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天地無窮を、君たちと  作者: 天城幸
第四章
162/630

17.美しい丘の奥深く2

 


 最近、義妹のタマラはよく下の村へ行っていた。それを知りつつ、咎めなかったのは、他にも懸案事項があるからだ。

 正直なところ、問題を起こさないでいてくれるのであれば、少しの間、放置していても良いかとさえ思っていた。

 広間のテーブルで食後の団欒を過ごしている際、義弟アルセンがタマラを揶揄う。

「最近は随分機嫌が良いね、タマラ」

「ええ、そうなの。何でも、下の村に翼の冒険者が来たのですって!」

 こういう無邪気と言えば聞こえが良いが、考えなしのところが頭が痛いのだ。

 義妹の言葉に、姑であるダリアのこめかみがぴくりと動くのを、ユリアナは確かに、見た。

「ほう、翼の冒険者というのは、あのエディスの英雄と称されている彼か?」

 夫マクシムでさえ、興味を示してティーカップを受け皿に戻す。

「翼の冒険者? グリフォンを連れていたの?」

 注目されて気分が高揚したのか、タマラは頬を紅潮させて義弟に頷く。

「もちろんよ。彼を僭称しようなんて、できやしないわ。だって、グリフォンを騎獣にしている者なんて他にいないのですもの!」

 ユリアナだって、こんな辺鄙な所にまで噂が届く翼の冒険者の話を聞きたい。しかし、いかんせん、間が悪い。


「すごいわ、そんな噂に名高い方がいらしたなんて!」

 はしゃいだ声を上げるタマラに姑が鋭い視線を送る。

「大きな声を上げるなんて、はしたなくてよ、タマラ。それに貴女、相変わらず下の村に出入りしているのね」

 しまった、という表情でタマラが口を噤むが、遅い。遅すぎる。そんな顔をするのなら、なぜ容易に喋ってしまうのか。小言を頻繁に受けても全く学習しない。

 それどころか、適当にやり過ごそうとその場限りの言葉で取り繕う。今だって、空気を換えようとでもいうのか、茶を侍女に要求する合図を送っている。

 新しく入った侍女はタマラの合図に気づかない様子でぼんやり壁際で控えている。

「ねえ、貴女、お茶を淹れてくださる?」

 タマラが声を掛けてからようやく気付く有り様だ。

「淑女ははっきりと声を掛けてはなりません」

「だって、合図しても気づかないのだもの」

 言外に自分が悪いのではない、とむくれるタマラに姑は冷たく言い放つ。

「そういう時は静かに気づかれるまで待つものです」

「あーあ、侍女が気が利かないとお茶もろくに飲めないのね」

 茶が飲めなかったことよりも、姑の小言を聞く羽目になったことへの当てつけだ。そして、わざとらしい大きなため息は姑の小言の時間を長くするだけである。

 学習能力のあるユリアナはひたすらとばっちりが飛んで来ないことを祈りつつ、静かに茶を飲んだ。



「あんな若い使えない娘っ子を入れるくらいなら、副料理長か厨房女中を入れてくださいよ!」

 料理長なのに、従僕の仕事も押し付けられて怒っているマルセルだ。人を増やしてほしいと言っているのに、ようやっと侍女が増えただけで、最近、もっと人員を増やせとせっつかれている。普段、ユリアナには同情的で協力的なのだが、いかんせん、日常の鬱憤が溜まっているのだろう。

「分かるわ、マルセル。料理長の貴方にしわ寄せが行っていること、本当に申し訳なく思っています」

「いやまあ、若奥様が悪い訳ではないのですがね」

「そうですよ。若奥様のご苦労も分かります。本当にこの家のことを考えていなさるのは若奥様ですから。私なんざ、いつお迎えが来ても不思議じゃありませんからね」

 家政婦長のパーシャが訳知り顔で頷き、いつもの決まり文句で締めくくる。恐らく、マルセルの怒りが収まるのを待っていたのだろう。ユリアナに賛同しているようでいて、料理長が怒っている時に仲裁はしなかった。火中の栗を拾うことはしないタイプだ。

