16.狂った精霊
白く蓋をした雲海の上へ出ると、真横にまっすぐ直立した崖がある。壁沿いにティオが更に上昇していく。力強く羽ばたく音がする。
風が確かな物体となって襲い掛かって来るのに、シアンは前を向いて目を開けておられず、前傾姿勢を取る。自然と眼球は涙に覆われる。
『今までこの上に行けたことがなかったんだ。高いし、たまに魔鳥が邪魔しに来るし』
「大丈夫? 無理しないでね」
『うん、大地の精霊の加護のおかげで余裕だよ!』
弾む声にぐんと高度が上がる。
不意に光が差し、思わず顔を上げると、視界が開ける。
思わず感嘆の声が上がる。
崖の上にはまっすぐ草原が広がっていた。これほど高い切り立った崖の上に、開けた場所があるとは想像もつかなった。
『やった! 上がり切れたよ』
「随分上ってきたものね。お疲れ様」
草原の上を進んでいくと、灰色の何かが密集して点在している。奇妙な形の岩の塔が並んでいた。人の手によらない風と雨が長い時間をかけて岩を削り取って形作ったものだ。
現に、そこには強い風が吹いている。
音がするほどの激しさに、ティオに休憩を提案する。
まずは水分補給だ。
フラッシュから借り受けたマジックバッグから飲み物を取り出し、器に入れて配る。
ティオは流石に汗をかいており、身体を軽く布で拭ってやる。
強い風が吹き、身体に毒だと思ったが、本人は平気な顔をしている。
ふと何かが動いた気がした。
せせらぎのすぐ傍に張り出した岩の庇の下をのぞき込めば、そこには掌に乗る大きさのネズミが隠れていた。
そのネズミが何もないのに押されて飛び出てきた。驚いて辺りを見回し、すぐに草むらに走っていった。
「今、何かあった?」
『強い魔力を感じた。それに押されたようだよ』
『風の魔法みたいだった』
風が強く吹く場所なので、精霊が集うのか。
周囲の草原に風の筋をいくつも流しつけていく。
ふと、思いついてバーチャイムを置いてみる。
この楽器は別名ウィンドチャイムと言い、自然の風でも音が鳴るのだ。
吊り下げられた長さが異なる金属棒全体を専用のバチで流れるように叩くと、「シャララララ」と風が色彩をまとってそよぐような涼し気な音がする。
『きれーい』
フラッシュの思惑通り、リムがその周囲を回って飛びながら歓声を上げる。
バチを使わなくても、風がその楽器を通り過ぎる度に、澄んだ軽やかな音がする。
「天然の音楽だね」
呑気な感想を言えるのはその辺りまでだった。
周囲を吹き荒れていた風が集中してシアンたちの方へ吹き始めた。
風に揺さぶられる周囲の草原を見るに瞭然だ。
「なんだか、おかしい?」
ティオに視線をやれば、四肢を強く地面に踏ん張り、やや前傾姿勢で、周囲を警戒している。
いつにない緊迫した様子に言いようのない不安がこみあげてくる。
「この場所を離れよう」
すぐに行動に移そうとバーチャイムに手を伸ばすと、一陣の強い風が吹き去り、咄嗟に手を引っ込めた。
『嫌よ、いやいや』
高い声がしたかと思うと、風が一塊にぶつかりむくむくと大きくなる。色のない筈の風が見えた。うっすら水色がかったような鈍色のような、不思議な色合いだ。
『玲瓏な音だもの。もっと聞きたいわ』
シーツの中で何かがもごもご蠢いている風な動きが一しきりあった後、するりと布を剥いで年配の女性が現れた。波打つ髪は緑っぽい黒色で、褐色の肌に薄い水色の瞳をしていた。形の良い眉に高い鼻、やせた頬は理知的であるパーツなのに、口元が緩み、どこか夢見る眼差しがそれを打ち消している。
シアンが突然現れた女性を凝視していると、また強く風が吹き、バーチャイムが派手に音を鳴らす。
作って貰ったばかりの大切な楽器が壊れやしないかと冷や冷やする。
そんなシアンの内心などお構いなしに、風の精霊が笑い声をあげながら手を叩く。
甲高く笑う女性は風の精霊だろう。
断定するも、これまで会ったどの精霊とも違っていて戸惑いを覚えずにはいられなかった。
無邪気で子供のようにふるまう力のある存在だ。
長い髪を吹き荒れるまま、トーガのようにドレープのたっぷりある服の裾をはためかせ、時にはめくれあがって肌が露出するのにも構う様子はない。
「そんなに強く風を当てれば壊れてしまいます」
