45.事件の余波/おまけ
睡眠を欲したリムは徐々に起きている時間の方が長くなりつつあった。
シアンがログアウトしている際はティオと狩りに出かけることもあるという。
特に体が痛むこともなく、どこかが痒くなったり、力加減ができないこともない。
生産作業に勤しんでいたフラッシュは、現実世界の忙しさに追われて、エディスのドラゴン襲来に立ち会うことができなかったと言うアレンたちメンバーに呼び出されてエディスで活動している。久々にログインしてみれば、一大イベントの興奮冷めやらぬ街の様子に取り残された気持ちになったそうだ。
相変わらず天帝宮への移動を用いてエディスとトリスを行き来する九尾に聞くところ、最近、ようやくエディスは落ち着いてきたようだ。
『非常時にその者の本性が表れると言いますからね。悲喜こもごも色んなことがあったようですよ』
酒を飲むと乱暴になる父親がドラゴンの咆哮で外れて落下した窓枠から、身を挺して子供と母親を守り、家族の絆が強まった、ある男は恋人を放り出して母親を連れて逃げたから振られてしまった、といった話だそうだ。
『中には、ドラゴンを間近にして、最愛の妻に死ぬ間際は一緒にいよう、と言ったら……』
「言ったら?」
思わせぶりに言葉を切る九尾に、シアンが鸚鵡返しに尋ねる。
『自分は死ぬなら愛する人と一緒に死にたい、と浮気相手の元に走られたそうですよ』
その夫婦は離婚と相成ったそうだが、何ともはや、というところだ。
『夫は抜け殻のようになってしまったそうです』
他には、どうせ死ぬのなら、とさんざんいじめられた先輩職人を徒弟が殴りつけた、ということもあったらしい。
「その人、まだ同じ仕事には就けているの?」
『ええ、気が動転して、と言い逃れた様子です』
職場の雰囲気が悪くなっていなければ良いと、他人事ながら心配するシアンだった。
『どうです、そろそろエディスへ行ってみては?』
「どうだろうねえ」
正直、あの騒乱を思い起こして二の足を踏んでいる。
野菜や果物はカラムから、乳製品はジョンから得ることができるので、それほど物資に困っている訳ではない。シアンはトリスの市へも足が遠のいていた。
『いつまでも避けていることはできませんよ』
それもそうだ、とシアンは腹を括る。
それにマウロを始め幻獣のしもべ団や聖教司たち、ニーナやクレールといったシアンの道行を手伝ってくれた者たちに改めて礼を言いたい。
ジャンやエクトルたちのことを思い出し、ふとそういえば、ディーノはトリスとエディスを行き来していたわりに、トリスで最近見かけないと気づいた。けれど、すぐに彼もまた忙しいのかもしれないと思いなおした。それに、シアン自身、トリスの街にさえ出かけず、フラッシュ宅の中に籠っていることの方が多かった。
「そうだね、リムも狩りに出かけているのだから、僕もそろそろ外へ出かけてみようかな」
『シアン、お出かけ?』
ティオと遊んでいたリムが反応する。ティオの前脚に自身の両前足をかけ、長い胴を丸く曲げ、後ろ脚立ちして小首を傾げている。
「うん、リムも一緒に行こう」
『ぼくも行く』
「うん、ティオも行こう」
お出かけお出かけ、と節をつけて繰り返しながら、後ろ脚で足踏みする。そんなリムを莞爾として眺めるティオ、その和やかな光景と、脳裏を流れる寄せては引く波のような旋律をシアンは堪能した。
転移陣の移動後の光の幕が消えつつある向こう側にいた聖教司がこちらを凝視しながら体を凝固させていた。
『おお、かっちんこっちんですな!』
混ぜ返す九尾の言葉には反応せず、シアンはその聖教司に近づいた。
「先日は道を通るのを助けていただいてありがとうございます。他のみなさんにもくれぐれもお礼をお伝えください」
「ははははっはい」
『ねえ、シアン、どうして笑われたの?』
リムが小首を傾げながら尋ねる。
会釈して立ち去りながら、笑われたのではない、と小声で伝える。
