表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/17

5 緑竜

 ひどく気だるく、不快なまどろみに包まれながら、ウンクルは目を覚ました。


「ウンクルッ!!」


 そんな彼を抱きすくめる一人の人物が居た。

 彼の妻、純白の毛並みを持つ賢狼族、トゥラだ。


「トゥラ……? ここは……」


 そう言いながらウンクルが身体を起こそうとした矢先、彼の腹部に刺すような痛みが走った。

 思わず顔をしかめてうめき声を上げる。


「ウンクルッ! 起きちゃだめ!」


 トゥラが、ほぼ叫び声に近い悲壮な声で言った。

 起き上がるのを諦めたウンクルは、首から上だけを動かして周囲を観察する。

 革の貼った天井や木と土でできた壁、編んだ草が敷き詰められた床。

 壁の一角には祭壇のようなものが備え付けられており、そこには手のひら大の赤い珠が厳かに飾られている。

 全てウンクルにとっては見覚えがあった。


「ここは……長老の家……か?」


 長老の住居。

 集落の中で一番広い面積を持った建物であり、大規模な宴会などは、ここを会場にする場合が多い。


「けが人は、あんたで最後みたいね」


 未だに朦朧とした意識の中にたゆたっていたウンクルの耳に、少女の声が届いた。

 その声を聞いた瞬間、ウンクルは全身の血が沸騰したかのように熱くなる。

 体の痛みも忘れ、彼はとっさに立ち上がり、声のした方へと目を向けた。

 集落を壊滅させた3人の殺戮者の一人、2番がそこに立っていた。


「貴様……!」

「あら、もう立てるの。タフなのね」


 2番の視線には、ゴミを見るかのような侮蔑があった。

 ウンクルは一瞬、目の前の少女に跳びかかり八つ裂きにしたい衝動に駆られるが、すぐさまそれが不可能であることを思い起こし、身体から力を抜いた。


「……俺は……俺達は、負けたのか」


 ウンクルは、自分が意識を失った瞬間を思い起こした。

 あらゆる幸運が重なった末に、一瞬だけ生じた2番の隙。

 彼はそこに起死回生の一撃――短剣の投擲を放ち……結果、攻撃はかわされ、逆に槍の投擲を腹部に受け、負けた。

 自身の腹を見やれば、そこには細長い布が幾重にも巻きつけられており、腹の中央辺りには、血の染みが丸く広がっていた。

 敗北の証拠をまざまざと見せつけられ、闘志も誇りも失ったウンクルは、まるで死人のように生気のない声で尋ねた。


「そうよ。

 そんで、あたしがスキルを使ってあんたらに応急処置をしたの。

 ……大総統閣下に感謝しなさいよね。 

 あの後、閣下から「存命者は保護しろ」って命令がなければ、あんたたちは皆、あたしたちに殺されてたんだから」

「感謝……だと……」


 ウンクルの死んだ心に、再び憤怒の熱が灯る。

 しかし、それもやはり、すぐさま鎮火した。


「……俺達はこれから、どうなる」

「さあね。

 大総統閣下が生かせとご命令されたんだから、少なくとも殺されることはないんじゃないの」

「……そう……か」


 ウンクルはそれだけ言うと力なくその場に座り込み、そのまま項垂れて動かなくなった。

 それを見たトゥラが、慌てた様子でウンクルに縋り付く。

 2番はそれを興味なさ気に一瞥すると、踵を返して家の出口へと歩いてゆく。


「あ。そうそう。

 あんたが投げた剣、あれだけはちょっとビビったわ。

 私たちに唯一損害を与えたんだから、そこは自慢していいんじゃない?」


 去り際に2番は小さく言葉を残し、家から出て行った。

 一瞬、彼女の太ももに赤黒い血の滲んだ包帯が巻かれているのが見えた。


 それからしばし、無言の時間が続く。

 やがてウンクルが、顔をかすかに持ち上げて、かすれた声でトゥラに問いかけた。


「他の、皆は……どうなった」

「い、生き残った人たちは……そこに」


 そう言って、トゥラは視線で部屋の一点を指し示した。

 ウンクルがそちらに目をやると、広い部屋の隅に固まるように、老人と女性、そして子どもの賢狼族が座り込んでいるのが見えた。

 戦いに参加せず、家の中に避難していた者たちだ。

