三番目に大事なもの
高校最後の一年を満喫したつけが回ってきて浪人生活を送ることとなった。僕の母校、横浜のK高から一浪でいく予備校は東京のS台か横浜のK塾あたりが定番だった。S台横浜はまだできていなかった。
僕はS台に通うことにした。入ることのできたクラスは国立理系クラスとしては下から2番目。御茶ノ水ではなく四ッ谷のクラスだった。大学に落ちたことよりこのクラスにしか入れなかったことの方が寧ろショックだった。だがそれでも同じ高校からも何人か通っていたのがせめてもの救いであった。
そんな感じで、劣等意識から始まった予備校生活だったが、さらに劣等感を持たせたのはクラス編成だ。入塾試験の成績順に上からABCDと分けられていたのだが、入れたクラスはC組。すでに落ちぶれはじめていたとはいえ当時でも学区のトップ校であった高校からきた身としては、出身校の名を汚すような自分の不甲斐なさに自己嫌悪すら感じ自分の身の程を知ったものであった。
さて、S 台の特徴は必須科目に於いては席が指定されていること。その席もこれまた成績順に並ばされその順番を保ったまま、教室の前後になる不公平を避けるため一週間毎にずれていく。つまり、席の両隣は基本変わらない。少なくとも一学期の間中は毎日同じ御隣さんと一緒に授業を受けることになる。しかもマスプロ教育全盛期、特にS台は詰め込みが激しかった。肩も触れんばかりに公園のベンチ以下の椅子に座って授業を受ける。
前期と呼ばれていた四月~七月期、左隣は二浪生、右隣は三浪以上の項目に○をつけていた沢浪生、少なくともこの二人の間の成績という自分の位置付けに改めて焦る。 と、同時に現状からの這い上がりを心に誓う。
ここにいてはいけないとは思うものの両隣の多浪生が悪いわけでもないし、一学期の間、四六時中顔を会わせなくてはならないので挨拶ぐらいはしておく。日常生活に支障を来さない程度の人間関係にだけはしておくためだ。幸い両者ともごく普通の浪人生だった。
まあ、これがS台の席のシステム説明と、ついでに、前期の自分が置かれた状況と心情の説明だ。だらだら書いたがここまではあまり核心には関係ない。
そんな前期も過ぎ九月から後期1が始まる。九月~十二月期という正念場の時期である。前期の成績をもとにクラス、席順が再編される。前期の「ここにいちゃいけない」という焦燥感からくる頑張りで晴れてB組へ昇進。さて、これから三か月強のあいだ毎日隣で顔を会わせなきゃいけないムサい浪人生はどんなやつかな? と席に着く。隣は……え? 女の子? ここ国立理系クラスですよ。ホントに? いや確かに女の子もいなくはないけど。前期の席の近くにもいたけど。はいはい国立理系志望ですねって子が。
でも隣に座っている子はそうではない。文章で正しく伝えられる自信はないが、確かに私立文系ではない、アイドルのような可愛さでもない、でも顔立ちは整って、ちょっと意思の強そうな鼻筋に涼しげな瞳。淡い色のリップを引いた小さめな口、シャープな顎、レモンイエローのマニュキュアなどをして背伸びをしたところもあるのだけど、顔の輪郭は丸みを帯び高校を卒業したばかりの女の子らしい可愛さも滲み出ている。クラスの誰もが憧れるようなタイプではないけど不思議な魅力を持った女の子だった。強いて付け加えればアンニュイな雰囲気を持った子。
結論を言えば、この不思議な魅力に惹かれてしまった。
と、言うことで決めました、はい。後期1はこの子以外とこのクラスで交友関係を持たないと。今までの自分には考えられないぐらい積極的に右隣に座るその子には話し掛け、一方で反対側の左隣にいた男とは一切口も効かない。そして彼女の反対側、彼女の右隣の男にも警戒し話に入る隙、彼女に話し掛ける隙、を与えない。
その甲斐あって後期1が始まって暫くするころには、もう席周辺での友達関係も固まって見事に僕と彼女以外は知らない浪人生どもという図式を完成させていた。彼女自身孤高なところがあって自分から他の誰かに話し掛けたりしないし、幸い彼女の右隣の男は彼女に興味はなさそうで一切干渉してこなかった。
彼女も一浪目で僕と同い年。同じ横浜から通っていて、学区は違うけど僕と同様やはり横浜市内の神奈川県立高校を卒業していた(S高校と学校名も聞いた)。似た出身校にますます親近感が沸いてくる。志望学部はずばりは教えてくれなかったけどかなり難関っぽい。
当時のS台では、出席の確認のために毎日教室に貼られる出欠表に自分で名前を書きにいくという原始的なシステムがとられていた。これは午前中貼り出されている間に記入する。しかし短い休み時間には席を立つのは億劫(なんせ教室は詰め込みで席を立つのもいちいち面倒)だし、二~三時限目の間の長めの休み時間は出欠表周りは混む。この休み時間には他のことも済ませたい。
