25.崖の上の神殿 ~むう……~
その神殿は峻厳な崖の上に鎮座していた。
崖の段差、踊り場のわずかな平面にしがみつくようにして建っている。片側は垂直の壁、反対側は断崖である。
上部中央に八角形の小さなドーム状の建造物を頂く建物だった。外階段が続く正面と左右の三面に、張り出した緩勾配三角屋根を円柱が並んで支えている。外階段があることによって、見事な装飾がなされた柱頭、柱身、柱礎を持つ入り口を見上げる形となる。
ティオが優美な翼を大きくたわめながらするりと階段下に着地すると、神殿から出て来た聖教司が腰を抜かしてその場にへたりこむ。
「驚かせてしまってすみません。僕は冒険者のシアンと言います。グリフォンは友人のティオ、小さい子はリム、中くらいの子は九尾です。みんな、無暗に危害を与える幻獣ではありません」
ティオをその場に残し、リムを肩に乗せてそれ以上のショックを与えないように、ゆっくり階段を上りながら自己紹介する。
「エディスの風の神殿から紹介状をいただきました。お渡ししても?」
呆然とシアンを見下し、二度三度首肯する。声はまだ出ない様子だ。
聖教司は浅黒い肌の三十代半ばの女性で、穏やかな顔つきをしている。
懐から取り出した書状を手渡すと、おずおずと受け取り、中を確認する。
読み進めていくうちに、息を飲み、音がしそうなほど勢いよくシアンを振り仰ぐ。まだ座り込んでおり、傍らに立つシアンの顔を見るには首を急角度で上げなければならない。
首の筋を違えたりしないか、とこっそり心配しながら、何とはなしに微笑んでみる。女性は目を見開いてあたふたと書面に視線を落とす。一度読み終わったようだが、再度最初から視線を動かす。紙を持つ手が細かく震えている。
「あの、大丈夫ですか?」
「は、はい! 大丈夫です! いえ、こんな格好で失礼しました! グリフォンを目にしようとは。い、いえ、神託の御方が、いえ、いえっ!」
エディスの聖教司たちに口外しないように願ったことを、書面にも記載してくれたのか、神託云々には触れないでおいてくれる様子だ。驚きすぎたのか、うっかり口をついて出て慌てて否定していたが。
「エディスの神殿より物資をお預かりしています」
「お心遣いありがとうございます。薬作成をされておられるとか。高山でしか採取できない植物などありますので、ぜひお持ちください。ああ、申し遅れました。私はスルヤと申します。どうぞ、グリフォン様もご一緒にお入りください。ただ、他の者たちは慣れておりませんゆえ、大仰な反応が返って来るやもしれませんが」
先ほどの自分の失態を思い出したのか、顔を赤らめる。
「お気遣いいただきありがとうございます」
シアンがティオを呼ぶと階段を上ってくることもなく、軽い跳躍で飛び上がってくる。大きく羽ばたき、着地の音はしないが風が巻き起こる。
「何と、風の祝福を受けているような……」
流石は風の神殿であるだけあって、風を起こす幻獣を憧憬の籠った眼差しで眺める。
すぐに我に返って神殿内部を案内してくれた。
まずは入ってすぐ、奥まで続く礼拝堂だ。
広々した空間が広がり、巨躯を誇るティオも悠々と歩くことができる。
壁には二つの円柱が隣り合って立っている。それが間を開けて等間隔で続く。
「あの隣り合った円柱を双柱と呼びます。古い言い伝えで、高位精霊は二つの個性や自我を持つというものがあり、それを表しています。真偽のほどは定かではありませんが」
シアンはそれが真実だと知っている。姿かたちさえ変わるのだ。大地の精霊のもう一つの姿もそのうち見ることができるかもしれない。
「複雑な彫りを傷つけることなく清掃するために、熟練の風の魔法の技が必要となります」
「そう言えば、エディスで貴光教神殿の火災の際、風の聖教司は見事な魔法で放水されていました」
片方の柱には浮き彫りが、もう片方の柱には沈め彫りが施されている。同じ図案でも、大分印象が変わる。
「日頃の修行の賜物ですね。下界の聖教司も大したものです」
感心して頷く。
「我らは何も修行以外を排除したいと思ってはおりません。いえ、そうしたいという者はそうすれば良い。ただ、神経を研ぎ澄ませ、集中するのに最適な場所を求めてたどり着いた先がここだっただけです。肉食も否定しません。美食に耽溺するならそうすれば良い。心行くまで修行を行うのであれば、誰に何を言われようとも捉われずにいれば良いのです」