 そしてその集団の隣には、身体に血の滲んだ布を巻きつけた幾人かの賢狼族の戦士が、横たわったり、壁にもたれて俯いていたりしている。

 彼らの数は、10に満たない。

 この集落には、30人を超える戦士たちが居たはずなのに。

 トゥラは、生き残った人、と言っていた。

 じゃあ、今、ここに居ない者は――。


「あ、あああ……」


 戦いでどれほど多くのものを失ったかを認識した途端、ウンクルの心に強い負の感情の奔流が生まれた。

 後悔、慙愧、悲しみ――。


「ああ……ああ、みんな、すまない……すまないっ……!

 俺の……! 俺のせいでっ……!! みんな……死んで……ッ!!」


 気づけばウンクルは、ボロボロと涙をこぼしながら、老人、女子供、そして生き残った戦士たちに向かって土下座をしていた。

 集落で最も強い戦士だった彼の面影は、もはやそこには無い。


「俺が……! 俺が、奴らの力を見誤ったから……!!

 あの時っ! 奴らに従っていれば……!!

 すまない……本当に……すまないぃ……!!」


 ウンクルは、絞りだすように苦しげな声色で、延々と謝罪の言葉を吐きつづけた。

 その姿は、あまりにも惨めで、痛々しかった。

 変わり果てた夫の姿を見たトゥラは声を殺して泣き、ウンクルの謝罪を受けている当人たちも、ばつが悪そうに彼から視線を逸らした。


「……ウンクルさん、あんただけが悪いんじゃあねえ」


 ウンクルにそう言い聞かせる、小さな声が上がった。

 顔を上げたウンクルは、涙で滲んだ視界の奥に、あの時自分と共に戦った戦士の一人をとらえた。

 その戦士は、片方の腕が無くなっていた。


「あの時……あの3人を包囲した時……

 俺ぁ、ウンクルさんが来るまでの間に、あいつらに武器を向けながら散々に罵ったんです。

 生きて帰れると思うなよ、薄汚い人間が……って」


 そう言って、片腕の戦士は、力なく、泣き笑いのような表情を浮かべた。


「お……俺もだ。

 ウンクルさんが奴らに槍を要求するよりも前に、俺は、奴らに向かって、その槍寄越せって、しつこく……」

「俺も……俺も、あいつらの主人をバカにするようなことを……」


 戦士たちは口々に、自分の過失を吐露してゆく。

 彼らは皆必死に、ウンクルの罪を分けあい、それを自らも背負おうとしていた。


「で……でも……お、俺は……。

 俺が……戦いの、引き金を……」


 それでもなお自分を責めようとするウンクルに、戦士たちは口々に言葉を掛ける。


「いいや、ウンクルさん。

 あんたじゃなくても、それこそ俺だって……。

 俺があんたの立場だったら、あの時のウンクルさんみたいな対応をしただろうさ」

「それにあいつら、もとからこの集落を攻め滅ぼすつもりだったようだし……」

「あんなバケモノども相手に、はなから交渉なんて出来るはずがなかったんだ」


 多くの命を失った絶望の底にありながら、彼らは立ち直ろうとしている。

 その姿勢に感化されたか、戦士でない者たちも、次々とウンクルに優しい言葉をかけ始める。


「元気出しなさいなっ、ウンクル!」


 恰幅のいい女性の賢狼族が、朗らかな声で言った。


「命が助かった者も多いんだ。

 あんたらが時間を稼いでくれたおかげだよ」


 腰の曲がった老婆の賢狼族がウンクルのもとに歩み寄り、優しい声で言った。


「それに、奴らに唯一損害を与えたんだって?

 すごいじゃないか!」


 先の老婆の夫である、頑固な気難し屋として知られる老人が、しゃがれた大声で言った。


「ウンクルおじさん、なかないで」


 まだ5つになったばかりの小さな少女の賢狼族が、ウンクルの目に浮かんだ涙を必死に拭おうとしながら言った。


 賢狼族はこの時、一体となっていた。

 唖然とした表情で固まるウンクルに、トゥラが涙ぐみながら、優しく声をかけた。


「みんな、あなたを許しているのよ、ウンクル。

 あなただけが罪を背負う必要は、ないの」


 ウンクルは、胸のあたりが急速に何かで満たされてゆくのを感じた。

 彼の瞳から、また新たな涙が流れ出る。


「あ、あり……が……とう……!

