33.美しい丘の奥深く4
実家で取り扱っていたその「特別な薬草」は常に葉が北を向いた。
そこに不可侵性を見出し、占いや呪術に用いられた。薬草だけあって、薬効もある。毒虫を寄せ付けない効果もある。
これをアビトワ家に納めることによって、嫁として迎え入れられた。
そして、もう一つ、ブリズギナ家は「特別な薬草」を献上した。
その薬草の根の毒は中枢神経の麻痺により、皮膚の痛覚を減少させ、大量摂取すると呼吸麻痺を引き起こす。
球根植物で、水や土がなくても、芽を出し花を咲かせることができる。
どうやら、夫はこの球根植物を上の村に渡し、そこで育てているようだ。
更に、ユリアナには切り札として誰にも明かしていない「特別な薬草」があった。
それを持って、流産した子を蘇らせようと儀式を行ったことがある。その時はまだ体が本調子ではなく、儀式は途中で中断してしまった。
その件が露呈して、姑から責められることとなった。
アビトワ家当主の妻が怪しげな儀式を行うなというところだろう。
自分は役に立つ人間なのだと示すために、姑に美容に効く薬を処方したりなどの努力を行った。夫に代わって使用人たちの差配にも尽力した。
けれど、頑張っても、中々うまくいかない。
侍女の態度は日に日に大きくなっていった。他の使用人もおかしいと感じ始めている。
夫は押し出しの強い一見立派な貴族の当主だった。姑は上品で礼儀作法に明るい、それだけに厳格で口うるさく粘着質であり、夫は何かと彼女の肩を持った。
由緒ある貴族の家だからそんなものだと思った。
その実、夫が気の小さい人間で、特に上の村の制御が取れずに、その苛立ちをぶつけて酒色に溺れているのだと気づくのに、そう長くは掛からなかった。
そして、ついには年の離れたユリアナよりも年若い妹にも手を出した。今年は滞在期間がいつもよりやや長かったせいか、それとも年頃になったからか、上の村の村長が頻繁に尋ねてくることへの逃避からだろうか。
夏至祭りの準備に追われて忙しいユリアナが夫の執務室を訪ねるところだった。
目的の部屋の扉が開き、薄暗い廊下へ妹が出て来た。
ジャンナの髪が乱れていることに気づき、立ち止まる。
「あら、お姉様。お義兄様にご用事なの?」
浮かべた笑顔はいつもと同じ控えめなものだったが、ユリアナの視線に、慌てて衣服の胸元が緩んでいるのを直す。
「貴女に聞きたいことがあるの。一緒に部屋に来てちょうだい」
硬い表情で言うユリアナにジャンナは大人しくついて来た。
自室へ入り、扉を閉めるやいなや、ユリアナは妹に何をしているか分かっているのか、何故拒まないのかと尋ねた。
「でも、だって、お姉様のお立場を悪くしないようにと思って」
従順な妹は変な気遣いを見せた。一切の悪びれを見せない。
「それに、お父様もお母様もお姉様がアビトワ家から出されることがないように、と強く言いつけられておりましたのよ」
ブリズギナ家はその特殊性から貴族間では浮いた存在で、歴史あるアビトワ家の庇護を必要としている。
あまりの言い様に、ユリアナは静かに怒った。嫉妬に狂う心を押さえつけるのに相当の力を要した。
長子だからと幼い頃から押さえつけながら薬草の知識を叩きこまれた。連綿と続く技術を、妹は忌避してきたのに、上辺の良いとこだけ掠め取り、さも貢献している風に言うのが面憎かった。娘個人よりも家が大事で、平気でないがしろにする両親が疎ましかった。
ユリアナは唇を噛み締めて妹の後姿を見送った。
タマラは下の村に貢献する貴光教聖教司やユリアナが処方する薬の効き目によって、薬草について興味を持ち始めたらしい。
上の村の村長からダリアが何かを渡されているのを見たタマラが、気になってアルセンに尋ねる。
「上の村の村長が珍しく、お兄様ではなく、お母様を訪ねてきたのですが、植物を渡していましたの。貴方はご存知でした?」
「それは恐らく家で代々作らせている「特別な薬」に使う薬草だよ」
アルセンは意味ありげな顔つきになる。
「薬? お義姉様のお家のような? 我が家にもありましたの!」
まあ、と胸の前で両手を重ね合わせて目を輝かせる。
廊下を歩いていたユリアナは玄関ホールから聞こえてくる会話に、足を止めた。そのままその場で耳をそばだてる。
「そうだよ。効果は抜群だった。僕もこの目で確かめたからね」
アルセンは思わせぶりな物言いをしたが、結局、その薬草や薬に関しては詳細を語らなかった。
