第二話
自らの命を大事にしない先生の腕を縛っていたスカーフを数分緩めて、また縛る。
ちゃんとした治療ができない為こうしているが、本来ならもっと相応しい治療があるだろうのが、歯痒い。
そんな事はお首にも出さず、私は先生と共に保健室へ向かう。
「保健室と体育館がそう離れていなかったのが、不幸中の幸いですかね。移動距離が短いという事は、蜘蛛に遭遇する頻度を少なくできる可能性がありますからね」
「そうだな。皆逃げる為に静かにしているのか、悲鳴が数度聞こえる程度だし、生き残っている生徒も多そうだ。早く警察が来てくれればもっと良いんだが」
少しばかりほっとした表情で、飯島先生が呟いた。
確かに絶命の瞬間に悲鳴をあげない人間は少なそうだし、生き残っている生徒も、多いのかも知れない。
「でも外にも蜘蛛がいたら、警察はそっちの対処に追われる事になるんじゃないでしょうか。もし大量に発生していたら、制圧しきれるかどうか。人間よりもよっぽど速いですからね。制圧が遅れた場合食料はどうなるでしょう。この蜘蛛が外にいなければ学校を出れば良いだけですけど、外にもいるなら今後の食料確保が難しくなるかも知れない」
「そうだな。あの蜘蛛が食えれば良いんだが……。毒はないだろうか」
「……先生、強いですね」
真面目な表情でそう言う飯島先生は、挑戦者であり強者だ。
漂流しても救助がくるまで耐え切ってみせそうなその精神力に、私は敬服した。
「食料がなくなれば皆同じ事を言い出すと思うがね。さて、行こうか」
「そんなものですかね……」
納得の行かないまま私は、歩き出した先生と離れないように、少しだけ歩みを早めた。
廊下をしばらく行けば、すぐ保健室に着いた。
扉の入口に手をかけて、中に蜘蛛がいた場合の事を考える。
「中に蜘蛛がいるかも知れないので、先生は少し離れてて下さい」
「だが……」
「そんな状態で手伝おうとしてもただの足でまといでしょう」
そう厳しく突き放すように指摘すれば、彼は悔しげに口を噤む。
駄目押しとばかりに保健室の入口から離れるように指させば、渋々といった様子で従った。
私はそれを確認し終えると、もし中にいても攻撃されにくいように、壁に張りつくようにしながら扉を開けた。
「ちっ、やっぱりいやがったか!」
すると、まるで待ち構えていたかのように、蜘蛛が飛び出してきた。
警戒していて良かったと安堵する。
そして私は、蜘蛛に対してモップを振り下ろすように突き刺す。
先程のようにはいかず、蜘蛛はさっと避けてしまう。
「くそ、蜘蛛なだけあって速い!」
気付かれない内に仕留めなければ、中々蜘蛛は仕留められないらしい。
私はまず脚を潰す事に決め、蜘蛛の進行方向に重なるように、モップの柄を思いきり振った。
「よし!」
一発目、上手く当たった。
しかしその程度では脚は潰せない。
痛みに動きが鈍ったのを、バランスを崩したのを好機と捉え、私は蜘蛛に接近し、脚をモップの柄で殴る。
またすぐに動き出すだろうが、今ならある程度叩けるだろうか。
「連撃チャレンジ!っと!」
モップを思いきり振り下ろし、もう一度。
「まず――一本目!」
二度目の振り下ろしは、蜘蛛の脚を一つ、使い物にならなくした。
蜘蛛は脚が一本なくなった事によって、少しふらつく。
八本もある内の一つがなくなっただけなので、すぐに体勢は整えられてしまったが、そのふらついた間に蜘蛛から攻撃されないように距離を取る。
蜘蛛も私にすぐ飛びかかろうとはせず、まるで警戒しているかのように、じわじわと距離を詰めていく。
――今だ。
私は強く地面を蹴った。
「しっ!」
驚いた蜘蛛が後ろに飛び退くだろうと予測して、私はもう一度地面を蹴り接近する。
案の定蜘蛛は飛び退いて、飛び退いた後の硬直の為に、私の振るうモップの餌食となった。
「もう一度っ!」
頭胸部を壊す為に、モップをモップの柄の先端を、思いきり突き刺した。
何度も抉って突き刺す。
それだけの作業。
確実に仕留める為に、念入りに、怒りを込めた。
「っし、汚ねえ」
蜘蛛を殺して、ほっと息を吐く。
二体目ではあるが、少し手慣れたのか、気付かれた割には簡単に倒せた。
