4.美しい丘の奥深く1
美しい丘の頂上に、領主の屋敷は建っていた。
由緒正しいその家に相応の家構えであった。
吹き抜けの玄関ホール、右側に優雅に弧を描いて壁に沿って伸びる階段のささら桁下をくぐると、奥には家族の食事や食後の団欒だけでなく正餐の場である広間がある。その他、図書室に各部屋を繋げる画廊、二階には寝室が並ぶ。
長方形の広間では小規模の舞踏会を催したこともある。いち早く希少なガラスを窓に用い、明るい採光に、初めてこの館を訪れた際には感嘆のため息をついたものだ。
他家の者を招き入れなくなって久しい今では、そのステイタスシンボルが重くのしかかってきている。
使用人も高齢化してかなり減り、今度漸く新人が入る。新しい風が吹くことは心楽しい。この家のしきたりを理解して、口うるさい姑の細かさにもめげない子だと良いのだけれど、と思わずため息をつく。
少なくとも、以前、僅か三日で暇を貰って逃げるように去った子と同じく、パントリーに籠って泣き続けることにならないことを祈る。
それでなくとも今は、五人しかいない領主一家よりも使用人が少ないなど、あり得ない状態なのだ。
高齢の家政婦長が洗濯物を入れた大きな籠を抱えて覚束ない足取りでやって来るのが見えた。
「手伝うわ、パーシャ」
「若奥様、そんなことをなさってはいけません」
ユリアナは構わず骨と皮だけで構成されているかのような手から籠をそっと受け取る。そのままリネン室へ向かいながら回廊に設えられた大きな窓の外を見やる。生憎の曇天で、よく洗濯物が乾いたものだ。
「今年の五月祭りもどうにか無事に済んだわね」
この辺りでは完全に冬の名残が消えた後、四月の終わり頃に五月柱を下の村の広場に建て、春を祝う祭りを行うのだ。柱の上には花やリボンなどで飾られ、吊り下げられる。
「五月柱が終わったら次は夏至祭りですよ。今から準備が大変ですわ。もう、本当にいつお迎えが来ても不思議ではございません」
最後のフレーズはここ数年、家政婦長の口癖となっている。
「そんなこと言わないでちょうだい。貴女には長生きして貰わなくては」
「そうですねえ、タマラお嬢様をお止め出来るのは大奥様か私くらいですものねえ」
家政婦長のため息交じりの言葉に、ユリアナこそがため息をつきたかった。
本来ならば、祭りは上の村で行うべきものだ。しかし、いつからか、街道の脇にある下の村で執り行われるようになった。
この一帯を治める領主アビトワ家の長女タマラはそれが不服でよく下の村に入り浸っている。窮屈な暮らしが嫌だ、せめて賑やかな祭りに参加したい、と度々屋敷を抜け出す。
祭りを執り行う意味を理解していないのだ。
厳格な義母の教育が裏目に出たのか、と頭が痛い。そして、兄嫁であるユリアナの言葉などには耳を貸さない。こうやって家政婦長にすら嫌味を言われる始末である。
リネン室の前で洗濯物の籠を渡すと、中まで持っていってくれないのかとばかりに不服そうな表情を浮かべたが、見ない振りをして立ち去った。
ついつい手を貸してしまうが、本来は家政婦長が言う通り、使用人を手伝ってはいけないのだ。
由緒正しい家柄の妻となったのだから。
「相応しい振舞とは一体、何なのかしら」
それを、誰が決めるというのだろうか。
五月祭りは五月柱とも呼ばれ、五月に入った途端、つまり五月一日に春の訪れを祝う祭りである。白い美しい装いの樹木の精霊の女王に扮した村の少女が、こちらも白いドレスで着飾った案内役やその他の少女を従え、村を練り歩き、五月柱に向かう。その際、お付きの少女たちは手に手に籠を持ち、その中に入れた花びらを振りまく。
五月の穏やかな日差しの中、風に乗って上の村にまで花びらが届くという。
一方で、黒い服装をした冬を表す少年たちもまた村を練り歩き、最後には少年少女が入り混じって広場の柱の周りを回りながら踊るのだ。
その賑やかな音楽の音は風向き次第では丘の中腹に位置する上の村、そして丘の天辺に建つこの領主の館にさえも届くことがある。
確かに、あの心浮き立つような楽し気な音は気をそそられる。特にこのしきたりでがんじがらめになっている家にいれば、一層際立つ。
