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異形忌譚  作者: Eine
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第一話

蜘蛛の大きさを、主人公よりひと回り小さいくらいから、三歳児くらいの高さに変更。


 いつも通り、ゆるりと流れる時間はとても退屈で、黒板に書かれた白いアルファベットがぼやけて見える。

眠気はピークに達していて、足元の見えない中、落ちないように探りながら歩いているような、そんな感覚。

眠りに落ちないように気をつけながら、私は黒板を睨む。

英語は苦手ではないが、どうにも眠くなるのが難点だ。


「櫟、寝たら放課後呼び出される事になるぞ。言っとくけど、あいつうるさいからな?」

「わかってるよ藍。あと数分くらい耐えてみせるさ」


隣の席の矢髄藍が声をかけてきた。

彼は私の幼馴染でもある。

そんな彼があいつ呼ばわりした英語の教師である飯島響とは、授業中に居眠りした不真面目な生徒を放課後呼び出す事で有名なのだ。

彼は美形なので、わざわざ不真面目な態度を取る女子も存在していたような気がするが、私はそういうタイプではないのだ。

そんなどうでもいい事を考えながら、残り数分の英語の授業時間を、ゆるりと過ごす平日の午後。

退屈で、平凡で、当たり前の日。


『――赤坂様がお越しになりました。対応可能な教師は、至急第二玄関までお迎えに行って下さい』


それは、脆くも崩れさる。

突然の放送、それは校内に不審者が現れた際の合図だ。

不審者の話題に盛り上がる生徒達と、これで今日は授業がないなと伸びをする私。

だけどそれはまだ、日常の一コマ。

刺激というものが欠けていた。

きっとすぐ刺激が補充されるだろうという予想は、果たして的中するだろうか。


「少し待ってなさい。他の先生と連絡を取ってきます」


私はいささか緊張感が足りないままに欠伸をし、そのまま机に突っ伏してぐだぐだとくつろぐ。

その様子を見た藍が溜息を吐いた。


「お前さ」


呆れたような藍の目を見つめて、私はその先を促す。


「昔から思ってたんだけど、緊張感が足りないっつーか、こういう時でも平然としてるよな」

「慌てたって意味はない、こういう時にこそ平然と。そうしておかないと不測の事態に慌てて、混乱する羽目になる。それに、緊張するだけ無駄だよ」


そういうもんかね、と疑わしげな藍に、そういうもんだよと軽い口調で返す。

不測の事態というものは、刺激というものは、常に想像の斜め上を行くものなのだから。

何が起こっても軽くいなす精神があれば、狼狽える事なんてそれ程多くはないだろう?