そんなこんなもあって、一~二時限目の間の短い休み時間に立ち上がりにくいところを立って名前を書きに行けたら行っていたのだが、そんなときは席に座ったまま休み時間を過ごそうとしていたに彼女に「ついでに名前書いてこようか?」と言ってよく二人分を書いていた。幾度となく彼女のフルネームを出欠表に書いていた。
期も進む。S台では在籍生にクラスに応じた公開模試の受験が義務付けられていた。彼女は恐ろしく化学のできる子で、僕は物理を頑張っていた。ある公開模試を受けたとき彼女の名前が化学の成績優秀者に載り、僕は物理に載った。順位的には彼女の化学の方が上だった。「化学、すごいね」「物理、すごいね」そんなことを言い合ったと思う。同じ模試の2回目では僕の物理も彼女の化学ぐらい百番以内に入れた。相変わらず彼女の化学はすごい。「化学、またすごいね」「物理すごく頑張ったね」。名前が載ること自体より、「彼女と一緒に」名前が載ることが嬉しかった。
僕の彼女に対する気持ちはどうだったのだろう? 正直言えば当時の僕には他に好きな子がいた。高校で同じクラスだった女の子で横浜のK塾で浪人していた。脈はないのに大学に受かったらその子をデートに誘うことがひとつの受験勉強のモチベーションでもあった。そう、なんとなくではなく明確に他に好きな子がいたのだ。
だからS台の彼女は友達以上でもないし、友達以上である必要も、友達以上になる必要もない。でも必死に第三者の介入を阻止して教室では二人だけの世界をつくっていたのは何故だったのだろうか? その状況に特段嫌な顔もしない彼女と過ごす短い休み時間に心地よさを感じていたのは何故だったのだろうか?
校舎の消防点検だか何かの機会にS台からの帰宅が全校一斉になることがあった。久々に同じ高校同じクラスだった友達を出口で待つことにした。そんなとき、彼女が知らない男子生徒と親しげに話しながら歩いてきた。え? だれ? 前期のクラスで同じだった奴? 同じ高校の奴? 心が乱れる。二人で歩いていく彼女とはすれ違いざまに軽く会釈を交わした。平静を装っていたものの胸の奥がズキンと痛んだ。
十二月S台後期1の最後の日を実は覚えていない。彼女と隣同士の最後を覚えていないのだ。どちらかが休んだのか?とにかくさよならとか頑張ろうねとか言って最後の日を迎えた記憶はまったくない。しかし、S台が冬休みに入ってからだったと思うが、外部受験で受けていたK塾の模試の結果をK塾横浜に受け取りに行ったことがある。そのとき、ばったり彼女に会った。同じ模試を受けて同じように直接受け取りに来ていたのだ。結局、K塾横浜から西口五番街を通って駅まで一緒に帰ってきた。寒い季節、黒いウールのコートを着た彼女は少し大人っぽく見えた。と、同時に、隣で一緒に歩く彼女はS台の教室で隣に座っているときにも増して可愛く思えた。K塾の校外生の二人が同じタイミングで模試の結果を受け取りに来たなんて、K塾の事務のお姉さん、待ち合わせて来た微笑ましいカップルだと勘違いしただろうね、と話そうと思ったがやめた。こんなところをK塾に通っていた高校のクラスの好きな子に見られたらどう思われるかなとも思った。駅に着いて相鉄で帰る彼女と別れスカ線のホームにひとり向かった。
一月に入る。高校のクラスの好きな子からクリスマスのお返しが届く。その子の方から僕にプレゼントを贈ってくれるはずがないので、僕の方から何かを、たぶんクリスマスに、届けていたはずだった。それでもお返しをもらえること自体高校時代の関係ではあり得なかったので送られてきたお返しで舞い上がっていた。K塾からの帰り道、S台の彼女をほんのちょっと今までよりいとおしいと思ったころ、僕はやはり今まで通り高校のクラスの子に気持ちが向いていたということか。
年が改まったS台では後期2が始まる。また成績順にクラスが再編成された。後期1で彼女と一緒に、或いは彼女のお陰で、頑張ってきた甲斐もあってA組まで上りつめた。だけど当然だか隣の席には彼女の姿はもうない。
そもそも一月以降は周りがそうしていたようにあまりS台には通わなかった。従って彼女にも会わなかった。否、会えなかった。と、言うと寂しいが実はそんな感傷に浸る暇もない本格的受験シーズンの開幕である。
一月の共通一次試験を皮切りに、試験を受けに行くか、自宅で一日中勉強漬けか、の毎日。勉強をしていた机の上には高校の子からのお返しの品、ある種のぬいぐるみなのだが、それを置きそれを励みに頑張る。私立大学の合否に一喜一憂しながら、三月に入り、最後に本命の国立大の試験があった。