神殿内部を歩いている時から聖教司だけでなく、神殿にやって来た者たちの視線を感じる。自然と足が速くなる。
神殿を出ると陽光とともに、人の視線も全身に浴びることとなった。
中には連れの者がこちらを指さして教え、興奮気味で話し合っている二人組もいる。
『これは、誰か一人がこちらに近寄って来たら、全員で押し寄せられそうですね』
「と、とりあえず、ジャンさんの店に行ってみよう!」
ティオはいつもこんな視線に晒されて、よく平常心を保っていられるものである。現実世界でも似たような境遇にあったが、それも仕事の範疇だと思っていた。
油断した。こちらではシアンはティオという目立つ存在の添え物でしかなく、それで気楽に過ごせたのだ。
「ティオ、ジャンさんの店に行きたいんだけれど、なるべく人が少ない道を選んで歩いてくれる? それと、マウロさんたち自由な翼の人たちがいたら教えてくれる?」
これほど多くの者がいる中では気配察知も難しいかと思いきや、ティオはあっさり頷く。
『わかった』
『シアンちゃん、一旦、店に行ってからそこから使いを出したら良いですよ』
「うん、そうさせてもらおうかな」
行く先々で指を差され、じわじわと追い込まれている感じがする。自然と歩みも早くなり、顔が引きつるのを堪える。
『シアン、こっちはちょっと人が多いけど、トマトのおばちゃんがいるよ』
「ニーナさんが?」
細い路地が太い道に合流している。そのまま横切ったまっすぐ先に細い道が続いている。その手前でティオが立ち止まり、シアンを振り返った。
ニーナがいるなら挨拶しておきたいところだ。シアンはそっと顔を突き出して様子を確認する。
『トマト!』
リムがシアンの肩の上で後ろ脚を屈伸させはしゃぐ。いち早く好物が並ぶのを見つけた様子だ。
「じゃあ、行ってみようか」
『人が集まって来そうなら、すぐに逃げれば良いでしょうし』
九尾も賛同する。
ティオの先導ですぐにニーナは見つかった。
「ティオちゃん、リムちゃんも!」
通りで野菜の露店売りをしていたニーナは目を丸くし、笑顔で迎えてくれた。真っ先に、トマトを両手に掴んで、幻獣たちに差し出す。九尾も貰って食べた。
「先日はありがとうございました。力を貸していただいて助かりました」
「何を言っているんだい! こっちの方が命拾いさせてもらったんだよ。あの綺麗なドラゴンがリムちゃんだって言うじゃないか! 驚いたねえ。私もお礼を言わせておくれ。リムちゃん、街を救ってくれてありがとうね」
心からの純粋な礼に、シアンはシンプルで良いなと思った。色々な思惑や事情が絡み合うとなかなかこうもいかない。そういった思考は声音に現れる。
そして、ニーナは流石の顔の広さでリムが大きく変身したことを知っていた。実際に一連の出来事を見たかどうかは不明だが、目撃者は多いから、あの騒ぎぶりでは相当に広まっているのだろう。
幻獣たちの口元を汚すトマトの汁を拭いてやりながらリムに笑いかける。
「リム、頑張ったものね」
『うん! いつもおまけしてくれるお店が潰れたら大変だもの!』
意外にちゃっかりしていた。
不純な動機にシアンは笑い出す。怪訝な表情を浮かべるニーナについ答えてしまった。
「いつもおまけしてくれるお店がつぶれたら大変だから、頑張ったんだそうです」
ニーナの露店の前にいる翼の冒険者を、通りで店を出す者たち、買い物客、通行人は注視していた。だから、多くの者がシアンの言葉を聞いていた。
ドラゴンが街を襲うという話は物語に良く出てくるが、ドラゴンが街を守るというのは聞いたことがない。
眼前で優美なドラゴンが醜悪なドラゴンを追いやり、守った。それが、街に親しんでいた小さい幻獣の真の姿で、よく街の人がおまけをしてくれるから、その店が壊れたら大変だからだと言う。
自分たちの街を愛するドラゴン。
小さくて可愛くて、大きくて美しい、世に名高い幻獣。
生命体の頂点の存在、ドラゴンが自分たちの店を守るために!