 みんなっ……! ありが……とう……!!」


 嗚咽を上げながら、彼は泣き続けた。

 しかしその涙は、先ほどの後悔の涙よりも、幾分か温かかった。







「はい、はーい。

 怪我の調子はどうかしら?」


 時間を置き、賢狼族たちを収容している長老の家に再び現れた2番が、やる気なさげな言葉をかける。

 怪我を気にかけるような言動をとってはいるが、たとえ数人が衰弱したり死んでしまったりしたところで、任務的、また彼女の心情的には何の問題もない。

 あくまで彼女は、集団自殺やヤケになっての反乱など、今後の任務遂行に支障をきたすレベルの行動を起こさないか監視しているだけである。

 彼女自身は、哀れな敗残者たちに対し、もはや何の感情も抱いていない。


「……なによ、その目は」


 しかし、自身を迎える視線を受けて、2番は怪訝そうに眉をひそめた。

 相変わらず、賢狼族たちは部屋の隅に身を寄せ合うようにして固まっている。

 だが彼らの目つきが、どこか違っている。

 そこに浮かぶ感情は絶望でも、恐れでも、悲しみでもない。

 闘志だ。

 先ほどまでは今にも死にそうだったほどに沈んだ空気をまとっていたのが、今や彼らからは生きようとする強い意思、活力すら感じ取れた。


 何か、ある。

 2番は警戒を高めた。

 彼らが秘めているその"何か"が、2番たちワスプ・ワーカーを害するものであるのならば良い。

 だが、もしネグロの手を煩わせるようなことをしでかそうと考えているのなら、それは全力で阻止しなければならない。

 何の感慨も浮かんでいなかった2番の瞳に、あの時と同じ強い敵意が充満してゆく。


「……なーんか、臭うわね。

 言っとくけど、下らないことを企んでいるのなら、やめといた方がいいわよ。

 大総統閣下に逆らおうとすればするほど、あんたらは絶望を見ることになるんだから」


 そう言って2番は、賢狼族たちの方へと歩み寄りながら、強く睨みをきかせる。

 集落の戦士を虐殺した少女の殺気が賢狼族たちを襲い、彼らはわずかに怯んだ様子を見せる。

 そんな中、ゆっくりとその身を起こし、賢狼族たちを守るように、2番の前に立ちはだかる者が居た。

 ウンクルである。


「あまり彼らを虐めないでくれ。老人や子供も居るんだ」

「あら、剣を投げた奴……。

 随分と元気になったものね。泣き虫は治ったかしら?」


 2番は目を細めながら、挑発の言葉を口にする。

 彼女の記憶では、賢狼族の中で精神に最も深い傷を負っていたのが彼であった。

 しかし、今はまるでその面影がない。

 彼の顔は再び凛々しい戦士の表情を取り戻していた。

 2番が最後にウンクルと会ってから今現在まで、1時間程度しか経っていない。

 そんな短時間であの状態からここまで精神を持ち直すというのは、にわかには考え難いことだった。


「……おかげさまでな」


 2番の言葉に、ウンクルはそう返した。

 彼の表情はまるで揺らがず、怒りも動揺もない。

 やはり、今までとは明らかに様子が違う。

 彼を立ち直らせたものが何であるかを聞き出す必要性を感じつつも、2番は自身が話術に優れていないことを自覚していた。

 この手の手合は彼女ではなく、いつも飄々としていて口の達者な3番辺りが得意そうである。

 2番は、もどかしさに内心で歯噛みした。


「……お前たちがよく口にする、その大総統という人物は……いったい何者なんだ?」

「……大総統閣下はこの世で最も偉大な、最強にして絶対の御方よ。

 ……とは言っても、閣下の御姿を実際に目にしないと、あんたら低俗な犬どもにはその偉大さが理解できないでしょうね」


 低俗な犬。

 2番が賢狼族そのものを侮蔑する発言を口にした瞬間、膨大な敵意が部屋に充満した。

 しかし、それまでである。

 声を出す者や、手を出そうという者は一人も居ない。


「そいつは――」


 続く質問をウンクルが口にしようとした瞬間、彼は頭部に衝撃を感じ、意識が揺さぶられた。

 気づけば、彼は床に頭を擦りつけるような姿勢をとっており、そんな彼の頭部を、2番の手にする槍が上から押さえつけていた。

 彼女は一瞬で槍を抜き、ウンクルの頭を床に叩きつけて平伏させたのだ。

 他の賢狼族達の間から、押し殺したように小さな悲鳴がいくつか上がる。


「"そいつ"?

