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天地無窮を、君たちと  作者: 天城幸
第三章
109/630

17.染色工4/エディスの勤労少女2

 

 セレスタンは親方の怒声と悪臭、空腹の三重苦にみまわれて、ほとほと参っていた。

 魔獣の素材を入れたことによって、煮えたぎる鍋から出る湯気に当たると、ぼろぼろと涙が止まらなくなった。鍋から離れていても目が痒かったり痛みを感じたりする。鼻はもう慣れて、時折鼻血が出るくらいだ。

 新しい染色の試みはうまく実を結ばず、ますます親方の怒鳴り声を浴びることになり、委縮して失敗を誘発し、供される食事の量と質は落ちて力が出ない悪循環に陥っていた。

 少ない給金を握りしめ、今日も何か食べようと寝床を抜けだした。腹がすきすぎて眠ることができなかったのだ。今までは疲れ果てて、自身から漂う悪臭などものともせずに、意識を失うように寝ていた。

 真っ当な料理店では臭いの染みついたセレスタンが入店するのを嫌がられる。それに、料金が高い。それで、セレスタンは酒場に顔を出すようになった。お世辞にも美味いとは言えないが、ともかく腹は膨れる。


 以前行った酒場の扉を開いたが、生憎、満席だった。

 湯気と食べ物の臭いに抗議の声を上げる腹を宥めながら、セレスタンは足を延ばす。

 さしてこの地域に詳しいわけではない。

 いっそ、臭いの籠る工房の街区から離れれば気も晴れるのではないか、と足を進める。これは間違いだったと思う。腹が空いているのだから、目についた店に飛び込めばよかったのだ。そう後悔しつつ、あてもなくとぼとぼと歩き、しばらく経って見つけた、賑やかな声が漏れる宿屋を兼ねた酒場の扉を開けた。

 結構な人数が騒ぎながら飲み食いしている。

 細長い板を段差をつけて並べ、低い方に腰掛け、高い方に食事を置くの形式ではなく、正方形に近い四角のテーブルを幾つもの椅子で囲む、ちょっと上等な酒場だ。

 ここも満席かと肩を落とすセレスタンに声が掛かる。

「おい、あんた、こっちの席が空いているぜ!」

 上がった声にそちらを見やると、腕を上げて自分の存在を示してくる男がいた。

 狭い場所に詰め込まれるのではなく、知り合い同士で寛いで語り合っているところへ割り込むのは気が引けるが、そんな弱気に抗議するように腹が鳴る。給仕をする赤毛の女性が近くを通った際、運んだ料理の美味そうな匂いにセレスタンは足を踏み出した。

 呼ばれた先ではほとんど食事を終えているのか、飲み物が入った杯しか置かれていない。


「おう、こっちへ座りな。飯を食いに来たのか?」

 声を掛けた男が空いたイスを指し示す。おずおずと座るセレスタンにこの酒場の名物料理を教えてくれる。セレスタンが心動かされたのを表情から読み取り、給仕の女性を呼び止めて代わりに注文してくれる。

 可愛いが気の強そうな眦が吊り上がった給仕は、セレスタンの体から漂う悪臭に顔を顰めてすぐに立ち去った。

「あいつ、ちょっと自分が可愛いからって鼻持ちならないやつだろう? 悪いやつじゃないんだ。許してやってくれな」

「お知り合いなんですか?」

「まあな。俺の恋人の友達だ」

 恋人。そんなものはついぞいたことがなかったセレスタンはまじまじと男を眺めた。綺麗に髪を撫でつけ、服装もきちんとしている。何より、セレスタンのように健康を害するほどの悪臭を自ら漂わせてはいない。

「おっ、意外そうな顔だな。俺にだって恋人くらいいるさ!」

 何がおかしいのか、笑い声を上げてセレスタンの肩を叩く。

「いえ、貴方ならいても当然だな、と思って」

「まあな!」

 気さくな人だな、と閉塞感に首を真綿で締められる日々を送っていたセレスタンは救われる思いがした。ようやっと息をつける気がしたのだ。


 運ばれてきた食事をかきこむセレスタンを他所に、テーブルを囲んだ男たちは賭け事に興じていた。

 小さい六面体に穴を穿った石を投げてはそれを覗き込み、喜びの声を発したり落胆の息をついたりしている。

「あんたもやってみるか?」

 カルロスと名乗った男に誘われたが、少ない給金しかないセレスタンは首を横に振る。第一、この料理の支払いをしたら、ほとんど手元に残らない。

 幸い、カルロスはしつこく誘って来ることはなかった。

 馬鹿騒ぎしながら勝っただの負けただの言っているのを眺めているだけでも楽しかった。工房から離れた場所で無関係の人間たちに混じっていることが、これほど心休まるとは思っても見なかった。