「先生、終わりました」
「お疲れ、すまないな」
ずっと謝罪ばかりの彼に苦笑いを返し、私は、今度こそ保健室に入る。
飯島先生には外で待っておいてもらう事にした。
張り巡らされた糸を掻い潜って、包帯や消毒液など必要そうなものをこれまた保健室にあった鞄に詰めていく。
「――よし、これぐらいで良いかな」
必要なものは多分、全て詰め終えただろうと鞄を閉めた。
持ち手を肩にかけて鞄を背負い、私はまた蜘蛛の巣を潜り抜けて、廊下へと出る。
「何も来てませんね?」
「ああ、何も」
私は自分でもわかっている事を問いかけて、体育館に向かって歩き出す。
廊下はしんと静まり返っていて、人がいるのかどうかも怪しい。
辿り着いた体育館の扉の前には、たくさんの血が飛散していた。
恐らく蜘蛛から逃げようとして、扉の前で殺されたのだろう。
「あ、体育館の扉は閉まっているようですね」
「血が散乱しているが、中に人はいるか……?」
軽く扉を叩いて、呼びかける。
「あの、誰かいますか?」
何の返事も返ってはこなかった。
私はがっくりと肩を落としかけて、諦めるのはまだ早いと自身に言い聞かせる。
もう一度、今度は扉を強く叩いて大きな声で呼びかける。
「あのー!誰かいますか!!」
「は!?」
大きく叫ぶようにして呼びかけた私に、飯島先生は慌てる。
「うるせえ!化物が来たらどうする!」
がらがらと扉を開けた男に、私はにやりと口角を上げる。
やはり中に人がいた。
制服のワッペンの色から、彼は私と同じ学年、二年生である事がわかる。
ちなみにワッペンの色は何期生であるかによって変わる。
今年は一年生が白で、二年生が赤、三年生が黄色。
来年新しい生徒が入るとすれば、ワッペンの色は黄色になる。
「中に入れてくれそうになかったんでな。怪我人もいるし、治療がしたい。養護教諭はいるか?」
「治療も何も、道具がなけりゃ――」
私は背負っていた鞄の中の包帯や消毒液などを見せた。
男は驚愕に目を向いた。
「あそこには、化物がいただろ!?」
「殺した」
「は!?」
私は蜘蛛の返り血がたくさん付着したモップを見せて、そう言った。
男はもう、何も言えないようだった。
しかし、私ですら殺せたのに、何故こんな反応をするのだろうか。
蜘蛛にしては随分な巨体と、奇襲による死亡者数に怯えて戦おうという発想がなかったのかも知れないが、何もここまで驚く事ではない筈なのだ。
「こんなのが殺せるんなら俺だって殺せるんじゃ……」
「で、養護教諭はいるか?」
私は男の肩越しに、体育館の中を覗き込みながら訊ねた。
男はその視線を不愉快そうに遮って、小さく舌打ちする。
「おい、手伝ってやってくれ」
体育館の中にいる人間に向かって、彼はそう言った。
優しげな風貌の、背の高く年若い男が出てきて、飯島先生の腕に巻いたスカーフを見た。
「止血はちゃんとできているよ。養護教諭には治療行為が認められていないし、そもそも治療をする技術がないからできないんだ。ごめんね」
「……ああ、技術がないはともかく、認められていないのは失念していました。こちらこそすみません。ところで、一つ」
私は同級生である男をじっと見つめる。
男が若干気圧されるが、威圧しようともしていないのだから、気圧される理由はないだろうに。
「どうして閉鎖したんだ?」
「そりゃあ、蜘蛛が入るからだよ。逃げてきた奴が追いかけられてたら、まずいだろ」
そう問えば、気まずそうに彼は答えた。
私は微笑んで彼の肩を叩く。
「その判断は素晴らしいね。君が中にいる人達の命を守ったんだな。――おつかれ、よくやるよ」
労いの言葉は、彼にとって目からウロコのものだったようだ。
目を見開いて、何か言いかけて、照れたように小さく文句を言った。
「う、うっせぇ」
「ところで中に入った方がいいと思うんだけど、どうかな。飯島先生も怪我してるんだし」
話の流れを遮って、養護教諭がそう言った。
確かにいつ蜘蛛が現れるかもわからないのだし、そうした方が良いだろう。
むしろ話を遮ってくれて助かったな。
私達はその言葉に甘えて、体育館の中に足を踏み入れた。