3 賢狼族
月光殿、地下75階層。
ネグロとマルギットが模擬戦を行った地下60階層と同じく、天井には擬似的な青空と太陽が存在する。
この階層の中央には、巨大な大木がそびえ立ち、その周辺は鮮やかな花畑が広大に広がっている。
大木の直径は100メートル、高さは500メートルを超え、その縮尺を間違えたかのような大きさは現実の地球上に存在するいかなる樹木ですら及ばない。
生産隊、食料生産局が擁する養蜂部のプラントは、この超巨大木『支天樹』の幹の上に存在していた。
「たっか……」
ネグロが小さくつぶやいた。
彼が立っているのは、地上からおよそ500メートル、支天樹の幹の側面に備え付けられた足場の上である。
たとえここから落ちても、彼の持つ高い防御力により、HPがほんの少し削られる程度で済むだろう。
膨大なHP量を誇るネグロのステータスを考慮すれば、負傷の度合いとしては、かすり傷にも満たないはずだ。
ネグロのみならず、レウコン・イーリスの構成員のほとんどは、高所から落下した程度では死なない身体を持っているし、仮に死んだとしても蘇生させる手段は腐るほどに存在する。
とはいえ、高所を怖がるのは人としての本能のようなものであった。
ゲームが現実化したために、高所で吹きすさぶ風や、いくら遠のいても解像度の落ちない眼下の景色などをつぶさに感じ取ることができ、それがさらに恐怖を増大させている。
しかし、そんな感情も、ネグロが持つ高い精神力ステータスによりすぐに沈静化する。
ゲームの世界の景色が現実化したように、ネグロが有する高い身体能力や精神力も忠実に現実化しているのだ。
「……と。景色を見に来たわけじゃあないな」
ネグロが見上げる先には、巨大な茶色い壁があった。
この大木の上に設置された、養蜂部の蜂蜜生産プラント、その入口である。
そのプラントを遠くから見れば、枝の生え際にくっついたコブのような球状であることが分かっただろう。
プラントに近づいてよく見てみれば、その壁面はざらついた土のような質感を持ち、いくつか異なる濃度の茶色からなるマーブル模様が見て取れた。
その大きさこそまるで異なるが、これは現実世界で見かける、あるモノに酷似している。
スズメバチの巣である。
ネグロが軽く見回すと、すぐさま入り口らしき穴を発見することができた。
こちらも、スズメバチが出入りする巣の穴を、人間が出入りできるほどに巨大化させたような形をしている。
そして、その穴の左右には、黒地に黄色の装飾を持つ刺々しい鎧を着込んだ、大柄な兵士が立っている。
『ノーブル・ワスプ・ガーディアン』。
このプラントの主、グレーティア・ブルンスマイアーが生み出したモンスターだ。
「……やあ、精勤ご苦労。
グレーティアは中に居るか?」
「はっ!? だ、大総統閣下ッ!?」
入り口に近づきネグロが声をかけると、入り口に立つ二人の兵士は驚きで飛び上がった。
その顔は蜂の頭部を模したヘルムに覆われており表情はうかがい知れないが、そこから聞こえてくる男の声は極めて硬く、ガチガチに緊張しているのが分かる。
「は、はいっ! グレーティア養蜂部長は奥に居られますッ!!」
「ふむ、そうか。ありがとう」
「い、いえっ!!」
礼を告げたネグロは、そのまま兵士たちの脇を通りすぎてプラントの中へと消えてゆく。
後に残された二人は、しばし無言でヘルム越しに見つめ合った。
「閣下御自らがここに来られるなんて……」
「……お、俺、大総統閣下と会話しちゃったよ……」
唖然としていた両者は、やがてどちらからともなく、乾いた笑いを上げはじめた。
◆
「ほう。養蜂プラントの中はこういう感じか」
ここ最近のネグロは、部下に言付けを頼まず、自身の足で月光殿のあちこちを巡って用事を言い渡していた。
それは、ゲームが現実化したことでリアルさを増した自身のギルドを見て回るという娯楽の意味合いが強かった。
今回彼が足を運んだ養蜂プラントも、かつてゲームの中で訪れた時とは様相が異なって見えた。
何よりも彼が感動したのは、目と耳以外の感覚器が使えるという点である。
彼がプレイしていたVRゲームは、ヘッドマウントディスプレイによって視覚と聴覚を、そして僅かながら触覚を再現する機能を有しているが、味覚や嗅覚などを再現する機能は存在しない。
それが、今や五感全てでゲームの世界を感じ取ることができるのだ。
壁面を手でなでる。
今までなら何か障害物に触っているという漠然とした感覚しか得られなかったが、しかし、今のネグロは、ザラザラとした壁の粒子の感触まで感じ取れた。
冷たい風の吹き荒れる支天樹の上と、しっとりとして温かいプラント内部の温度や空気感の差もまた、ネグロを楽しませた。
そして何より。
「蜂蜜の匂いがする」