人は隠されると気になる。
特に、タマラは今、薬草に関して関心を持っていた。そして、自分の家が代々作っていた特別な薬とやらのことを、熱を上げている聖教司に教えてやることができるかもしれない、とでも考えたのかもしれない。
気になったタマラはアルセンと別れると、何食わぬ顔で、屋敷を抜け出た。
上の村へ行くのだと察したユリアナは後をつけていく。丘の上は遮るものがないからすぐに見つかるかと思ったが、幸い、タマラは一度も振り返らなかった。自分の考えに捕らわれていると、周囲に視線がいかないものだ。
タマラは途中、道を外れ、林に入った。下生えに足を取られ、きょろきょろと周囲を見渡す様子から、そう頻繁に来ているのではないということが分かる。
ユリアナはタマラよりも、上の村の監視があることを想定して周囲に気を配った。
石垣の上に張り巡らされた木塀にぶつかる。方角や距離から、上の村の側面であると予測される。
ここまでは想定内だ。ユリアナも何度かここまで来たことがある。頑丈な扉には変わった錠が取り付けられていて、ユリアナは入ることができなかった。
調べてみたところ、村長以外はアビトワ家一族だけが知る鍵の外し方があるらしい。
タマラは果たして、開錠することができた。
扉が閉まる前に、すかさず後に続いたユリアナは息を飲んだ。
「まあ、お義姉様。ついていらしたの?」
そこで見た光景に眩暈がしそうだった。ブリズギナ家から持ち込んだ「特別な薬草」の球根植物の隣に植えられている植物が目に入ったからだ。
一メートルほどのまっすぐに伸びた茎の上部に白や薄いピンクの花をつけ、下部には小ぶりの鋸歯で覆われた葉が互生している。少量では強心作用をもたらす。
ユリアナはブリズギナ家で取り扱わない薬草に関しても知識を叩きこまれていた。
生家から持ち込んだ可憐な青紫の花は夏に咲くことはない。ましてや、葉は花が散った後に生える。それが花をつけた株と葉を生やした株が混在している。長年薬草栽培をしてきたブリズギナ家ですら、こんな光景は見たことがない。ここは大地の恵み豊かな特別な場所なのだと知る。
そして、ユリアナは薄々気づいてはいたのだ。彼女が持ち込んだ薬が良いようには使われていないことに。それにずっと見えない振りをしてきた。しかし、自分はそれとともに栽培されていた植物に、腹にいた子を殺された。
歪んだ因果応報を感じずにはいられなかった。
上の村の畑に広がる薬草は堕胎薬に使われた。その隣にはユリアナが持ち込み、夫に渡した「特別な薬草」も栽培されていた。
アルセンの言動から、恐らく、ユリアナは姑が作った堕胎薬を知らない内に処方されていたのだろうと知る。
ユリアナは「特別な薬」を薬草から育て、処方する、いわば使う方の側だと思っていた。知らず、使われる方の側にいたのだ。
「お義姉様? ねえ、この薬草は何に使われますの?」
のんびりしたタマラが恨めしかった。酷く攻撃的な、誰かを傷つけてやりたい気持ちになっていたユリアナは真実を教えてやるのが一番だと知っていた。
ユリアナは口を開く。唇がわななくのに構わず、言葉を紡ぐ。
「あちらの薬草は古来から堕胎薬の原料とされているのですわ。そして、恐らくこの薬草から作られた「特別な薬」でわたくしの子供を殺されたのです」
義妹はぎょっとした顔つきになる。
そして、タマラはまさか、とぼんやりした笑いを浮かべて信じなかった。だが、鬼気迫るユリアナの様子に、気圧され、徐々に口数が少なくなり、同時に顔色が青くなり、最後には白くなった。
タマラは屋敷に舞い戻り、アルセンを問いただした。
全てを知っていたらしく、あまつさえ、成就するように手伝ってさえいたと薄ら笑いで言う。
「義姉さんが妊娠した時に薬湯を勧めろと母上に言われたのさ。薬を仕込んだのも、もちろん気づいていたよ。義姉さんも母上から差し出された薬湯は飲み干さないかもしれないからね」
自分が親切顔で飲ませたのだと言う。
タマラは流石にそれは酷い、と弟を非難した。弟と同時に母親をも詰った。兄は何をやっていたのだ、と飛び火する。浮気をしている場合か、と。
タマラもまた、兄と侍女のことを知っていたのだ。恋に焦がれる少女のままのタマラは潔癖になった。
泣き喚く声を聞きつけて顔を出したマクシムを糾弾する。
「酷いわ、あんまりだわ、お兄様!」