「だからと言って、領主一族が気安く下の村に出向くなんて、ね」
「タマラ姉さんのこと?」
突然間近で声がして驚いて振り向く。すらりとした長身の若者がすぐ傍に立っている。
「アルセン。もうお仕事は宜しいの?」
動揺を悟られないように努めるが、足音を忍ばせて近づいた悪戯が成功したと言わんばかりの笑顔である。
「たまの休憩は許してほしいな」
夫の弟であり、兄弟の末っ子であるアルセンが肩を竦める。
家政婦長と話していて祭りのことを想起し、つい独り言を口に登らせてしまった。ましてや、それを聞かれてしまうとは迂闊だった。
「休憩の気晴らしに庭に出るには生憎の天気ですわね」
さり気なく距離を取る。
「そうだね。でも、お陰でこうして、ユリアナに会えたから、曇天も捨てたものではないかな」
「そうかしら? では、私は他にすることがありますので、これで失礼するわね」
儀礼的な微笑みを浮かべてパーソナルスペースに踏み込もうとする義弟に別れを告げる。
「ユリアナは働きすぎだよ。貴女こそもっと休憩しなくては」
「ご心配、痛み入りますわ」
何かと距離感を縮めてくる義弟ではあるが、慰労の言葉をかけてくれるのはアビトワ一族では彼くらいである。
労いの言葉よりももっと現実的な行動が欲しいというのはない物ねだりだろうか。
画廊という名の廊下はその名にふさわしく、美術品が飾られている。これを維持するために、どれほどの犠牲を強いていることか。そして、どれほどの人間がそれを知っていることか。
掃除が行き届かなくなり、隅に埃が溜まっているのを見やりながら、それでも進んで行かねばならなかった。見て見ぬふりで前進しなければ、もはやどうしようもないのだった。
執事であるコスタヤと夏至祭りの他、村で行われるイベントに関わる収支の概算や招待客、冬の間に痛んだ建物や施設、器具に関わる修繕、屋敷の設備や道具のうち、新調するのはいずれからか、そういった諸々のことを話す。領主夫人としては屋敷内のことだけを把握して置けば良いのではあるが、ある程度は村に関わることも知っておかなければならない。予算の割り振りに影響してくるからだ。
下の村の祭りには参加しないが、屋敷は屋敷で、客を招いて晩餐会を開く。一族の叔父や伯母といった取り扱いの難しい者たちだ。
昔は他家の貴族を招待して、村の農作物や畜産物のやり取りなど、商談に繋がる社交の機会でもあったのだが、今は一族の者がやって来るくらいだ。内輪で昔の栄光を懐かしがり、富を食いつぶしていっているだけの場となってしまった。
執事と大まかな話を行った後、ユリアナは深呼吸をして夫の仕事場でもある書斎の扉を叩いた。
先延ばしにしたいところではあるが、今後の予定を考えると、早めに確認して置いた方が得策だろう。諸々の手配するのは自分なのだ。まさしく自分の首を絞めることになる。
「マクシム、宜しいかしら?」
恰幅の良い押し出しがいい男性が机に向かっていた。ユリアナとは歳が離れているせいという訳でもないが、頭髪がやや後退してきている。
入室した妻に口は開かず、小さい目で用件を質す。
「ジャンナが今年も夏至祭りに来たいと願い出ていますの」
「妹御か。ぜひ、来ていただきなさい」
ユリアナは思わず目を瞑った。
断ってほしかった。
けれど、夫がそう言うのは分かっていた。
「ありがとうございます。では、諸々の手配をしておきますわね」
決まってしまったのだからか、必要とされる事が脳裏をよぎる。まずは、実家の妹への連絡。いつ来るのかの確認をする文言を入れておかなくては。そして、客間の準備と料理人への連絡を執事への報告する際に頼んでおかなくては。
妹以外の客の有無を確認すると、夫は残念そうな表情を作った。
「ああ、叔父上は来られないそうだよ」
「まあ、そうですの」
ユリアナも夫に倣って失意の表情を取り繕う。
実際は酔っては乱暴になる義叔父は積極的に歓迎したい客ではなかった。
「義伯母上は?」
「伯母上はまだ分からないよ」
「お返事が遅れそうなら、それとなく確認していただけるかしら」
「分かった分かった」