スルヤが説明する。人里離れて修行しているにしては砕けた考え方をする。それが何物にも捉われない風属性の考え方なのだろう。
奥の小部屋に通され、茶を供された。
エディスの聖教司から預かった物品を渡すと恐縮しつつも喜ばれた。やはり、自給自足の生活の中、日用品などは限られたものしかないのだろう。
シアンもまた、高山で手に入る植物を分けてもらい、その効能を教わることができた。
太い中央の茎から幾筋か細い茎が同じ方向に伸び、そこに綿毛のように丸い集合体となった緑が、光を浴びて柔らかく黄緑色に輝いている。根本近くに濃い大きな葉がいくつも生えている。
「今ちょうど採取時期なのです。寒冷地では旬以外では採れないのですよ。この植物が優れているのは、瀉下作用、抗菌作用などの薬効がある他、パイなどのお菓子に用いるのに適しているのです」
『薬効成分はアントラキノイド、センサノイドなど。この薬草はたがいによく似た近似種すべて有用とみなされている。茎をジャムにしたり、パイの詰め物としたりする』
風の精霊が補足する。
スルヤはシアンが料理をすると知ると、嬉々としてこの薬草を用いたケーキのレシピを教えてくれ、いくらか分けてくれた。
その他、あれこれと教えてくれた中には、昼休憩の際にティオが実を実らせた植物もあった。
『あ、これさっきのだね』
興味津々でリムがのぞき込むのに、スルヤがその植物の実が甘いのだと教えてくれる。
「山上では貴重な甘みなのです。シアン様たちにもぜひ召し上がってほしかったですわ」
秋頃に果実は熟すそうだ。
つい先ほど食しましたとは言わないでおいた。
「通乳作用などもあり、女性に人気なのですわ」
シアンはスルヤの言葉に返事をし、幻獣たちのものまで淹れてくれた茶を各々に勧める。やはり、一般的な獣扱いされていない。
山羊の乳が入った独特な風味のある茶をリムが興味津々で飲む様子に、スルヤが目を細める。
「幻獣と言えば、こちらにも伝承があります」
天を見上げる聖獣と天を見おろす聖獣だと言う。
「見上げる聖獣は様々な姿で描かれ、魚と陸の生き物が合体していることが多いです。ゾウの鼻を持つものがよくが描かれていますわ。天を見上げる聖獣を天から見下す聖獣はライオンの頭に羊の角、腕が二本ありますが、体がないのです。空腹のあまり自分で食べてしまったと言われています。上位神がその姿を見て、「命が命を食べる、世の中の仕組みを見事に表している」と喜んだと言われています」
中々にシュールな幻獣だ。
『ふうん、そういう考え方だから、翼がある襲撃者がやって来ても罠を仕掛けたりしないのかな』
珍しく初対面の人の言葉に反応したティオの言葉にどういうことか、と視線で問う。
『人間の顔がついた鳥みたいなのの死骸を焼こうとしていたよ』
『きゅっ! 血の臭いが残っていたのは感知していましたが、そんなことまで分かるんですか?』
『ちらっと見えただけだよ。焼く準備をしていたから注意を払ったの』
つい先ほど、襲撃があったのかもしれない。それにしても、ティオも九尾も気づいていた様子だ。おそらくリムも感知していただろう。
『みんな、気遣って黙っていたんだろうけれど、シアンも知っておいた方が良いよ』
『ティオはどうして今まで黙っていたの?』
『ここの人たちがどう出るか分からなかったから、様子見をしていたんだよ』
リムの問いにティオが答える。万一、その襲撃者の残党だと思い違いをして攻撃してくれば、返り討ちをしそうな程、剣呑な光が一瞬瞳に宿る。
きゅいきゅいきゅっきゅきゅあきゅあ囀り始めた幻獣を凝視するシアンをいぶかしむ風ではなく、スルヤは新しい茶を淹れなおしてくれる。
「あの、もしかして、こちらは魔獣に襲われることもあるのでしょうか」
シアンの躊躇いがちの問いにスルヤは顔を曇らせる。
「お気づきでしたか。そうなのです。諸々の片付けをしており、聖教司たちが挨拶できず、申し訳ございません」
「いえ、こちらこそ、立て込んでいる際に訪ねて来てしまったようで」
だから、ティオを見てあれほど驚いたのか、と得心がいく。魔獣の襲来直後にグリフォンが飛来すれば腰も抜けようものだ。