マクシムは苦虫を嚙み潰したような顔つきになる。人は図星を差されると逆上する。
「お前こそ、家のことを考えずに浪費して、外の世界に憧れるままに、下の村へ入り浸っているじゃないか」
「姉上は貴光教の聖教司に恋しているんだよ」
薄笑いを浮かべたままアルセンが告げ口する。場をかき回して楽しんでいるようだった。
「身分違いだ! わきまえろ!」
「お兄様に言われたくありませんわ!」
完全に醜い言い争いの様相を呈していた。
そんな兄弟の様子を、明け放した扉の向こう、廊下の先で姑が眺めている。
衝撃を受けたユリアナはよほど酷い表情をしていたのだろう。ふらふらと戻ってきたユリアナも事態を知ったのだと察した姑が静かにのたまった。
「貴女、マクシムとタマラの年齢が離れていると思いませんこと?」
何を言い出すのかとその年齢にしては皺の少ない顔を見つめる。上品に整った表情は兄弟げんかに露ほども動じていない。ましてや、嫁に自分の所業が露見したところで痛くも痒くもない風情だ。
「わたしくしもね、マクシムを出産した後、孕みましたのよ。でも、その頃、アビトワ家の経済状況が思わしくなく、義母に渡された「特別な薬」を泣く泣く飲むことになったのでしてよ」
マクシムの後、タマラの前にできた子供を、自分も姑に渡された堕胎薬で流されたのだと言い放った。
だから何なのか。自分がされたことだから、黙って受け容れろと言うのか。
「上の村で栽培している薬草のことですわね? 確か、代々アビトワ家に伝わるものだとか。では、ブリズギナからもたらした薬草は何にお使いなのですか?」
初めて、姑の表情が崩れた。僅かな動揺を見せる。
「あの毒草は誰に飲ませたのですか?」
「さあ、わたくしには分かりかねますわ」
とぼける声音は先ほどとは違って強固な壁ではなかった。
だから、追及してみる気になった。
「彼らの夜の労役に用いられているのではありませんこと?」
姑は目玉だけを動かしてユリアナを睨んだ。
「貴女が知ることではありません。それ以上の詮索はおよしなさい」
言い捨てて、足早に去って行った。
あまりのことにユリアナは追及どころか、後を追うことすらできなかった。
あの姑が明らかに怯えていたのだ。アビトワの強固さを象徴する姑の様子に、ユリアナは不安を感じずにはいられなかった。
ユリアナは以前流産した際、酒色におぼれたがった夫に誘われたが、拒んだ。体調が戻っていないこともあったが、子供を失ったばかりで子作りする気持ちになれなかった。
そこから夫の気持ちが離れるのを肌で感じていた。
マクシムは当時いた若い侍女に手を出した。
今考えると、孕んだ侍女に姑が堕胎薬を処方していたのかもしれない。引け目のあるユリアナが事態を知って躊躇している内に、姑が侍女に暇を出していた。
侍女の数が足りないのはそのせいもある。
それでも、激減したものの、夫婦生活はあった。けれど、ユリアナは二度と妊娠する兆候を見せなかった。
ユリアナはあの頃、確かに命を宿した。少しずつ、腹が膨らみ重くなっていった。生命が宿った重みを、ほんの少しの怖さとそれを凌駕する喜びでもってして噛み締めていた。
普段通りの動きができず、重く暑い。常に責任が付きまとう。その怖れと負担とに、耐えられるように、人は母性を生み出しているのかもしれない。
呱々(ここ)の声が聞こえる。産まれてこなかったのだから、産声を上げることもなかったのに。だから分かった。これは夢だ。でも、聞いているだけで胸が引き絞られる。いや、胸が張る。産まれてもいないのに乳をやれる訳もない。
もう一度、儀式を行おうと決意する。
死者の霊を呼び出すのだ。もう一度あの子に会いたい。
生まれてくることがなかった子を、もう一度現世に呼び戻すのだ。そうだ。腹から出なかった子に、せめて霊として現世を見せてやろう。
遠い国の伝説では、太陽が高い位置にある夏季の間は、死者は墓に静かに横たわっている。しかし、晩秋の頃起き上がり、人里にやって来、人間や家畜を害しようとする。そこから、死者に対する畏怖から、その霊を鎮め、宥める祭を行うようになった。
死者が蘇るとしたら晩秋だ。
でも、ユリアナは夏至の祭りに儀式を行おうとした。明るさの最高潮の頃に、亡くした子を迎えたい。
せめて、暗くどんよりしたものを見せるよりも明るく楽しい世界を見てほしい。