風に散らされないように声を張る。
生意気なことを言うなとばかりに風に襲われる。
腕で顔をかばう。
と、少し風が弱まった。
ティオがシアンの前に移動して、風よけになってくれたのだ。
ありがたいが、ティオが盾になって怪我などしては、という懸念が持ち上がる。
かばわれるような事態に陥っているのか。
指先が震える。
まだティオは警戒を解いていない上、風の精霊の様子が変だ。
悪い予感ほど的中する。
『これほしい、ちょうだいちょうだい!』
激する声に合わせて風も強く吹く。
女性特有の甲高い喚き声に怯む心を励ましながら、なるべく穏やかに告げた。
「でも、これはとてもお世話になっている方が僕たちにと苦労して作ってくれたものなんです。わざわざリムが気に入りそうだと作ってくれたんです。お譲りできません」
『いやいや! ちょうだい!』
突風が吹いた。
鈍く重い音がして、前方の岩が見る間にせりあがる。激しい音をたて、小石を辺りにばら撒きながら岩の壁がシアンたちと風の精霊の間にできた。
『風の精霊王めが。気狂いのまま風を吹き荒らしよる』
「雄大?」
姿は見えないが、大地の精霊の声がする。
『風のの魔法は強力じゃ。人の身など軽く貫く。ましてや、今のあやつは―――』
空間を切り裂く音に、岩の壁の端が崩される。暴風が吹き荒れる音がする。視覚では捉えられない迫りくる暴力に身がすくんだ。
『おっと、上からも横からも軽々飛び越えてくるぜ』
「稀輝!」
閃光が幾度かはじけ、暴風が緩んだ。
腕組みした美丈夫が中空に浮かんでいる。暴風にも揺らぎなく太く笑う様に安堵を覚える。
『シアン、大丈夫だよ。でも、次からは少しでも危ないと思ったらすぐに私たちを呼んでね』
いつの間にか、すぐ傍らに嫋やかな姿があった。
「深遠まで」
そっと微笑んで顔をのぞき込んでくる。初めて会った頃の不安定な様子は薄れている。
風の精霊は違う意味で不安定だ。
『私は安寧と精神の安定をもたらす。こうなる前に風のと関わっておくべきだったのかもしれない』
深く内省する闇の精霊に何も言えなかった。
彼らには彼らの事情がある。
「一旦、引こう。このままここにいたら大怪我をしかねないよ」
大地の精霊が作り出した石の壁の端が風で削られていく。猛々しく後を引く風音に、身震いが止まらない。
『フラッシュが作ってくれた新しい楽器が!』
リムが悲鳴じみた声を上げ縋るように見上げてくる。
バーチャイムは壁の向こうだ。
「うん、そうだね。でも、取りに行けないよ」
『僕が行こうか?』
「駄目だよ、ティオ。フラッシュさんが作ってくれた楽器は大切だよ。でも、そのために誰も傷ついてほしくないんだ。あの精霊はバーチャイムに固執していた。取り返そうとしたら、逆に煽ることになるよ。諦めよう。無事に逃げることに専念しよう」
シアンは弱い。だからこそ、一つのことだけに集中することに躊躇はなかった。
『ダメなの?』
リムがシアンの肩から首を差し伸べて見上げてくる。
両手で抱き上げて、視線を合わせる。
「ごめんね、リム。僕がもっとちゃんと言葉を選んで断っていればよかったかもしれない。でもね、どうしようもないこともあるんだよ。謂われのないことや圧倒的な力には避けるしかない時もあるんだよ」
『綺麗な音がしたのに。作ってもらったばかりなのに』
弱々しい声は諦めなくてはいけないということと、諦めきれないという狭間で行ったり来たりしている様子だ。
頑張れ、という気持ちを込めて胸に抱きかかえ、後頭部から首、背筋と撫でる。
理不尽に歯を食いしばって耐えなければならないこともある。それを生まれて間もないリムに強いることが辛かった。
「雄大、深遠、稀輝、僕たちが逃げられるように、力を貸してくれる?」
『もちろんじゃ』
『承った』
『傷ひとつつけさせないからね』
彼らでさえ、楽器を取り戻せるとは言わなかった。そういうことなのだろう。
辺りを広範囲に光が覆い、時を同じくして広く高い岩壁が出来上がる。
負けじと突風が行く筋も貫き、轟音を立てて壁に穴が開き、削れ、崩れ落ちる。壁の中は暗闇に満ちていた。