国立大の試験が終わり、なにはともあれこれですべてが終わった。もう、受験勉強なんて沢山だ! と、同じ大学を受けた同じ高校の友達と足取りも軽やかに大学の門を抜け、晴れて自由の身になった喜びを噛みしめる。
どうにかこうにか、本命の大学にも受かり、高校への進学先の報告やら、S台への営業協力の書類(要は合格実績の元ネタ)の提出やら、大学の入学手続きやら、で三月は過ぎていった。
大学に合格したら誘おうと思っていた高校のクラスの子をデートに誘った。その子もそつなく大学に合格していた。念願のデートにも来てくれた。最後に付き合ってほしいという気持ちを伝えたが、友だちでいましょうという幕切れで終わった。結局それが、その子との最初で最後のデートになった。
それはそれで自分にとって大変大きな出来事だったのだが、この話の流れの中で意味があるのは一点、ともかく僕が好きだったのはその高校のクラスの子だったということだ。
S台の合格実績の冊子を手に入れた。送られてきたのか、取りに行ったのか、誰かにもらったのか、は忘れた。その冊子のなかに彼女の名前を捜す。どこを受けたのか正確には知らない。とにかく所属していたクラスの合格者を片っぱしから見ていく。見つからなかった。ひょっとしたら、いちいち報告しなかったのかも知れない。しかし彼女の受けようとしていたと想像できる学部はかなりの難関なのでその年はだめだったのかも知れない。安易に妥協するような子ではないだろうからもう一年頑張ることにしたのかも知れない。とにかくその冊子の中に彼女の名前を見つけることはできなかった。
ほんの数か月前、前の年の後半には日曜日を除いてほぼ毎日顔を会わせ、午前中を一緒に過ごし、他愛のない話をし、その頃の午前中、お互いほぼ唯一言葉を交わす相手だった彼女に今は連絡をつけることすらできない。
手がかりは彼女の卒業したS高校。S高卒の友達がいるから卒アル借りてきてやろうか? と言ってくれた友達もいた。それとなく頼んでみたが結局その話も立ち消えになってしまった。もっとも彼女の連絡先がわかってもどうすることもできなかった気もする。
連絡先を交換しておけばよかったという後悔はそれほど強くなかったが、じわりじわりと後悔し始めたのはK塾からの帰り、駅で別れる前に喫茶店にでも寄っていけばよかったということ。後から思えば誘えば来てくれた雰囲気があった。入試シーズンを目前に控えた余裕のない僕にはそんな気の効いた考えに頭が回らなかった。三十分でもゆっくり色んな話をしておきたかった。誘って断られたのなら仕方がないが誘いもしなかったことは悔やんでも悔やみきれない。結局、あのとき駅で別れたのが最後でそれから二度と彼女には会えなくなってしまったのだから。
予備校には卒業アルバムも同窓会名簿もない。僕と彼女が同じクラスだったことを証すものは、一緒に名前を載せた公開模試の成績表ぐらいしかない。しかもそんなものを大学入学後までとっておく者は名前が載った本人も含め誰もいない。
予備校という場所、浪人という時期ではなかったらとふと考えることもあった。あの距離感で毎日会って何か同じ目標に向かって頑張る二人だったら。しかも相手が彼女のように一目見て魅力に惹かれてしまうような子だったら。
毎日会っていたあのときに何故彼女のことを好きにならなかったのだろう。……いや、本当のことを言えば好きだということに気付こうとしなかったのだろう。自分の取った行動と矛盾を承知で言えば十二月を迎えるころには僕は彼女のことを他の誰のことよりも好きになっていたのだと思う。そしてそれを自覚することができていなかった。
彼女との初めての出会いが予備校の新学期が始まる九月ではなく、その一年前か一年後だったら。浪人という時期ではなかったら。もっと自分に素直になれただろうし、素直な思いを伝えられていたかもしれない。
何度もS台の出欠表に自分の名前に並べて書き、手が覚えてしまっていた彼女の名前を僕は忘れることができないままでいた。
題名はRCサクセションの楽曲に由来しています。予備校生にとって一番大事なものは自分の将来で、その次に大事なものはそのために大学に受かるための勉強です。そうでなければ人間形成も情操教育も目的としない予備校など通わなくても良いのですから。予備校生同士そこは希薄な人間関係で成り立っていることは相互に理解しているはずです。それでも十八、九歳の男の子、女の子にとってそんな環境下でも異性に寄せる想いが芽生えても不思議はありません。しかし、お互いの三番目に大事なものより上にはいけないという諦め中で、その刹那だけの仲は、受験が終わったときに思い出だけを残してぷつりと切れてしまう儚いものだということを表現したくて書きました。