プロローグ
信じる――英語でBelieve、中国語で相信。
僕はこの言葉が大っ嫌いだ。
信じたところで裏切られるし、信じられたところでどうせ裏切る。所詮人間はそんな生き物だ。
僕が小学五年生の春、母と兄が死んだ。それも僕の目の前で。
僕の家は父と母、それから兄と妹の五人家族だった。
父親はサラリーマンで母親はパート勤めと共働き家庭で決して裕福とは言えなかったけれど。それでも家族仲は良好で何一つ不自由なく育ってこられたと思う。
父の勧めもあって二歳年上の兄と僕は野球を、一歳年下の妹は剣道をしていた。ちゃんとした目標を持ってまっすぐ前を向いて生きる。こんな生活をさせてもらっているだけで僕は十二分に幸せだった。
しかし、母にとってその当たり前のような幸せは負担でしかなかったらしい。
ある日曜日の昼下がりのこと。
その日は朝から天気が悪く、ずっと雨が降り続いていた。
お昼ご飯を食べて、リビングで僕と兄はシャドーピッチングをしていると、母がおもむろに包丁を持って現れたのだ。そして無間地獄をさ迷うかのような血走った目つきで僕たちを睨みつけると、猛ダッシュで兄の腹部を刺した。
その間に要したのはほんの一、二秒程度で、あまりに唐突の出来事に兄はどうすることもできなかった。
兄の腹部から泉のように溢れ出す鮮血に包丁から滴り落ちる返り血。茶色いフローリングに真っ赤な液体が円形に広がっていく。
母は仰向けに倒れた兄を見下ろしながら、ただひたすら、
――ゴメンネ、本当にゴメンネ――
と、まるで壊れたからくり人形のように繰り返すだけだった。
そして今度は僕の方を向き、獲物を狩る獣のごとく猛スピードで突っ込んでくる。
あと数秒もたたない間に僕は殺されてしまう……僕は死を覚悟した。
包丁が僕の腹まであと数センチまで迫ったその刹那、急に母は血反吐を吐いて倒れる。
僕は一瞬何が起こったのか分からなかった。
恐る恐る顔を目線を横に向けると、兄が灰皿で母の後頭部を殴った。
兄は僕の方を見て少しニヤッと笑うと、血の海と化した床へと崩れ落ちる。僕だけは守ろうと兄は最期の力を振り絞ってテーブルの上の灰皿を手に取り、躊躇せず母を殴り倒したのだ。
血の海に横たわる二人を僕は茫然と眺めていた。
それから後、何がどうなったかは覚えていない。
ただ、後で聞いた話だと、母は裕福でない生活環境に対して相当な責任を感じていたらしい。
これは学生時代に劣等生といじめられていたことに関係するそうだが、そんなこともあってもともと不安定だった母の精神状態は父親の出張と妹の合宿を機に一気に崩壊し、この狂気に及んだんだとか。
要するに、あの日家にいてしまった僕と兄が貧乏くじを引く羽目になったのだ。
更に悪夢は続き、亡き兄の意志を継いでチームのエースとなった僕はチームを関東大会の決勝まで導くも、最後は自分のミスで負けてしまった。
信じてきた母に裏切られ、信じてくれたチームメイトを裏切った僕は中学生になる頃にはすっかり変わってしまっていた。
信頼なんて大っ嫌いだ!!!!
信頼という名の重圧が怖かった僕は人と関わることを避け、空気のような人畜無害な存在になるよう徹した。何があっても決して自から前に出ていくことはせず、友達というのもある一定のラインで止め、それ以上は絶対に近づかない。
それが僕のできる正しい選択だ。
他人に対して蟠りを抱いたまま無気力に過ごした三年間はあっという間で、気がつけば僕も高校二年生。
今になっても "信じることは大っ嫌い" "人に近づきすぎない" という考えの根本は変わっておらず、今後も変えるつもりはなかった――そう、あの人に出会うまでは……。