 もしかして、それは大総統閣下のことを言ってるの?」

「……」


 2番が、爆発したかのように膨大な威圧を発しながら言った。

 ウンクルは答えない。

 ここで何らかの口答えをすれば殺すと、彼女の殺気が物語っていたためだ。


「腹に穴空ける程度では、まだ、教育が足りなかったかしら?

 賢狼族ってのは、言葉づかいもロクに知らないものなの?

 見せしめに、もう数匹殺して欲しいわけ?」

「……"その御方"は、人間……なの、か?

 その背に生えた、虫のような翅……お前は……人間では、ないだろう。

 お前たちを従える御方も……翅を持っているのか?」


 苦しげながらも、ウンクルは低く、静かな声で言葉を続けた。


「……ふんっ。

 さあね? 閣下にお目通りが叶う機会があれば、その時に聞いてみれば?」


 2番はそっけなく言った。

 事実、彼女はネグロの種族や能力をはじめとする情報を、ほとんど知らない。

 せいぜいが、ネグロの有するジョブの名を知っている程度である。

 これも、グレーティアに作られた眷属の先輩が口にしていたのを小耳に挟んだ程度で、その詳細はまるで知らない。

 もともと彼女らは敵地へ特攻させるために作られた存在であるために、創造される際、ネグロへの忠誠心や槍の扱いなど、最低限の知識しか与えられていないのだ。


 レウコン・イーリスの構成員たちは皆、いくつかの職業ジョブを持っており、種族としての基礎能力に加え、どんなジョブを有しているかによってその能力が変わってくる。

 2番は槍の扱いが多少上手くなる『ランサー』というジョブしか持たないが、局長や大幹部クラスにもなると、中には一人で100近い数のジョブを有するものも居るという。

 そして、そんな彼らの頂点に立つネグロが有するのは、『ドミネーター』という詳細不明のジョブ、たった一つだけであるらしい。

 「まさに世界の全てを支配された大総統閣下にふさわしい名称のジョブだ」と、彼女にその話を聞かせた者は語っていた。


「……分かった」


 彼女の答えに、ウンクルは納得も不満も見せず、ただ無感情な声でそう返した。

 妙に聞き分けが良い。

 2番はどこか収まりの悪い違和感が、ジリジリと自らの中にくすぶっているのを感じた。

 やはり、おかしい。

 賢狼族たちが、大人しすぎる。

 かといって絶望や恐怖で動けないわけでも無いようにみえる。

 であれば、何かを隠している?

 先ほどのウンクルとの問答も、思えば2番の意識を何かから逸らそうという作為を感じた。

 2番は必死に頭を動かし、自らが感じる違和感の正体を思索しながら、部屋の中を見回す。

 そして、彼女の視線はある一点でとどまった。


「……ねえ、あんたら。

 そんな隅っこにより固まって、窮屈じゃないの?

