41.それぞれの思い
弓を下すと、大きく一つ息をつく。
ドラゴンの屍は収縮し、二回りほど縮んでしまっていた。そして、残っていた肉も渇き、突風が吹いたかと思うと、粉々になって粒子が風にさらわれていく。
シアンは腕で目元を庇いながら、狭めた上下の瞼の間から、骨すらも細かく砕け散って飛び立つ様を懸命に眺めていた。
風が緩やかになると、そこにはもう何も残っていなかった。
「安らかに逝けたかな」
蕩けるような表情をしていたように思えたが、シアンの思い違いでなければ良い。
『ええ、そうですとも』
少なくとも、自分の炎で全てを焼き尽くされ苦痛の中で二度目の死を迎えるよりはよほどよかっただろうと九尾は思う。
シアンは生前の記憶から楽しいものを思い出させ、死者を送った。リムにそうしたのと同じく、屍と化していたドラゴンが憎悪に染まり切る前に、自我を取り戻させた。そして、自我が悪心に打ち勝てるように後押ししたのだ。
力や知恵で押し付けたり絡め手を用いるのではなく、当人の力を引き出すことで乗り越えさせた。
それを成し遂げた本人であるシアンはそれがどれほどのことか、自覚はしていないだろう。そんなシアンだからこそ、幻獣や精霊が惹かれるのかもしれない。
ふ、と空気が緩む気配がする。
すぐ傍で確かな質量を感じていたリムの姿が柔らかい虹色に輝く。輝きは徐々に小さくなり、抱えられるほどになった。
「リ、リム⁈」
光の最後の一かけらはすう、と小さな白いリムの体に吸い込まれていった。
シアンは慌てて地面に横たわるリムを抱き上げる。
うっすら目を開け、小さく鳴く。
「キュア……」
明らかに弱っている様子だ。
シアンは空を見上げて叫ぶ。
「稀輝、深遠!」
『大丈夫、急に大きくなって力を使いすぎただけだよ』
『増えた力が馴染むのに、また時折体が痛むかもしれないが、以前ほどじゃない』
穏やかに微笑む闇の精霊と、泰然とした風情の光の精霊に、シアンは目に力を入れ、涙をこらえる。
「リム、気分はどう?」
『シアン……お腹空いた』
涙が引っ込み、笑みと入れ替わる。
「お腹空いたの? 待って、今、何か出すから」
『シアンちゃん、ここはエディスの街壁から丸見えですよ。ほら、壁の上に人壁が!』
大勢に見られているのに、マジックバッグから大容量冷蔵庫を出すのはまずい、と九尾は言いたいのだろう。
「うん、でも、リムがお腹が空いたって言っているし」
『あと、眠い』
当の本人は疲れ切ったのか、眠気に誘われ、シアンの腕の中で寝息を立て始めた。くったりと力を抜いた細長い体と、つい今しがたまで美しくも巨大な存在感を醸していた者と同一の者だとは思えない。
「ティオ、門まで乗せてくれる? 早くトリスに戻ってリムを落ち着いて休ませたいんだ」
シアンはリムを抱えたまま苦心してバイオリンを仕舞う。
ティオの背に乗り、門近くで降りる。これほど、門の際までティオの背に乗ることもない。
優雅に飛翔し、舞い降りるグリフォンは、街壁の上に鈴なりになり、門前広場から外に溢れ出てきそうな街の人たちに歓呼して迎えられる。
ディーノはようやくカレンを捕まえることに成功していた。
「何か用?」
素っ気ないが、それでも無視する気はない様子に胸を撫でおろす。
「あんた、貴光教に入団するのだけは辞めておきな」
「だから、貴方には関係ないと言ったわ」
硬い声音に微かに甘苦いものを感じ取り、ここは押すべきだ、と言葉を連ねようとする。
その時、間近で膨大な魔力を感じた。
音がしそうな程、勢いよく空を振り仰ぐ。
「どうかした? ……っ⁈」
一拍遅れて、カレンも感じ取ったらしい。
足が震え立っていられない程の巨大で悪意に凝り固まった何かが見る見るうちに近づいてくるのを感じる。こんなものに対して太刀打ちを考えるなんて、狂気の沙汰だ。
「街の外へ逃げろ!」
「貴方はどうするの?」
カレンもまた青ざめつつ、ディーノに縋りつくような視線を向けてくる。