風が闇を散らそうと躍起になっている頃、シアンはティオに乗って崖の上の平原を大きく迂回しながら低空飛行していた。彼らの姿は周囲の岩や草や木々に同化している。光の精霊がかけた隠ぺいの魔法に助けられ、壁を風が突き破る音に紛れて逃げおおせた。
ティオが苦労して超えることができた崖の端から降下を始めた頃になって、ようやく息をつくことができた。
麓の一番近いセーフティエリアに降りてもらい、ティオの背から地面に立った時、力が抜けて座り込んだ。ティオもさすがに疲れたらしく、横たわる。リムは始終無言で、シアンの肩に乗って顔を首筋に埋めている。
どのくらい、呆けていただろうか。
翡翠の色がついてでもいるような、すっとする鼻に抜ける清涼な香りがした。香りを運んだ一陣の風が眼前で螺旋を描き、人の身長ほどの長さの竜巻を作る。
ふ、と風が掻き消え、美麗な少年の姿が中空に現れる。
白に近いプラチナブロンドは短髪で綿のような巻き毛が顔の周りに垣間見える。白い肌は浅紅色の頬と唇、鮮やかな翡翠色の瞳を浮き立たせる。金色の眉は細く先が跳ね上がり、理知的な瞳と小ぶりな鼻の幼さが絶妙なバランスで配置されている。
『余計なことはするな』
何かを足元に放られた。地面の石に当たり、固い澄んだ音が反響する。よく見ると、バーチャイムのソリッドだ。
大地の精霊から譲られた銅鉱石からフラッシュが作り出したものの一かけらだ。
息を飲んだ。
座り込んだまま振り仰ぐと、少年は苦々し気な表情を浮かべて姿を消した。
バーチャイムの残骸を手に取ると、大地の精霊を呼び出した。
「雄大の君、聞きたいことがあるんだ。今のは精霊?」
シアンの呼びかけに応えて、地の下から押し出されるようにして頭から姿をせり上がらせた精霊は、あれは風の精霊王だと答えた。
「僕たちが逃げてきた風の精霊の別の姿なの? 稀輝も深遠も姿を変えられるけど、同時には出てこないよね」
『そうだ。わしらは二つの姿を持つんじゃよ。光のが姿を変えたのを見たじゃろう? だが、風のは分離してしまった。理性と本能が乖離したんじゃ。風は束縛を嫌うからな。先の小さい方は精霊の中でも特に知性的じゃ。本能のまま自由気ままなのが許せないんだろう』
「自分自身を許せない……」
少年の姿の風の精霊が消えゆく前に苦々しい表情を浮かべていたのを思い出す。
自分の一部を受け入れられなくて切り離すほどとはどれほどの苦痛だったのか。シアンは掌の中のバーチャイムの欠片を見つめた。
こんな風に、綺麗な音色を奏でる綺麗なものが、欠片になったのか。いくら、ティオやリムの翼が美しくても、その体からもがれ、翼だけ切り離されたらもはや物体にしか見えないだろう。それはあるべきところにあるからこそ、美しく力強く機能するのだ。
自分の一部を排除するほどに厭うのはどれほどの悲しみだっただろう。
シアンは息を大きく吸ってバーチャイムのソリッドを握りしめた。
「もう一度だけ楽器を作って持っていこうと思う」
ティオが気軽に承諾しても、わざわざ危険な場所に連れて行ってもらわなくてはならない無力感と罪悪感がわだかまる。
『フラッシュにまた作ってもらう?』
シアンの葛藤など些細な事で当然ついて行くつもりのリムが無邪気に尋ねる。
「ううん、フラッシュさんには言えないよ」
高度な技術を要する銅鉱石を加工してリムのために楽器を作ってくれたのに、壊したなどは言えない。せめて残骸でもいいから回収できないかと思った。代わりのものを引き換えに返して貰って、修復ができないか試してみるだけでもやってみたい。
「トリスの隣町は工業が盛んだそうだから、そこで作ってもらおうと思うんだ。バーチャイムと同じように風で音が鳴る楽器を」
シアンには風でひとりでに奏でる楽器、というものに心当たりがあった。
エオリアン・ハープという風の力で自然に音を鳴らす楽器だ。有名な練習曲の名称に付けられたので、そういうものがあるという知識があったのだ。
現実世界のことを持ち込むことへの忌避はなく、その是非を考えたことすらなかった。
ログアウトした後に詳しく調べた。
美しい音という記述は見つからなかったが、風の神に由来する楽器であるので、ちょうどいい。
筐体と弦のみの楽器だ。原理が複雑でなくて助かる。異世界の職人に説明するのはハードルが高い。