 ちょっとは散ったら?」


 部屋の隅に固まって動かない賢狼族たちへ向けて、2番は言った。

 その相手を慮るような言葉に反して、彼女の言葉には威圧がこもり、強い強制力があった。

 しかし、賢狼族たちは黙して動かない。

 まるで、何かを隠すか、守るかしているように。


「……言い方が難しかったかしら。

 どけ、って言ってるのよ」


 2番は手にした槍の先を向け、今度は明確な命令を口にした。

 それでもなお、彼らは動こうとしない。

 らちが明かないとみた彼女は、賢狼族たちが固まっている場所へと歩き出す。

 しかしそこで、槍から開放されたウンクルが立ち上がり、彼女の肩を引き止めるように掴んだ。


「待て、乱暴はするな。彼らは怯えているんだ」

「……うるさいッ!!」


 2番が持つ槍の石突きが、ウンクルの腹部をしたたかに突いた。

 怪我のある部位にさらに強い衝撃を受けたことで、彼はたまらず痛みにうめき、その場に蹲った。


「……そこを、どきなさい。

 従わないのなら殺す」


 隅に固まった賢狼族たちに槍の先を向け、2番は無感情な声で言った。

 彼女のまとう張り詰めた殺意が、その言葉が決して単なる脅しではないことを示している。


「……彼女に、従え……」


 痛みに悶えながら、ウンクルが呼びかけた。

 すると、賢狼族達はすぐさま、素直にその場から散り散りに退いてゆく。

 彼らの去った床の上には、キラキラと赤く輝く大きな宝石の破片のようなものが転がっていた。


「……これは、何」


 2番が、賢狼族たちの顔を見回しながら、静かに問いかける。

 しかし、答えはない。


「……これは何だとッ! 聞いてるのよッ!!」


 2番が、手近な場所に立っていた賢狼族へと槍の矛先を向け、吠えるように声を上げた。

 槍を向けられた者はひどく怯え、遠目に見ても分かるほどに身体を震わせている。

 だが、やはり答えない。

 しびれを切らした2番が、その賢狼族を槍で突き殺そうとしたその時、ウンクルが言った。


「竜の宝玉だ」


 2番の槍を突き出そうとしていた手が止まる。


「……竜の?」

「それは、我らの集落を興した遠い祖先が、この地を治める竜より借り受けた、竜の宝物が一つだ。

 我ら賢狼族と竜が交わした盟約の証であり、我らがその宝玉を有し、守る限り、我らは竜の加護を得て、この草原での安寧が約束される」


 2番が、徐々に顔をこわばらせてゆく。

 竜が盟約の証として渡した宝玉。

 それが今、こうして粉々に壊されているということは――


 2番がそこまで考えを至らせたその時、ドオン、と、巨大な地響きが辺り一帯を揺らした。







 ウアラト山の山頂で眠りについていた、『草原を統べる猛き暴風』の二つ名を持つ緑竜ヘルフェウスは、ほのかな違和感を覚えて、静かに目を開けた。

 長い首をゆっくりと持ち上げ、その鋭敏な感覚器で、彼は何があったのかをすぐさま察した。


 我が宝物が一つ、失われた。


 彼を始めとする竜は、その長大な寿命故に、何かしら無聊を慰めるための趣味を持つ者が多い。

 ある者は人間の社会に干渉し、その時代の行く末を見守ることを娯楽とする。

 ある者は巨大な建造物や強力な武具、あるいは独自の魔法などを自らの手で作り上げることを楽しみとする。