 マルセルは余計な仕事も受け持たされているだけあって忙しい。ユリアナに言いたいことだけ言ったら、気持ちを切り替えて厨房に引っ込んだ。


 他に家族の誰もいないと広間も広々として見える。

 パーシャはすぐに立ち去ることなく、意味深な目配せをする。

「ここでは話せないようなことなの?」

「いえね、タマラお嬢様のことなんですがね」

 随分もったいぶった雰囲気だ。

「最近、妙に浮き浮きされておられると思いませんか?」

 昨晩、それが起因となってひと悶着あったばかりだ。

「ええ、そうね。とてもご機嫌のようね」

「その理由をご存知ですか?」

 声を潜めるパーシャの目が光る。

「下の村で噂の翼の冒険者にお会いしたそうよ」

「翼の、ってあのグリフォンを連れた?」

 ぽかんとパーシャが口を開ける。

 どうやらパーシャが考えるタマラの上機嫌の理由は違うことのようだ。

「ほ、本当ですか? あのエディスの英雄の? 翼の冒険者が下の村に来たのですか?」

 意外とミーハーだったようで、今にも下の村に駆け出していきそうなパーシャを止める。

「もう、村を出られたそうよ」

「そんな……。生きた英雄を、グリフォンを見る機会がすぐそこにあったのに」

 悔しがる様子に、これほどの執着があれば、お迎えはまだ先のことだろうと思う。


「パーシャはタマラが機嫌が良かった理由は何だと思っていたの?」

「え、あ、ああ、それは下の村に滞在している貴光教の聖教司によく会いに行っているそうで……」

 言ってからはっと口を噤んだ。

 なるほど、と内心頷く。

 パーシャはそこまでは話すつもりはなかったが、翼の冒険者に気を取られていてつい知っていることを全て喋ってしまったのだろう。

 そして、タマラは思っていたほど、うつけではなかったということか。

 翼の冒険者が来たという情報を、自分の恋心を覆う隠れ蓑にしたのだ。

「まあ、貴光教の聖教司様がいらしているのね。どんな方なの?」

「い、いえ、その、詳しくは知らないんですよ」

「そうなの? では、詳しいことを知ったら、また教えて下さる?」

 にこやかな表情を保ったまま、顔を近づけてパーシャに願う。

 老家政婦長は壊れた首振り人形のように首を何度も振ってから、そそくさと広間を後にした。

 その姿を見送りながら、ユリアナは不安を押し隠せないでいた。問題が多すぎる。それでなくとも、夫が新しい侍女にちょっかいをかけたくてうずうずしている風なのに。



 タマラが貴光教の聖教司に会っているという噂は、その数日後には姑の耳に入った。

 由緒ある家柄の娘がする振舞いでないことは確かであるし、きちんと言い聞かせなければならないだろう。

 それを何故、食後の団欒の時に話すのかがユリアナには分からない。どちらかの部屋でやってほしい、というのが正直な気持ちだ。

「お母様はそうおっしゃるけれど、ロラン様のお作りになる薬で幾人もの村人が助かっているのは事実ですわ!」

「そういう問題ではありません!」

「では、どういう問題ですの? 翼の冒険者にも教えておられていたそうよ」

 タマラは姑に反論する材料として、高名な冒険者の名前も出した。姑も今回ばかりは激高して声を荒げている。

 ユリアナは視線でアルセンに仲裁に入るよう促すが、軽く肩を竦めて見せるばかりだ。夫はこういう時は我関せずを貫く。

 今しばらく甲高い喚き声を聞かされ続けるのか、とユリアナは辟易する心持になった。

「ロラン様は素晴らしい方よ。知識も豊富だわ!」

「その方の人となりは関係ありません」

 そうだ。貴族の婚姻は家と家の結びつきである。全ては、家のためである。そうやって、アビトワ家も古くから続いて来たのだ。


「お義姉様のご生家でも特別な植物を育てておられたのでしょう?」

 突然話の矛先を向けられてユリアナは慌てる。彼女がこの家に嫁いだのはその特殊性が優位に働いたからだ。

「ええ、そうですわ。でも、だからって、植物学に明るい方と婚姻を結べるとは限らなくてよ」

 事実は肯定しつつ、タマラの思惑は潰しておく。自分の思い通りにする手札の一つにするために、変な風に利用されては困る。

 特別な、というのは特殊な、という意味でもあるのだ。

 タマラは詳細は知らないようで、燃え盛る火に不用意に手を突っ込めば火傷する。その原理を知らなくても、道理さえわきまえていれば無用な痛みを知らずに済むのだ。

 そんなことは露知らず、タマラは不服そうな顔をする。すぐに姑との応戦が再開する。

 ユリアナはテーブルの影で、ふと腹を押さえる。

 あの子がいたら。

 そんな埒もない考えを振り払う。

 無理やり、思考を切り替える。

 例えば、そう、翼の冒険者はどんな人物だろう。

 翼があるというのはどういうものだろう。空を自在に駆けるというのは、どんな気分になるのだろう。



 今日は朝からマクシムは苛立っている様子だった。注意深く観察してみると、怒りを感じているのではなく、緊張しているのだと分かる。

 前触れもない来客があり、それは上の村の村長だった。上と言っても、丘の頂点にはアビトワ家の屋敷がある。丘の中腹にある村を上の村と称し、麓にある村と区別しているのだ。

