3冊目 望まぬ再会
七限目の古典は地獄だ。
ただでさえ一日の疲労がピークに達しているのに、その上ただ座って先生の話を聞くだけの授業だなんてあんまりだ。
確かに体育よりはマシかもしれないけど、逆に何にもしないとなると眠気が一気に襲いかかってくる。五十分間席に拘束されたまま睡魔と格闘するのだから、古典の内容なんてあんまり頭に入らない。
「こ、この……よ、吉田兼好、後の〇✕△□※~~」
えっ? 吉田兼好がなんだって?
ヨボヨボのおじいちゃん先生が頑張って『徒然草』を説いているんだけど、途中から何を言っているのかさっぱりわからからない。
消え入るような先生の声に混じって、板書を写す音が聞こえてくる。
さすがは成風高校、県内屈指の進学校と言われるだけのことはある。みんな真面目だ。まぁ、中にはどさくさに紛れてゲームをしていたり、堂々と睡眠学習をしている人もいるけど。
『吉田兼好と徒然草』
黒板の右端に少し大きめの字で綴ってある今日の授業内容。
その文字をぼんやり眺めていると、ふと委員長が言っていた言葉が頭に浮かぶ。
"この学校の図書館はカウンセリング室でもあるのよ"
委員長はどうして分かったんだろうか? 僕の過去のことなんて知るハズが無いのに――かといって、デタラメを言っているようにも聞こえなかったし。
「こ、ここの、設問を……天久っ!」
「は、はい!」
先生に指名されて現実に引き戻される。
まぁ、委員長の言葉の真意は気になるけど、そろそろ授業に集中しないと。
* * * *
終礼の後、気がつけば下足室に流れる人波に逆らいながら図書館の方へと足を向けていた。
やっぱり放課後だ。すれ違う人の多くは部活動の格好をしている。サッカー部に吹奏楽部、そして弓道部――みんな元気なことだ。
今度は野球部か……ある意味一番遭遇したくない部活だな。
ダメだダメだ。どうも野球部のあの恰好を見ると、忘れていたいあのことを思い出してしまう。
そんな僕の思考を無視するかのようにその野球部員は話しかけてきた。
「よぉ、天久! 久しぶりだなぁ。小学校以来か?」
誰だっけコイツ……こんなに親しげに話しかけてこられるほどの交友関係を持った覚えはないんだけど。
「また同じ学校だなんて運命ってやつ?」
ずいぶんと馴れ馴れしい奴だ。接し方がわからない。それにしても小学校以来って……。
「そうひくな、冗談だよジョーダン。しかし懐かしいぜ! 練習の後はいつも一緒に帰ってたよな」
え!? ま、まさか――。
彼の言葉にドキッとした。
「い、伊沢……なのか?」
恐る恐る思い当たる名を口にするが、内心ではそんなハズがないと思っていた……というより、違っていてほしいというのが本音なんだけど。
だけど所詮は僕の思惑。こういう時に限って思惑どおりに行かないと思い知らされたばかりだ。
それでも、1%でも望みがあるとするなら……。
「おう! 元気にやっているみたいだな」
一瞬で望みが絶たれた。
満面の笑みで答える彼に僕は愕然とする。そして本能的に "この場から早く立ち去らなければならない" という焦燥感に駆られた。
「あ、今はちょっと急ぎの用があるから……また今度ね」
適当な理由を並べあげて、彼の返事も待たずその場を去る。
アイツは――伊沢幸正だけは、野球という括りの中でも一番思い出したくなかった!
なのに、なのに何でこの年になって、このタイミングで現れるんだ!!!!
神様って人がいるなら面と向かって言ってやりたい。
あなたのイタズラには心底うんざりさせられる!
荒ぶる感情を抑えてようやく我に返ったのは図書館の目の前まで来てのことだった。
急いで走ってきたからか、軽いフラッシュバックを起こしたからか、それともその両方か。理由は何であれ息があがって過呼吸寸前だ。壁に手をついてゼェゼェいっている呼吸を必死に整える。
息が整うまで一、二分くらいかかっただろうか。だいぶ落ち着いてきたところで最後に大きく深呼吸をしてから、少し塗装の剥げた古い扉をゆっくりと開く。
「あら、いらっしゃい!」
扉の奥から聞こえてきた委員長の声にどことなくホッとする僕。
しかし委員長はというと、そんな僕の顔を見るなり心配そうな表情になる。
「天久くん、何かあったの? 顔色がよくないわよ」
またもや見抜かれてしまった。
あれ? こういう時はなんて答えればいいんだっけ……返す言葉が見当たらない。
「……」
「話したくなかったら無理に話さなくていいのよ」
委員長の言葉が優しすぎる。
僕はなおさら返事に困り、言葉も返せないままその場に立ち尽くした。
「とりあえず座ろっか」
委員長はカウンター席の椅子を持ってきて座るように促してくれるのだけど、どうしよう……何か話しかけなきゃ。これじゃまた昨日と同じだ、と僕は必死に言葉を探しす。
「あ、あの、委員長!」
やっとの思いで出てきた言葉がそれだった。けれど何を話そう?