 だから、またこの酒場で一緒に食事をしようと誘われたことが嬉しかった。言葉少ない自分の何が気に入ったのか分からないが、給金が出れば必ず来ようと思った。

 そのためには、どんなに悪臭に悩まされても、親方に怒鳴りつけ罵られても、今の仕事を続けるしかなかった。食べていくには、それしかなかったのだ。



 酒場は家族のいない者にとってなくてはならない場所だった。

 飲食をするという本来の目的の他、寂しさを紛らわせる場所だった。だから、賑やかに飲み食いを楽しむ。中には騒がしい居酒屋でひっそりと食事をする者もいる。自分は騒がないが、喧騒の傍にいたいという人間もいるのだ。

 そして、その寛ぎの場にはカードやダイスといったゲームに興じる者が現れ、当然のごとく賭けが行われるようになった。酒が入ると熱が加速する。

 時に揉め事や喧嘩が起きる。


 サンドラが働く宿屋に併設された酒場でも日常茶飯事だった。

 まだ掃除が行き届いてテーブルやイスといった設備が整っているだけあって客層が良いものの、それでもやはり揉め事は起きる。

 だからこそ、早いうちから条件の良い恋人を捕まえて、こんな場所から脱出したいと常々思っていた。

 有望株の冒険者フィルがエディスには百を超す酒場があると言っていた。自分が務める酒場であっても、エディスにどのくらいの軒数があるかなど考えたこともなかった。百以上の酒場があるにもかかわらず、そんな博識のフィルと出会えたことに、何か特別な絆を感じずにはいられない。


 そのフィルとは最近顔を合わせていない。忙しく動いているようだ。

 代わりに、友人の恋人カルロスがやって来た。

 カルロスは人当たりが良く、同じテーブルについた初対面の人間と程よく仲良くなり、ダイスに興じていた。しかし、負けが込んできたらしく、酒場の熱気に圧倒された新顔の客を、強引に自分のテーブルに呼んだ。負け続けている勝負の風向きを変えたいのだろう。あわよくば、ダイスに引きずり込んでカモにしようとでも思ったのかもしれない。


 カルロスに呼ばれて行くと、新顔の客からはえも言われない悪臭が漂ってきた。胸がむかつく匂いに、知らず鼻に皺が寄る。

 注文を受け付けてさっさと立ち去るサンドラの背中に、カルロスが調子よく自分が代わって謝ると言う声がぶつかる。

 有り金を巻き上げようとする相手だ。愛想よくもなるものだろう。

 本当にろくでもない男だ。友人も何故、こんなにろくでもない男にのめり込むのか。いや、友人も分かっているようだ。だからこそ、男から離れるためにも代わりを求めて結社に所属しているのだろう。

 病や怪我などで家族が路頭に迷うことがよくあるこの不安定な世の中で、どこかに所属していたいという気持ちは誰にでもある。

 サンドラだってそうだ。

 早くこんな不安定な環境から抜け出して、心から安心できる場所がほしい。そのためだったら多少の犠牲は厭わない。



 居酒屋では寛ぐ場所であると同時に、酒が入り、気持ちが多くなり、暴力が横行する場所でもあった。

 賭け事に熱中したり、感情が爆発することが多く、犯罪の温床になりやすい。

 その不安定さが心地よかった。

 宿主に容易に入り込めるからだ。感情も操りやすい。

 ただ、力がないのが不満だった。

 この新しい宿主を足掛かりにして、強大な力を手に入れて見せる。


 あの一見何てことのなさそうな異界人は、だが、閉じ込めても、人が目を背ける姿の非人型異類同士の共食いを見せても、大事にしている幻獣を捉えると言って怒らせても、心を大いに乱されたにもかかわらず、入り込むことができなかった。まるで何かしなやかで強いものに守られているかのように、どこからも綻びを見つけることができなかった。


 しかし、手立てはある。

 街の者から慕われている様子だが、全てがそうではない。かの者のことを嗅ぎまわっている輩どももいる。

 人は集まって生活をする。それぞれが異なる考えを持つのだから、一枚岩に見えても、必ずどこかしらに取っ掛かりがある。

 そうやって、かの者に入り込むために少しずつ外縁から中へ入り込んでいくのだ。気づいたら、自分の分身たちに操られた人間に取り囲まれている。


 想像するだけで興奮して長い長い体の隅々にまで力が及ぶ。勢い余って細い体があちこち跳ねる。

 力が入りすぎて宿主のこめかみがひくひくと波打つ。

 きっと、人間が笑い出したい衝動に駆られる時は、こんな感じなのだろう。

 早く早くあの強大な力を手に入れたいものだ。

 声を押し殺し、うっそりと笑った。


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