 夫との打ち合わせに呼ばれたのだと言う初老の男を、執事コスタヤが執務室へと案内する。

 マクシムが常とは違う様子だったのはこの来客の所為か、と合点がいく。

「ああ、あの陰鬱な感じ! やだやだ!」

 思わず、と言った態で侍女であるメーリが身をよじる。

「メーリ、お茶はいいわ」

 上の村の村長が来るときは茶を出さなくてもいいから、とにかく執務室に誰も近づけるな、と夫から言われている。そして、メーリもそれを知っているのであっさり頷いた。


 メーリは三十半ばで、結婚を機に一度退職し、夫と死に別れて再びこの屋敷に戻ってきた。それだけに、仕事を広範囲でこなす有難い人材で、本人は辞めたがっている。給金がそこそこ良く、仕事も一通り覚えた上、慰留されていることからも辞められないでいる。

 今は新人侍女インナの教育係として忙しくしている。

 インナは若くそこそこ可愛いものの、家事能力はそれほど高くない。それで、教育係であるメーリに負担がかかっているのだ。メーリやパーシャだけでなく、コスタヤやマルセルから、つまり先輩使用人全員からよく叱られている。

 その割にへこたれないというか、酷く落ち込む様子を見せない侍女に、意外と適性があるのか、とユリアナは首を傾げる。

 すぐに思考は他に移る。

 夫は上の村の者と話した後は必ず酒色いずれかに溺れる。何かから逃れようかとするように。

 人払いまでして、どんな話をするのか。

 ユリアナには不思議でならなかった。



「あまり頻繁に来るなと言ってあるだろう」

 苛立たしさに任せてサイドテーブルの瓶から酒をガラスコップに注ぎ、呷る。掌に冷たく硬い感触を返してくるのは、村で使っている木材をくりぬいて作ったコップではない。高価なガラスのコップだ。

 そう、自分はこんな高価なガラスを普段使いすることができる家の主なのだ。

「申し訳ございません」

 鬱々とした謝罪の念が籠っていない声で、上の村の村長が詫びる。懸命に気持ちを落ち着かせようとするマクシムを嘲笑うかのようだ。

「それで、何の用なんだ」

「お聞き及びですか、下の村に翼の冒険者が来たことを」

「ああ、知っている。すぐに村を出て行ったそうじゃないか。ちょっと立ち寄っただけだろう」

 そんなことでわざわざやって来たのか、という気持ちが声に現れる。上の村の村長は下の村に貴光教の聖教司がやって来た時も尋ねてきたのだ。

「そんなことで一々騒いでどうする。お前が上の村を抑えておかねばならんのだぞ。しっかりしてくれよ……」

 苛立ちに任せて強い口調となったがそれは長くは続かなかった。マクシムより幾分低い背丈の男が発する眼光に、尻すぼみになる。

「何かあってからでは遅いですから」

 突き刺すような光を、目を伏せることで消した村長に同意する。

「う、うん、まあ、そうだな。慎重にならざるを得んな」

「次の目星がつきましてな」

 冷や汗を拭うマクシムを他所に、村長が平然と言う。

「先日行ったばかりじゃないか」

 自分の声が上ずっていることを自覚する。喉が渇く。視線の先には中身がたっぷり残った酒瓶がある。

「春になったらうるさい虫が蠢きはじめますから」

 ねっとりとした視線を感じても、酒瓶から目を離すことはできなかった。対峙した男と視線を合わすことすらできないでいる関係なのだという不甲斐なさが口の中を苦くする。早く出ていってくれることを願うばかりである。

「美しい丘の奥深く、決して足を踏み入れてはならない」

 脈略のない言葉に、マクシムはいぶかしんだ。

 男は唇を歪めた。

「村の子供らが謡っているのを聞いたのです。誰からともなく口の端に上るようになったそうですよ」

 上の村の村長が形ばかりのお辞儀をして出て行った後、マクシムは立て続けに酒を呷った。酒は喉を焼くばかりで、気持ちを軽くしてはくれなかったが、一時の逃避だけは与えてくれた。



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