 中でも彼、ヘルフェウスは、古今東西に存在する、価値の高い宝物を蒐集することを道楽としていた。

 彼は自身が有するすべての宝物に魔法をかけ、何者かによって盗みや損壊を受けた場合、ただちにそれを感知できるようにしてある。

 そして今、ヘルフェウスは、そんな宝物のうち一つが、たった今壊され、失われたことを感じ取っていた。


 壊されたのは、紅き宝玉。

 ヘルフェウスが数百年ほど昔、気まぐれに賢狼族たちへと渡したものだ。

 彼は自身を強く敬う賢狼族に免じ、その宝玉をもって、自身の支配する草原に彼らが住まうことを許可したのである。

 ヘルフェウスが千年にわたって集めた莫大な財からすれば、紅き宝玉の価値は単なる石ころとなんら変わりがないものの、壊されたとなればやはりいい気分ではない。


 ヘルフェウスは、一声吠えた。

 竜の咆哮が草原を揺るがす。

 次いで彼は畳んでいた翼の皮膜を大きく広げ、そこに魔力をみなぎらせた。

 美しい緑の竜鱗が、雨に濡れた若草のようにきらめく。

 翼を大きくはためかせると、凄まじい突風が巻き起こり、ヘルフェウスの巨大な身体を浮かび上がらせる。

 そして残像が生じるほどの速度で、彼はウアラト山から飛び立った。







 地響きの後、慌てて外に飛び出した2番が見たものは、集落の中央に羽を広げて聳立する巨大な竜だった。

 エメラルドのように鮮やかな緑色の鱗を持つその竜は、王者の覇気を纏いながら、金色の瞳で周囲を睥睨した。


「我が宝物をそこないしは、何処の者ぞ」


 地の果てまで響き渡るような低い声がした。

 竜が魔法によって発声しているのだ。

 強大な竜の姿を目の当たりにして呆然と佇む2番のもとへ、1番と3番が駆け寄ってくる。


「おい、2番っ!! マズイぞっ!!」

「ひぃぃぃっ……!」


 3番は今まで見たことがないほどに切羽詰まった焦燥の表情を浮かべており、1番は顔を青ざめさせ、涙目で小さな悲鳴をあげていた。


「……あの……腐れ犬っころどもが……っ!!」


 2番は凄まじい怒りで身を震わせた。

 あれこそが、賢狼族が言っていた竜であろう。

 そしてかの竜は、賢狼族へと与えた宝物が破壊されたことを感知し、この集落までやって来たのだ。

 奴らの狙いは、これだったのだ。


「ど……どう、するの? 3番」


 1番が3番にすがり付くようにして尋ねた。


「……参謀隊はこの状況を既に知ってるはずだ。

 きっとすぐに、『テレパス』なり何なりで指示が――」

「何をこそこそと囁いている」


 3番の言葉を遮って、荘厳な響きを持つ声がしたかと思うと、次の瞬間、3番はその場からゴム毬のようにはじけ飛んだ。


「貴様ら……我が宝物を授けた狼どもの種族ではないな?

 それに、これは強い死の匂いだ。

 我が領土で、随分と自儘な真似を働いてくれたようであるな」


 緑竜が2番と1番を見下ろしながら、低く唸り声交じりに言った。

 鋭い鱗の生えそろった、長くしなやかな尻尾が揺れている。

 3番は、竜の尻尾の一撃を受け、吹き飛ばされたのだ。


「3番っ!?」


 2番が小さく叫び、3番が飛ばされた方向を見やる。

 彼は、集落に建つ小さな住居の一つに激突したようで、木や革の廃材と化した、賢狼族の家の残骸に埋もれていた。


「く……そ……。

 散開して応戦だッ……! この状況で撤退はできないッ……!