気のない返事に、表情に不満が表れないように注意する。
「お願いしますわね」
来るかどうか直前まで知らされず、折角行った準備をふいにされて使用人から突き上げられるのはユリアナなのだ。
それに、今は一人分の食材も無駄にしたくはない。
いつまで経っても名家でいるつもりの夫や姑、義妹にこめかみを揉む。眉間の皺がいつか定着してしまいそうで不安だ。
広間のテーブルにすっかり夕食の食器が片付けられ、食後の茶が配られた後、姑が義妹に小言を繰り出す。逃げそびれたとばかりに義妹が首を竦め、それがはしたないとさらに姑のまなじりが吊り上がる。
「とにかく、貴女も立派なアビトワ家の淑女として振る舞いなさい。舞踏会だの社交界だのは二の次でしてよ」
四月から七月は社交界のピークなものの、一族はあまりこの地から離れたがらない。だからこそ、タマラは数年前より不満たらたらなのだ。
自分も親の決めた相手ではなく出会いの場で相手を見つけたいという希望が強い。今年こそはと狙いを定めていたようだが、国都でも色々あり、王室自体が揺らいでいる。そんな時に舞踏会も舟遊びも開催されないと言い含めたが、疑いの目を向けられただけだ。
「ダンスだって得意よ! 礼儀作法はうんざりするくらい叩きこまれているわ」
確かに姑である母親から立ち居振る舞い、テーブルマナーは完璧であると言えるほど指導されている。
だが、それだけではいけないのだ。
「だから、新しい服や小物を新調して……」
そう、身なりも値踏みされるのだ。
「どこにそんなお金があるの?」
何も言わない夫に代わってユリアナが尋ねる。タマラが目を見開いた。
「まあ、私はアビトワ家の娘よ?」
それにそんな金銭があったとしても、服装だけでなく、化粧や話術にも流行というものはあるのだ。専属侍女がすべてをコーディネートする。もちろん、そんな人材はこの家にはいない。社交界の場へ出ていっても、義妹がまごついて全く楽しめない様子が目に浮かぶ。
「うちにはもはや専属侍女がおりませんのよ」
それ以前に、厨房をはじめ、屋敷内はどこもかしこも人手が足りない。パーティーを催せないのであれば、真っ先にドレスや装飾品を選び、着付けや髪を整える専用の侍女を解任する。
「あら、新しい侍女が来るのでしょう?」
「次に入る使用人は侍女と言っても洗濯や掃除を行うのよ」
「メーリがいるじゃない」
「メーリ一人では手に余るわ」
だから、彼女は辞めたがっている。それをあの手この手で遺留している。
「パーシャは?」
「パーシャは高齢よ。それに家政婦長ですもの。本来は使用人たちを統括すべき立場だわ」
手が足りなくて、他の使用人の仕事を行っているので、ユリアナが家政婦長の真似事までしなければならないのが現状だ。
「料理長も料理人を増やして欲しいと言っているくらいよ。他に回せる人材はないわ」
つい、他のことまで口をついて出た。
本来ならば、夫が考えねばならないことを、自分がやっているのだ、という思いがあったからだ。もしくは、部屋の隅で控えている執事かが、本来行うべき事柄だ。
義妹は不承不承口を噤み、別の方向からわざとらしいため息が聞こえた。周囲の者に聞かせるためのものだ。
姑は嘆かわしい、と首を振って嘆いて見せる。
「ユリアナ、貴女はアビトワ家当主夫人でしてよ? 家政婦長の真似事なんて、はしたなくてよ」
あまりのことに言葉が出なかった。
誰もやらないから自分がやるしかないのだ。その役割をしなければ館の生活が成り立たない。
「アビトワ家の貴婦人として恥じない者でいてくださる?」
ユリアナだって、この屋敷に新しい家族としてやってきた際には同じ地方に住む貴族を招いてのパーティーを夢見た。アビトワ家は殆ど屋敷から離れないと聞いていたので、それならば、この美しい館で調度品を磨き上げて、お客様をお迎えしたいと夢想したものだ。
それでも、ユリアナは現実を見た。姑やタマラのように眼前から目を背けて嘆いたり、駄々をこねているだけでぼんやりしている訳にはいかなかった。願っていればそれを口にしてさえいれば、誰かが叶えてくれるなんてことは、決してないのだ。
自分でやるしかない。