わっと歓声が上がる。
「兄さん、こっちも持って行きな! なに、いつも大量に買ってくれているおまけだよ!」
「おう、こっちもおまけだ!」
まだ何も買っていないうちからおまけを貰う謂れはない。そういう主張は通らないことは明白だった。
「す、すみません、リムはちょっと寝込んでいて、ようやく起きだしたので、あまり長居できなくて」
トリスでは狩りに行けるくらいだが、方便で切り抜けることにする。
「あんたたち、騒ぎ過ぎだよ! ほら、リムちゃんは病み上がりなんだからね!」
病気だったわけではないが、ニーナの一喝に騒ぎが鎮静化する。
「大変だろうけれど、みんなの気持ちだよ、折角だから貰って行っておくれ」
ニーナに勧められ、シアンは串焼きやパン、果物など両手に抱えきれないほど受け取った。焼き栗や焼き芋の屋台で九尾が激しく尾を振るので、店主は直接九尾に渡していた。
なお、ちゃんとシアンたちにも分けてくれた。
「クレールさんにも挨拶をしておきたいのですが、いつものところにいますか?」
「ああ、今日も店を出しているよ。そうだ、またうちの村へおいでよ。ここじゃあ、ゆっくりできないだろうしね。子供たちが摘んできたハーブの砂糖漬けを作ったお菓子の作り方を教えてあげるよ」
ニーナには一度、彼女の村で料理を教わったことがある。
そして、以前、アレンがレシピは指南書や自然と覚える他、誰かに教わることでスキルを伸ばすと言っていた。日常から料理に携わる主婦などから土着の料理を習うと良いと言っていたのを思い出し、有難く教わることにした。
リムの回復を祝福してくれる人々に見送られ、クレールが果物を広げる露店へ向かう。
クレールに礼を言うと無言で鼻を鳴らし、黄色いリンゴを差し出してきた。幻獣たちがかじりついている間、シアンにあれもこれもと様々な果物を渡そうとする。お金は受け取ってもらえなかったので、代わりに肉を置いて来た。
早々にその場を立ち去り、今度こそジャンの店に向かおうと思ったら、ティオの足が止まった。
『シアン、しもべ団の一人がいるけれど』
先ほど通ってきた路地より更に狭い道が口を開けた先をティオが嘴で指し示す。
シアンは何の気なしに、目だけを覗き込ませる。
誰かが木戸から出て来たところで、後ろから女性が続いてくる。胸元がはだけ、長い髪が乱れている。その女性を振り向いて抱き寄せたのはアメデだった。こちらはきっちり服を着こんでおり、そのまま通りへ歩いて行けそうだ。
両者は唇を唇で挟み込むようにキスをした。
「艶やかで柔らかで弾力富んだ肌が良いんだってさ」
後ろから声を掛けられてシアンは飛び上がりそうになった。
後頭部で両手を組んだロイクがいた。
「あいつ、本当に女好きなんだよな。俺とここで待ち合わせしていたんだけれど、時間ぎりぎりまで楽しんでいた様子だね」
「それって、待ち合わせ場所が近いところに住む女性を、ってことなのかな?」
思わず漏れたシアンの言葉に、ロイクは目を見張り、噴き出した。
「その可能性はある! すぐに待ち合わせ場所に行けそうな女性の家に転がり込んだんだな!」
ひとしきり笑い転げたロイクは自分の方が年下だし、敬語は使ってくれるなと言うのに頷いた。人の心をほぐす笑みに、シアンも自然と笑顔になる。
シアンはロイクにマウロたちへの言付けを頼んだ。リムは元気にしていることと、しばらくはエディスに姿を現さないかもしれないこと、そして、街を襲ったドラゴンが闇の魔力で操られていたことを話した。
「そんなこと、俺に話しても良いのか?」
軍資金を託けたいくらいなのだが、流石にそれは辞めておく。