「お怪我をされた方などはおられませんか?」
「はい、お陰様で皆無事です」
「こういった襲撃は多いのですか?」
シアンの問いに戸惑いつつも、スルヤが語ったところによると、女性の顔を持つ鳥の姿の魔獣で、鋭い爪で襲い掛かってくるのだそうだ。
『時折伝承で登場する魔獣だね。宴を催していると山から下りて来て料理を貪り、宴席を糞で汚す』
楽しんでいる所へやってきて邪魔をするなど、随分嫌な魔獣である。
思わず微かに顔を顰めてしまい、スルヤが少し笑う。
「仕方のないことなのです。我らが定期的に相手をしておれば、山間の村を襲うこともないでしょうし。どこかの山に巣があるのでしょうが、翼を持つ者の群れを駆逐するのはとても困難なことなのです」
それでティオが言う通り、罠を仕掛けることなどはしないのか、と合点がいく。彼らはいわば引きつけ役を担っているのだ。あまりに手ごわい相手だと魔獣に思わせれば、他所へ行ってしまう。
「でも、それではこちらの神殿の方々にいつかは犠牲が出るのでは?」
「これも修行の一環です。先ほどもお話した天から見下す幻獣のお話ですが、「命が命を食べる」、これすなわち世界の理です。ですが、食べられる方が力を持ち技能を磨き、防ぐこともまた道理。自分たちの命を守るために強くあらねばならぬのです」
けれど、スルヤたちは山間の村人を救う分も余分に強くあらねばならぬのだ。
おめおめと守ってもらっていることが、自分と重なる。
『橋を架けてやるから一番最初に渡る者を生贄に出せ、と村の人たちに言った異類と同じだね!』
この場合、生贄が強くて防波堤となり、村人は守られている。機転を利かせなければ、命が命を繋ぐために食べられることとなってしまう。
「他の神殿に助けを求められては?」
「いいえ、これはわたくしたちの務めなのです。この人里離れた究極の場所へ修行のために集った者たちです。このくらい、なんてことございませんのよ」
だから、シアンはそんなに気にすることはないと言う。
「どこから飛来するかご存知ですか?」
「大体の方角は。ですが、申し上げることはできません」
シアンは危険なことをせずに、そのままここを立ち去るように勧めてくる。
「山は日が落ちるのが早いので、今日はこちらにお泊りください。何もないところではありますが、屋根と壁だけはございます。風雨はしのげましてよ」
勧めに従って、一泊させてもらうことにした。
最初、案内してもらった部屋にて幻獣三頭も一緒に休んでよいと言ってくれた。おそらく、ティオが入れるように最も大きい客間を用意してくれたのだろう。
しかし、シアンがログアウトするためにはスペースが足りなかった。そこで、今は使っていない離れを貸してくれた。シアンは厚かましいと固辞したが、最終的に借り受けた。スルヤが重ねて勧めてくれたのと、一緒の部屋で眠れると、リムが飛び跳ねて喜んだからだ。ティオは背の上で小さい弟が高難度超高速もぐら叩きのもぐらとなったのを、長い首を捻って楽し気に眺めている。
夕食にはみなを紹介してくれると言うので、その際、楽器の演奏を申し出ると、スルヤは破顔した。今までで一番明るい笑顔だった。
「まあ、嬉しいですわ! 書面の中でもシアン様たちの演奏のことに触れておりましたの」
閉鎖的空間では娯楽は少ないのだろう。そして、幻獣たちが演奏するという世にも稀な光景に興味を持たずにはいられない。
スルヤが行ってしまうと、この崖の上の神殿の襲撃者のことについて話し合う。
「スルヤさんたちが命を懸けて、ただ村の人たちは守られている、それが自分と重なるんだ」
シアンは正直に打ち明ける。
『シアンはここに残って、ぼくたちが狩りに行こうか?』
『あれは美味しくなさそうだったから、殲滅の方かな?』
リムの言葉にティオが何てことないことのように言う。
「ねえ、ティオは難なく討伐ができそうかな?」
『うん。でも、シアンはちゃんとセーフティエリアにいてね』
『ここも襲われるということは、建物の深部にいないといけなさそうですね』
九尾の言葉にシアンは頷いた。
この崖の上の神殿は一部のみがセーフティエリア扱いとなる。だからこそ、魔獣も襲って来るし、戦闘にもなるのだろう。