そうやってまた困っていると、委員長がほほ笑んだ。
「委員長って言われるとちょっと堅苦しい感じがするから、名前で呼んでくれたら嬉しいかな。早苗ちゃんでよろしく~」
いや、さすがに早苗ちゃんは恐れ多いです。
「えっと……それじゃあ、早苗先輩」
「つれないわね~」
僕が先輩付けで呼ぶと、委員長もとい早苗先輩は苦笑いを浮かべながら言う。
そんな先輩がどこか面白おかしくって、僕自身少し頬が緩んだ気がした。
「やっと笑ったね」
早苗先輩がニコッとして見せる。
言われてみれば確かにそうかもしれない。このところ、特に図書委員にされてからは全くと言っていいほど笑っていない。
「そうだ、天久くん。今日は急ぎの用事とかあるのかな?」
パチンと軽く手を叩きながら早苗先輩が訊いてきた。
「いえ、特にないですけど……」
僕は不思議そうに返した。
何だろう、また手伝うことでもあるのだろうか? 別に困るほど仕事があるようにも見えないのだけど。
「だったら、空見に行こ!」
早苗先輩が口にした瞬間思った……どこへ?
勢いよくカウンターから飛び出す先輩をただ茫然と眺める僕。
「ほらほら、行くよ~」
そう言いながら早苗先輩は僕の右手をパシッと掴んではグイグイと引っ張ってくる。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
僕は叫んだ。けれども先輩は止まらない。手を引っ張られたまま図書館を出て、日の当たる廊下を駆け抜け、人通りが疎らな階段を一気に下りる。そして――先輩がようやく立ち止まったのは下足室の前。
ひょっとして先輩は外にでも行くつもりだろうか?
「校外に行くんだけどいいかな? そんなに遠くないんだけど」
早苗先輩は振り返って僕に尋ねる。
「まぁ、鞄持ってここまで来ちゃいましたし……」
僕は鞄を軽く持ち上げて答える。
別に早苗先輩とどこかに行くのが嫌な訳じゃないし、急いで帰る必要がある訳でもない。さすがに二時間も三時間もかかるような場所になると考え物だけど。
そう思いながら自分の靴箱を開いてまっさらな運動靴を引っ張り出す。そして上履きを代わりにその中に入れ、靴箱を閉めた。
下足室を出ると、先輩の方が一足先に待っていた。
「それじゃあ、行きましょうか」
と、一言だけ言って再び僕に背中を向けた。
校門をでて、いつもなら左手に曲がって市街地の方へと下りていくのだけど、今日は右手に曲がって丘のてっぺんを目指す。
今度は手を繋がずにゆっくりと道を歩いていく。
学校がある美杉台は飯能市の市街地の南側の丘に形成された新興住宅地。したがって、丘の上に行けば行くほど新築住宅の工事をしている。
校舎からはよく見えていたけど、実際こうやって歩くのは始めだ。
「着いたわ!」
早苗先輩が足を止めて言う。
目の前に広がる芝生の丘とその頂上まで続く階段。さらにはなだらかなスロープ状の道まで整備されていて、なかなか居心地がよさそうな場所だと思った。こちらの方面はあんまりどころか全く来たことが無かったから、学校から十分の距離のところにこんな場所があるなんて知らなかった。
「この上がね、すっごく景色がいいの」
「確かによさそうですね」
階段を上りながら話す早苗先輩は早くもお腹いっぱいって感じだ。でも、先輩の言うことは何となくわかる気がする。これだけ天気が良くて穏やかな春の午後に見下ろす街の景色はさぞや気分爽快なんだろう。
頂上に着くとそこは楕円形の広場になっていて、円の淵に沿ってベンチが並べてある。
「ここに座りましょ」
早苗先輩はそう言うと、上ってきた階段にほど近いベンチに座った。僕も無言で頷きながら左隣に腰を下ろす。
「本当に眺めがいいですね」
小学生レベルの感想かもしれないけど、素直にそう思った。
丘の頂上からは飯能の市街地が一望できる。
西の名栗から流れる入間川が市街地に沿って湾曲を描きながらさらに東へと落ちていく。
雲一つない空。太陽が少しずつ西に傾き、空が青からオレンジへと艶やかなグラデーション模様に染っている。
穏やかに吹きつける風に乗って街の方から人々の営みが聞こえてくる心地いい放課後。
「あ、あの早苗先輩」
「どうしたの天久くん?」
僕は思わず先輩の名前を呼んだ。ふり向く先輩に座ったまま頭を軽く下げてお礼を言う。
「今日はありがとうございます。こんないい景色を見せてもらって」
どうして昨日あんなことを言ったのか、どうして今日ここに連れてきてくれたのか、他に言うべきことはたくさんあるだろう。でも、とりあえず今はこれだけを言いたい。
「どういたしまして」
先輩は驚いた顔を一瞬見せたけど、すぐに笑顔になって返してくれた。
春の夕暮れ……枕草子に春の夕暮は記されてないけど、こうやって見る春の夕暮れもとてもいいものだと思った。こんなキレイな景色を見ただけで思い出しかけていたトラウマも忘れていられそうだから。