「精霊の助けになりたいと言う君が悪用する情報とは思えないから。自由な翼はどう?」
「ああ、居心地良いよ。路銀に困らないということが有難いね。それに技能集団だから、それぞれができることをやってうまく補い合えているんじゃないかな。足りない部分は金の力を頼るっていう力技を使うことに躊躇しない所も良いね」
命あっての物種ということを意外と知らない者は多い。見栄や意地では腹は膨れないし、事態は好転しないものだ。
分業社会の一端を担うことにより金銭を得て、他の分業の恩恵を受ける。その媒介というだけなのだが、恩恵に重きを置きすぎて、金銭自体に執着や不浄感が付きまとう。その点、マウロはうまく利用して場を切り抜けているのだろう。
「遅くなったけれど、騒ぎを抑えてくれてありがとう。助かったよ」
「シアン、あの時焦っていたものな。リムが元気になって良かったな」
ロイクの視線の先のリムはティオの背の上で高難度超高速もぐら叩きのもぐらのように敏捷に走り回ったり、後ろ脚立ちして周囲を見回ったりと楽し気だ。
「うん、本当に、リムが元気になってくれて良かったよ」
心からのロイクの言葉に、いつか自分も彼に精霊のことを話せるようになるだろうか、と思う。シアンがリムやティオを大切にするように、ロイクもまた精霊たちを大切にしているのなら、黙っていることが不実のようにも思える。
けれど、まだ彼の人となりを完全に把握している訳ではない。
自分のことでさえ、意外な一面に遭遇することがある。精霊の力はかくも巨大で稀なものであり、人を狂わせる。
礼儀正しくわきまえているロイクですら、変貌させてしまうかもしれないと思うと、二の足を踏むシアンだった。
ようやくやって来たアメデとロイクと別れ、ジャンの店へたどり着いた時には少し気疲れしていた。
熱烈歓迎で迎えてくれたジャンとルドルフォの視線は、リムに固定されている。シアンに気づいた客が握手を求めてくるのをやんわり阻止しながら、奥まった部屋に案内してくれる。客がはけたら改めて商品を見せてくれると言うジャンに、追い出しにかかるのではないかと内心冷や冷やしながら茶を喫する。
「ディーノさんに最近、会われていますか? トリスでは店を閉めていることが多いようなんですが」
「ディーノのやつですか? 言われてみれば、ここのところ顔を見ていませんね」
言付けがあれば承ると言うジャンに断る。しばらく街の様子などを聞き、その後、商品の陳列を眺めていくつか買い物をした。
並んで見送るジャン親子に会釈をした際、父親が息子に問うた。
「そう言えば、お前、最近、ディーノを見かけたか?」
「いいや。本国に用事があるって言っていたから、そっちじゃないか?」
「本国?」
つい、親子の会話に口を挟んでしまった。
「ええ、ここから南西に大分下った土地ですよ。転移陣でも使わなければ、随分日数が掛かりますがね。一度、シアンには足を運んでもらいたいですな。魚介類はもちろん、オレンジやレモン、アスパラガスにトマトなど果物や野菜も美味です」
『オレンジ! トマト!』
リムがシアンの肩でそわそわする。先ほどトマトもリンゴも食べたのに、その食欲旺盛さにシアンは安堵する。
「魔族の国は海が近いんですね」
「外海にも内海にも面しているのです」
『シアン、行きたい!』
「そうだね、いつか行こうね」
頬ずりするリムの頭を指で撫でると、ジャンとルドルフォがにこやかな顔でぜひ、歓待しますと口々に言う。
ジャンの店を辞去し、トリスへ向かう。エディス周辺で狩りをしたいところだが、終えた後にまた街を突っ切ることを考えると億劫だったのだ。