自問自答する、答えは肯定だ。正解かどうかは人による。

――ばたばたと足音がして、がらりと扉が開いた。


「逃げろっ!」


ああ、予想は的中した。

慌てて駆け込んできた飯島先生は、左腕を庇うようにしながらそう叫んだ。

飯島先生の左腕は、肘から下がなく、まともな判断を下す余裕はなかったのだろうけど、そう叫んでは皆混乱してしまう。


「ひ……っ」


案の定だった。

誰かが喉の奥が引き攣ったような、そんな悲鳴をあげた。

恐怖は連鎖し、状況を理解できていなかった生徒達も、段々気付き始める。

水を打ったような静けさ。

恐怖が一時的に、声を奪ったのだ。


「うわぁぁぁぁぁっ!」


そしてその静けさは、声を取り戻した誰かが悲鳴を上げた事によって破られた。

恐怖に怯え、絶叫する。

そしてやはり、恐怖は連鎖し、反響し、倍増するものだった。

混乱した生徒達は、蜘蛛の子を散らすように一斉に、飯島先生の来た扉とは逆の扉から逃げていく。

私はその流れに逆らい、飯島先生の元へ向かう。


「腕、見せて下さい」

「え?」


そう言って私は制服のスカーフを外して、先生の腕を止血する。


「三十分から六十分までの間に一度緩めます。今は……一時ジャスト。一人でやるのは無理でしょうから、人と遭遇するまでは私がやります。では避難しましょう」

「あ、ああ……」


混乱した様子の飯島先生と共に、教室から出る。

モップを持っていくのも忘れない。

先生が報せに来てから少し時間が経っているので、不審者と遭遇する可能性は高いし、牽制用に持っておく方が安全だろう。

本当なら刺股の方がいいのだが、この教室内にそんなものはない。

廊下に出てみるが、誰もいない。

まだここに不審者は現れていないらしい。

不審者が来るよりも先に、早く避難しなければ。


「そういえば不審者はどんな見た目をしていましたか?」

「……蜘蛛」


遭遇した時に、すぐわかる方が良いと思い尋ねると、呟くように飯島先生が答えた。

彼が冗談を言うとは思えないので、見間違いか何かだろうか。

それとも本当に蜘蛛のような姿だったのだろうか。


「着ぐるみを着てたと?」

「いや、その……自分でも信じられないんだが、三歳児くらいの高さの蜘蛛が……」


どんな怪物だよ。

思わずそう言いかけたが、私はぐっと堪えて考える。

まず彼が冗談だとか嘘だとかを言うとは本当に思えない。

真面目で堅物だと知れ渡っている彼は、教師ですら笑った所を見た事がないという程堅物なのだ。

新種の生物か、精巧に作られた蜘蛛のロボットか、それともただの見間違いか。

私にはわからないが、とにかく逃げた方が良いのには変わらないので、時々周囲を見渡しながら、私と飯島先生は避難する。


「すまない、私の所為で君の避難が遅れてしまっている」


落ち着いてきたのだろう飯島先生が、自らを責めるようにそう言った。

真面目で堅物な彼は、言い換えれば手本のような教師だ。

きっと自身の中の良い教師のハードルも高いだろうし、こんな状況で自分を責めるのは、むしろ自然な流れなのかも知れなかった。

多分、彼はここで私が置いていこうとしても私を恨みはしないだろうし、むしろ囮を買って出るだろう。


「……飯島先生は私達に報せてくれた。逃げろ、と。つまり私達を助けようとした貴方を、私は見捨てられなかった。善因善果です」


その言葉を聞いた飯島先生は、少しほっとしたようにも、むしろ更に自分を責め立てているようにも見えた。

そして私達は、階段を降りながら、どこに向かうかを考える。


「多分、皆体育館に向かってますよね」

「そうかもな。校庭に誰もいない。校庭に出ようとして殺されたのかも知れないが、体育館に避難した可能性もある」

「でも、まず保健室ですね。先生の手当もしないといけないし、他に怪我人がいた際、応急処置ができた方が良いですし」


階段を降りて一階へ足を踏み入れた私達は、恐ろしい蜘蛛の姿を――そしてそれが人の頭部を食べているのを、目にした。


「――っ!」


蜘蛛は幸いまだこちらに気付いていないが、私が逃げたところで飯島先生が飛び出して餌になっては、私がわざわざ止血した意味がない。

飛び出そうとした彼の肩を掴む。


「絶対に先生は出ないで下さいね」

「だが……っ」


私は一旦モップを手放し、先生の肩に手を置いて、鳩尾を膝で蹴った。


「ぐ……」

「先生が悶絶しているうちに終わらせますから」


痛みに崩れ落ちた先生にそう言って、私は一度手放したモップを拾い、駆ける。


「ふっ!」


そして、思いきり。

そのずんぐり太った腹部に向かって、モップの柄を突き刺した。

蜘蛛であれば、その体は柔らかい筈。

ロボットだとかなら硬いだろうが、それはそれだ。


「汚ねえな……っ!」


ああ、これ、蜘蛛だったらしい。

振り下ろしたモップの柄が、蜘蛛の体に突き刺さった。

返り血のようなものが飛び散って、私の手は勿論、顔や制服にまで飛散した。

しかし私には、そんな事を気にしている暇がない。

モップの柄を、更に奥へと捻り入れて、そしてその中身を掻き回す。

抉るように、突き刺すように、刻み込むように。

ない筈の恨みを込めて、ある筈のない怒りを込めて、致命傷を与えていく。

暴れる脚に、体に抵抗するように、私はその腹部へと足をかけて踏みつける。

反抗しようと暴れ尽くす蜘蛛に負けじと、私も必死になって、モップを握る手に力を込めた。


「――よし、死んだ」


モップの柄が頭胸部から突き抜けて出てきた事で、やっと私はその死を確認しようとする事ができた。

いつ動きを止めたのかはわからない。

けれど、蜘蛛が死んだのは私がその死に気付くよりももっと前だったのは確かだ。


「こら!死ぬつもりか!」


飛び出した事を叱ろうとする飯島先生に、私は溜息を吐いた。


「先生こそ、左腕の上手く使えない状態で飛び出そうとしていましたよね。死んで欲しくないなら、死に急がないで下さい」


助けようとした命が失われそうな時に、知らぬ存ぜぬで見捨てられる程、私は冷血ではない。

というかむしろ人を助ける分、誰よりも心が暖かいのではないだろうか。


「……すまない」


謝ってばかりの先生の肩を軽く叩く。

気にするな、と目で伝えた。

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