーモンド形の体から絞り出された首の先、鼻の部分にイソギンチャクのような触手が無数に蠢いている。

 シャベルに似た長い鋭い爪が四本生え、親指だけ短いのが一本あり、かき分けやすい造りになっている。

 ユリアナには分からなかったが、口先にある無数の触手、肉状の突起は、感覚器で、感知能力に長けている。

 暗がりの中、明かりを差し向けられたことに腹を立てたのか、ガッ、と威嚇して体を伸ばしてきた。筒状の口の内側にびっしり生えた歯を、多くの猛獣がそうするように、むき出しにして。

「ひっ」

 ユリアナは驚いて身を翻した。そのまま駆け出す。無我夢中で走った。

 隠し扉の所まで一気に駆け、ようやっと足を止めて呼吸を整える。

 しばらくは荒い息を繰り返していたが、普段通りになるにつれ、思考も戻ってくる。

 合点がいった。

 あれを、上の村の村長は恐れていたのだ。

 あれを使ってのアビトワ家の儀式とは一体何だろう。上の村と同じく、生贄を差し出していたのだろうか? それが上の村の者だったら?

 それは酷く怯えるだろう。あれを外に放つとでも言えば、従わざるを得ない。

 上の村の儀式を放棄したアビトワ家の領主を侮りはすれども、アビトワ家の儀式は侮りはしなかった。

「けれど、これで、私の儀式ができる」

 子を取り戻す儀式が。

 ユリアナはひそやかに笑った。



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