「知人のよろず屋と冒険者ギルドへ行く」
後者に、カレンは顔を顰める。
「翼の冒険者は貴方の力など必要としないのではないかしら」
「必要かどうかじゃない。俺も魔族の一員なんでね。花帯の君と黒白の獣の君のためなら命を懸けるさ」
ディーノは気負いなく言う。
何も表立って敵対する必要はない。シアンとリムの無事を確保するだけで良い。自分の命を懸けてもそのくらいしかできないだろう。
カレンは息を飲んだ。
正直、そんな大ごとだとは思わなかった。
けれど、直感で分かった。
ディーノは花帯の君という、恐らく闇の君と言っていた者に連なる者の方を取ったのだ。自分ではなく。
カレンは身を翻して駆けだした。
ディーノもまた走った。
カレンが一度足を止めて振り返ったのにも気づかなかった。
アリゼは息を飲んだ。
同志たちは各々探索能力や戦闘能力、薬草の知識など、様々な技術や知識を持っている。そんじょそこらの騎士や密偵、薬師など足元にも及ばない。
そうやって高い技術や力、知能で任務を全うしてきていた。
けれど、彼らは人間だった。
人間の範疇では及び得ない、圧倒的な力というものを目の当たりにした。
街に落ちる巨大な黒い影、異様な姿、鼓膜を突き破らん鳴き声、身震いするほどの冷気、そして、呼吸が困難になるほどの魔力を感じて、足がすくんで逃げることすらできなかった。
そのドラゴンを、もう一頭現れたドラゴンが街から遠ざけた。
二頭のドラゴンを翼の冒険者が追いかけ、美しいドラゴンを下し、死に掛けのドラゴンに葬送の曲を奏でた。どれも心弾むような楽しい曲で、恐怖と絶望に陰鬱に塗りつぶされていたエディスの街を明るく照らした。
街の人は翼の冒険者とグリフォン、そしてドラゴンが奏でる楽曲に、光を見たのだ。
自分は戦闘能力はないけれど、できることを役割分担していると言っていた。
十分に凄い。
確かに戦っていなかったけれど、彼はとても強い。
アリゼは身震いする思いで、翼の冒険者たちを眺めていた。
幻獣のしもべ団団員たちはドラゴンが街を襲うドラゴンを追いやり、それを翼の冒険者が追いかけたと聞いて、真っ先に街壁の上に陣取った。彼らも後を追わなかったのは、そうすれば邪魔になるからだ。もし、それでシアンたちの隙となってしまえば、死んでも死にきれない。
彼らは、白銀の体に虹色がたゆたう優美なドラゴンが、リムだとすぐに察した。シアンの演奏にあれほど楽しく歌う幻獣は世界広しといえ、リムしかいない。
「すげえ……」
「綺麗だなあ」
「あれが、リム様」
「俺たちの仕える方」
腹の底から灼熱がこみあげてくる。
つい先ほど、幻獣のしもべ団の合図だといってジェスチャーを見せてくれたばかりのドラゴンが、その威容を見せつけている。
離れていても感じる質量と魔力、そして、その体全体が楽器なのではないかという美しい鳴き声。
団員の多くが視界がぼやけ、自分が泣いていることに気づいて慌てて目元を拭っていた。
エディスの英雄、翼の冒険者がドラゴンから街を救った。
その一幕にエディスは大いに沸いた。
シアンはリムを抱えてトリスに戻ろうとするところを、街の人に囲まれて身動きができなくなっている。
ティオが苛立って低く喉を鳴らすが、人々の視線はシアンの腕の中のリムに注がれているため、気づかない。
ティオの怒りが爆発するのも間近であるということや、もみくちゃにされて、リムにまで手を伸ばしてこようとする人がいること、一歩も進めないということに、シアンは焦りを感じていた。シアン自身も潰されそうではあるが、こんな状況で転んでしまう者が出れば踏みつぶされ、大けがを負いかねない。
「はいはい、翼の冒険者たちは疲れているんでね、通してやってくれないか」
のんびりとした、だが、有無を言わさない声が聞こえ、のしかかられそうな圧迫感がゆるんだ。
見知った幻獣のしもべ団員たちが人ごみの整理を始め、人垣が別れ、道ができる。彼らの手際の良さは神殿の火災の際に目の当たりにしている。