シアンも最近知ったのだが、街中でも同じくで、一部のみがセーフティエリア扱いとなる。多くはそれは転移陣とその周辺である。他者への害意のある魔獣が簡単に転移できないのは良いことだとしても、街全てが安全地帯とは言えないのだ。だからこそ、高い頑丈な石壁で覆っているのだろうが、今回のように翼を持つ強者が襲ってくれば、狭いセーフティエリアに逃げ込めなかった人は簡単に屠られる。また、時にはセーフティエリアがない村もあると言う。彼らは先の尖った丸太の柵で魔獣を防ぐ。
「どこから来たかわかる? 巣を一掃しないといけないよね」
スルヤが言っていた通り、群れを成す怪鳥と戦うことは困難だろう。やはり、巣を潰すことが肝要だ。翼があるゆえにおいそれと場所は判明しないだろう。けれど、ティオはあっさり答える。
『探せばわかると思うよ』
「それなんだけれど、明日、どこか見晴らしの良い、できれば高い所で、宴会を開こうと思うんだ」
『宴会! 美味しいものと音楽!』
リムが嬉し気な声を上げるが、ティオはこの話の流れでなぜ宴会なのか、といぶかし気だ。
『なるほど。魔獣の習性を利用しておびき寄せるのですな』
流石に九尾は察しが良い。
「うん。英知がさっき言っていたでしょう。宴会の邪魔をするって。山の上からでも降りてくるって。じゃあ、山の上でやったら、引っかってやって来ないかな、と思って」
『でも、それじゃあ、シアンが危ないよ!』
試案を述べると、珍しくティオが声を荒げる。
『シアンの守護は保障する』
風の精霊が端的に言う。
『でも……』
世界最上位の存在の言葉に勢いは削がれるが、それでもまだ納得しかねる様子だ。
「心配してくれてありがとう。でも、僕もいつまで経っても安全な場所で守られていては駄目だしね。命が命を食べる。捕食者に抵抗するのも道理ってスルヤさんも言っていたでしょう?」
捕食者から身を守るための力を得たり技能を持つことが進化だ。シアンも環境に応じて強くならなければ、と思う。
そう思うに至った最大の理由は、ティオやリムたちに矢面に立たせておいて自分だけが安全な場所で守られているということ、それで良しとしてしまって良いものかどうか、という懸念だった。少なくとも自分の身を守れるようにならなければ、とも思うのだ。
ただ、ティオとリムにとっての危険とシアンにとっての危険は乖離しすぎていることにシアンは思い至っていなかった。ティオとリムにとって何てことのないことが、シアンにとっては非常に危険なのだということをティオは熟知していたので、そんな風に考える必要などないと思っていた。その辺りの考え方がすれ違っている。
「そんな顔をしないで。大丈夫だよ。人目がないから、精霊たちに大っぴらに守ってもらうし、スリングショットも試しておきたいしね」
精霊たちに守られつつ、スリングショットを用いた実践を経験する良い機会でもある。
不安げな表情をするティオの頬を両手で挟み込み、あやすように左右に捻り揺らす。
『むう……』
漏れた声音に仕方がないな、という諦めが混じる。
『シアン、ぼくも!』
「はは、リムも?」
小さな顔をそっと包み込み、揺らす。
そして、顔を見合わせてうふふ、と笑い合い、何とはなしに、仕上げに鼻を指でちょんと突く。リムがぺろりと舌で鼻を舐める。
その様子にティオが仕方がない、と鼻息を漏らす。人で言うところのため息のようなものだ。
『さすがのティオもシアンちゃんには勝てませんなあ』
有耶無耶にされた感のある成り行きに九尾が含み笑いを漏らす。いつもなら、茶化す九尾を眼光一つで咎めることができるティオはふい、と視線を逸らす。
『まあ、何ですな。シアンちゃんの言う通り、人目をはばかることなく、精霊たちに守って貰いつつ、シアンちゃんを守りながらの戦闘を行う良い経験ですよ』
安全を確保しつつシアンだけでなくティオたちも実践を積むことができるという九尾の言葉でその場は締め括られた。
その日の夕食後、演奏を行った。紹介された聖教司たちは見習から上位の者まで階位が様々であれば、年齢性別も様々だった。皆一様にそれぞれの思う通りに神を慕い、修行に明け暮れる日々を送ることができることに感謝している様子だった。
人が楽しんでいる所へ闖入し、掠め取り、汚していく魔獣に、彼らのささやかな生活が壊されないようにしたいと思った。