 少しでも応援が来るまでの時間を稼げ!!」


 3番は苦しげな声で叫び、瓦礫の山から抜け出すべく、背に生えた虫の翅を震わせて宙に飛び立った。


「なるほど、半人半虫か。

 竜の領土を無断で汚したその罪、償ってもらおう。

 ……我が名は、ヘルフェウス! 偉大なるこの名、その魂に刻んで逝け!!」


 ヘルフェウスが自らの名を哮る。

 それを合図に、死闘が始まった。


 3人のワスプ・ワーカーは背中の翅を展開し、竜を囲むように位置どる。

 彼らは、賢狼族たちとの戦闘ではスタミナの消費を惜しんでほとんど翅を使用しなかった。

 しかし、今回は温存を一切考慮せずに戦わなければ、すぐさま死ぬことを直感していた。

 翅を使うことで、彼らの機動力は地を走るのに比べて何倍にも増大し、上下移動が可能となるために、より高度で多角的な戦闘が可能となる。

 だがそれでも、竜の卓越した知覚力を超えることはできないだろう。


「シイィッ!!」


 はじめに2番が飛び出した。

 鋭く息を吐きながら、竜の横腹に向けて渾身の突きを放つ。

 しかし、硬質な音を立てて、彼女の槍はあっけなく竜鱗に弾かれた。

 すかさず竜の尾が彼女を叩き潰そうと迫る。

 2番は全力で翅を動かし、その場から飛び退いた。

 直後、眼前を大木のように太い竜尾が過ぎ去ってゆく。


「てえぇっ!!」


 その隙を突いて、今度は1番が槍を構えて飛びかかる。

 彼の位置は2番の対角に近く、竜の死角となっていた。

 だが、彼の攻撃は読まれていた。


「うわあっ!?」


 竜の背に生えた巨大な翼が1番をはたく。

 彼は叩き落とされた羽虫のように堕ちてゆき、地面に激突した。

 地面に倒れ伏す1番に竜が追撃の踏みつけを加えようとするが、そこへ3番が高速で飛来し、1番を抱え上げてその攻撃から遠ざけた。

 攻撃を外した竜へ、2番が再び突きを見舞う――。


 息もつかせぬ刺突の連続攻撃が続く。

 しかし、それは竜の鱗の表面をわずかに削り取るばかりで、竜自身は痛痒すら感じていない様子だった。


「……煩わしいな」


 そんな攻防を続けてしばし、竜は不快そうに唸ると、その身に風の魔法をまとわせた。

 突如として、竜の身体を中心に暴風が吹き荒れる。

 風にとらわれたワスプ・ワーカーたちは、抵抗の羽ばたきも虚しく、吹き荒れる風にあおられて勢い良く空へ投げ出され、そして地面へと落下していった。

 地に這いつくばってうめき声を上げる3人のもとへ、竜はゆっくりと歩み寄ってゆく。


「死ね」


 竜が彼らをその脚で押しつぶそうとする。


「……あああああああああッ!!」


 死が迫るなか、1番が突如として絶叫した。

 その顔には、普段の臆病な少年のそれではなく、凄まじい怒りと気迫をたたえた、壮絶な戦士の表情があった。

 彼は全身に渾身の力を込めて立ち上がると、目前の竜に向かって飛びかかり、血を吐くように叫んだ。


「『ワスプ・チャージ』ッ!!」


 1番が持つ槍の先端が赤い輝きを放つ。

 彼は赤い光の軌跡を残しながら、自身が持てる全ての力をもって、手にした槍を竜の胸元へと突き刺した。


 その槍は鱗を貫き通し、竜の胸に鮮血が散った。

 同時に、1番の槍が硬質な金属音と共に折れ、槍の穂先が回転しながら宙を舞う。

 直後、恐ろしい怒りの咆哮が草原一帯に響き渡った。







 ウンクルを始めとする数人の賢狼族は、長老の家の窓から、1番の放った攻撃が緑竜ヘルフェウスの鱗を刺し貫き、その体に傷をつける瞬間を目撃していた。


「……う、嘘だろ……!?」

「ヘルフェウス様に傷を付けるなんて……」


 彼らにとって、緑竜ヘルフェウスは神に等しい存在である。

 ヘルフェウスは彼らの住まう草原をはじめとする一帯を統べる絶対無敵の王者であり、彼らは、ヘルフェウスよりも強く偉大な存在は、この世に存在しないとすら思っていた。

 ところが、あの3人はヘルフェウスを相手に短時間ながら持ちこたえ、さらにはその身に傷をつけた。

 かの竜が傷を負って血を流すなど、彼らにとっては想像もつかないことであり、その光景を目の当たりにしたことで、彼らが持つ価値観は音を立てて崩れていった。

 絶対の存在であるはずのヘルフェウスが負ける可能性を感じ取り、彼らはおののくと同時に、それを成し遂げた3人への畏怖もまた生じ始めていたのだ。


「我々は……恐ろしい存在に……戦いを挑んではならぬ者に、戦いを挑んでしまったのかもしれぬ」


 賢狼族の中でもひときわくたびれた毛質を持つ老人――集落をまとめる長老が、静かに呟いた。

 その声を否定できるものは、誰も居なかった。


 直後。

 恐ろしい響きを持つ咆哮が響き渡った。

 その声量は凄まじく、長老の家そのものまでがグラグラと揺れ動いていた。

 賢狼族たちがあわてて窓の外に目をやれば、そこには怒り狂い、でたらめに暴れまわる緑竜の姿があった。


「まずいぞ……」


 ウンクルが、小さく呟いた。

 理性を失ったヘルフェウスが、集落を破壊しながら、徐々に長老の家へと近づいているのだ。


「……みんな窓から離れろッ!!」


 ウンクルが叫んだ。

 それを受けて賢狼族たちが窓から飛び退き、窓と逆方向の壁に身を寄せた瞬間。

 轟音を立てて、先程まで賢狼族たちが立っていた場所に、竜の尾がたたきつけられた。

 賢狼族の女性や子どもたちが悲鳴を上げ、男たちも戦慄した様子を見せる。

 尾が去った後、そこには無残に崩れ去った壁と、その向こうに広がる空だけがあった。


「か、壁が……!」

「なんてこと……」


 一時期は、草原の支配者たるヘルフェウスを相手に、ワスプ・ワーカーたちが苦戦するさまを見て高揚していた賢狼族たちであったが、今や凶暴な破壊者と化した緑竜の恐ろしさに、絶望を抱いている。