「お疲れさん、シアン。後はいいから、ゆっくり休んで来な」
「マウロさん……ありがとうございます」
シアンは頭を下げて、ありがたくしもべ団員たちが作り上げてくれた道を通った。
すると、どこからともなく、拍手が起こる。街の人が笑顔で手を叩き、手を振り、中には両手を上げながら飛び跳ねる者までいた。
門前の広場を抜けても、大通りまでも人が押し寄せていた。
流石にしもべ団員たちも、圧倒的に数の対比差が激しく、そこまで道を作れてはいない。
「シアン、こっちだ!」
路地から声を掛けられ、そちらを見やると、ディーノが軽く手を上げている。
ティオが辛うじて通ることができる道だ。
迷いなく、そちらへ向かう。
「トリスへ行くんでしょう? 手伝いますよ」
ふ、とため息交じりに笑うと、ディーノが怪訝そうな顔つきになる。
「いえ、先ほどは口調が戻っていたのに、また敬語になったな、と思って」
途端に、ディーノはばつの悪い表情になる。
「だから、敬語は不要だと言っていますのに」
「いえいえ、これはけじめですから」
真面目な表情を取り繕い、踵を返して先導する。
「黒白の獣の君は眠っておられるのですか?」
背を向けたまま、問われ、是と返しながら、結局、リムにも魔族から二つ名がつけられたな、と埒もないことを考えていた。
「ああ、ここも人が多いな」
路地を抜けた先も人が大勢おり、口々にドラゴン襲撃の話に花を咲かせている。
「いえ、先ほどよりは随分少ないですよ。走って神殿に駆け込みます」
「では、私が先に行って……いえ、その必要はなさそうですよ」
「え?」
ほら、とディーノが体を壁に寄せて見せた。明るい日差しが通りを照らす。
そこには、先ほどの幻獣のしもべ団団員たちのように、聖教司たちが人通りの整理を行っていた。
「おお、シアン、こっちだ、そのまま来い」
いつの間に先回りしたのか、マウロが手を振っている。
広場で行った演奏会の時に知り合った、風と大地と水の聖教司たちがシアンの姿を見て、軽く会釈する。それに返しながら、シアンはマウロの方へ近づく。街の人たちから歓声が上がるが、聖教司たちが穏やかな表情で身を乗り出す者たちを押し止めてくれている。
『正しく花道! パレード! 流石はエディスの英雄!』
九尾が茶化す。シアンとしては赤面物である。
「みなさん、ありがとうございます」
シアンの礼に、両腕を広げて人垣を整理していた聖教司たちは、首を捻って笑顔を浮かべる。
「ほら、行くぞ」
今度はマウロの先導で、神殿へと向かう。
人垣整理にはジャンやルドルフォ、エクトルやその他知らない顔ぶれも加わっていた。褐色の肌に縮れた髪の毛を持つ者もいて、魔族も協力してくれているのだと知る。他に、ニーナやクレールの姿もある。
「ニーナさん、クレールさんも!」
「お疲れ様! 怪我していないかい?」
「また店においで! チビが好きなリンゴを用意しておくからね!」
「怪我はないです! ありがとうございます!」
歓声にかき消されぬよう、互いに声を張りながら口早に言う。
のんびり歩いているわけにはいかない。
好意で助けてくれているのだから、早めに通り過ぎなければ、彼らに負担がかかってしまう。
そうして、シアンは多くの者の尽力によって、無事に神殿にたどり着き、転移陣にてトリスへと戻ってくることができた。
スタンピードとは群衆の突発的な行動を差す。パニック状態で逃げ出したり押し寄せたりすることである。ある意味、人々が興奮状態で押し寄せたエディスの状態も同じだと言える。
シアンは力ない自分をこんなにも助けてくれる人がいることに感謝した。
それは、精霊たちの助力を得れば簡単にできる、それこそ、闇の精霊に隠ぺいして貰えば解決していたことだった。
けれど、大きな力を持っているということに思い至らないシアンは、多くの者たちの大小様々な力を借りて、乗り越えて行った。