 ウンクルは、やりきれない感情に歯噛みした。

 緑竜ヘルフェウスを呼び出すという作戦は、賢狼族たち全員で考え、実行したものである。

 果たしてそれは上手く行き、ウンクルたちではまるで歯が立たなかった3人は、竜を相手に死の一歩手前まで追い詰められた。

 しかし、彼らが竜の肉体すら傷つける力の持ち主であることは想定外であった。

 背中の翅に加え、彼らはさらに、竜の鱗すら貫く不可解な槍術を隠し持っていたのだ。


「……いや」


 隠し持っていたのではない。

 賢狼族の戦士が、その槍術を使わせるまでもないほどに弱かったのだ。

 ウンクルが悔しさに身を震わせていると、一人の賢狼族が彼のもとへやって来て、崩れた壁の向こうを指さしながら、慌てた様子で言った。


「う、ウンクルさん! あれ!!」


 ウンクルがそちらに目を向けると、そこには底知れない憤怒を秘めた瞳で地面を見下ろす緑竜の姿があった。

 竜は、賢狼族のそれよりも何倍も凶暴な印象を与える、牙の生えた巨大な口を限界まで開け広げていた。

 その視線の先には、あの3人の槍使いが居た。

 ウンクルからすれば忌々しいことに、彼らは全員、満身創痍ながらも未だに生きている。

 しかし、注目すべきは、そこではなかった。

 大きく開いた竜の口、そこには白熱して光り輝く光球があり、高音を立てて渦巻いていた。

 その光球に込められた力は、魔術や竜の能力に疎いウンクルですら瞬時に危険と理解できるほどに強大であり、さらにそれは、瞬間ごとに込められた力をより増大させているのが分かった。


 ドラゴン・ブレス。

 高位の竜が口から放つ、最大にして最強の魔術である。

 その威力は大地を割り、海を干上がらせ、中には巨大な山や島を消し去ったという伝承も存在する。

 ヘルフェウスは、それをここで、彼らに向けて放とうとしている!


 ウンクルは、矢のようにその場から飛び出すと、ヘルフェウスのもとへと走った。

 あの攻撃が放たれれば、彼ら3人のみならず、この集落、ひいてはこの草原が滅びかねないと悟ったからだ。


「お待ちください、ヘルフェウス様ッ!

 どうか! どうかお怒りをお鎮めくださいッ!!」


 ウンクルは全力で叫びながら、ヘルフェウスのもとにたどり着くと、平伏の姿勢をとった。

 その言葉を受けた竜は、瞳だけをぐるりと動かし、ウンクルを睨みつけた。


「……ならん。

 口を挟むな、狼風情が」


 ヘルフェウスは、魔法の声で静かに告げた。

 しかし、その声色には、未だに燃え猛る怒りが押し殺されているのがわかる。


「そこを、なんとか!!

 貴方様がそれを放てば、我らの集落が! この草原が……!!」

「……黙れッ!!

 我が身に傷をつけた此奴らは、肉の一片たりとも残さず滅せねば収まらぬッ!!」


 ウンクルが必死に次の嘆願の言葉を叫ぼうとするも、ヘルフェウスはそれを待たず、ブレスを解き放った。

 目を焼く閃光と、耳を打つ轟音が、ウンクルの五感を支配する。


「みっともないトカゲね」


 不意に、澄み渡る美しい女性の声が聞こえた。

 直後、その場を支配していた音と光は瞬く間に消え去り、まるで竜が暴れていたのが嘘だったかのような静寂が、場を支配する。

 そして、光が収まり、景色が色を取り戻したそこには、一人の美女が、|蜂の働き手ワスプ・ワーカーをかばい、緑竜ヘルフェウスの眼前に立ちはだかるように立っていた。


「……よく持ちこたえたわ。1番、2番、3番。

 ネグロ様もお褒めになっていたわよ」


 絶世の美貌、伏せられた目、そして白と黒が流動する不可思議な模様を持つ髪とドレスを持つ女性。

 ネグロの腹心、副総統エヴァ・ドゥーケは、そう言って静かに微笑んだ。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