蜂蜜の芳しく甘い香りが、ネグロの鼻孔をくすぐる。
プラントの外に立った時点で既に甘い香りを感じ取ることができたが、中に入ると、まるで空気にすら甘い味が付いているかのように錯覚するほど、その香りは濃くなった。
それは、かつてネグロが腐心して作り上げた蜂蜜生産プラントが、確かに現実のものとして稼働しているという証拠であり、それが彼をこの上なくワクワクさせるのだった。
ほの暗い通路を進むと、やがて大きく開けた場所に出た。
視界は唐突に明るくなり、同時に何万もの虫が同時に羽ばたいているような騒音がネグロの耳朶をうつ。
辺り一面には、プラントの外壁と同じ材質と思わしき巨大な板が無数に立ち並び、その面には隙間なく六角形の空洞があった。
天井にはオレンジ色の灯りが等間隔に並んでおり、強い光量でプラント全体を照らしている。
そして、はるか遠方まで六角形の穴を空けた板が整列している空間を、大量の何かが縦横無尽に飛び回っていた。
目を凝らせば、あたりを飛び回る影は、背中に虫の翅を生やした人間の姿をしている。
ここが、養蜂プラントの中心部だ。
「はは……これは凄い」
我ながら壮観な光景だ、とネグロは自賛し、ゆっくりと歩みを進めてゆく。
「ね、ねえ……あれって……」
「えっ、ウソッ!? ネグロ大総統閣下!?」
「うわっ! マジかよ!?」
「すげえ……! こんな近くで初めて見た!!」
「ああ……ネグロ様、ステキ……」
ともすれば自身が発した声すら聞き取れないほどの羽音の中で、ネグロの超人的な聴力は、プラントで働く虫の翅を持つ者たちの言葉を明瞭に聴きとっていた。
ネグロの顔に、わずかな苦笑いが浮かぶ。
彼は、月光殿の行く先々でこのような反応を受けている。
自身がそういう性格に設定したとはいえ、こうもいちいち過剰な反応をされるのは、嫌ではないとはいえ、少々むず痒い心地だった。
そうしてしばらく歩いているうちに、ネグロはプラントの最深部へと行き着く。
そこは先程の騒々しいプラント中心部とはうって変わり、さほど広くない静かな部屋であった。
虫の羽音のみならず、いつの間にやら、あのプラントを満たしていた胸焼けのしそうな甘い香りも無くなっている。
「……甘みの抜けが悪いし、香りも駄目ですわ。
夜向日葵を3%減らし、ドラゴン・ベリーを2%増やしなさい」
「わかりました!」
部屋の中央には、黒と黄色の配色からなる、巨大な王座があった。
王座は二対四枚の羽根をそなえ、重低音を響かせながら高速で羽ばたき、宙高くに浮かんでいる。
そこに座する、王座と同じ配色のきらびやかなドレスを身にまとった金髪の美女。
ネグロが探していた人物、生産隊食品生産部養蜂部長、グレーティア・ブルンスマイアーその人である。
グレーティアの前には、背中から虫の翅を生やした若い女性が一人。
こちらも翅を高速で動かして宙に浮かんだ姿勢である。
「あとは……熟成も急ぎすぎですわね。
第三プラントの湿度を1%上げて。それから――」
王座に座りながら次々と指示を飛ばす彼女の手には、小さいグラスが握られており、その中には黄金色に輝く液体――蜂蜜があった。
養蜂部長たるグレーティアの役目は、蜂蜜の製造工程全ての監修である。
蜂蜜の原料となる花蜜の選別、配合、花蜜を蜂蜜に変える酵素の添加や、糖度を上げるための熟成作業など、彼女が目を通す分野は多岐にわたる。
そして、今現在彼女が行っているのは、蜂蜜の出来を確かめるためのテイスティング作業であろう。
「はあ……これじゃあ、せいぜい準2級ランクですわね」
ひとしきり指示を終えたグレーティアは、落胆した様子で蜂蜜の入ったグラスを翅の生えた女性につき返し、それに代わって水の入ったワイングラスを受け取る。
グレーティアに水を渡し終えた女性は、そこでふと眼下に目を向けた。
彼女はそこで初めて、自分たちを楽しげに見上げる黒いシャツの男――ネグロの姿を認識する。
と同時に、彼女の顔から悲壮なほどに血の気が引いてゆき、ブルブルと震え始めた。
今の今まで、彼女らからすれば神に等しい、いやそれ以上に崇高な人物を、あろうことか床の上に放置していたのだ。
レウコン・イーリスの者にとって、ネグロを侮辱する行為は死罪どころか、それをもってしても償いきれないほどの大罪である。
「ぐ、ぐぐぐぐ、グレーティア、様……」
か細く、震える声で、ネグロの姿をとらえた女性が、グレーティアを呼ぶ。
「もう、なんですの?
貴方はさっさとプラントの監督に戻って――」
「ね、ね、ネグロ様が……大総統閣下が……あ、あちらに、お、おお、お見えに……」
「は? 何を言って――」
視線を動かしたグレーティアの目が、その瞳にネグロの姿を映した。
瞬間、グレーティアは全身が硬直する。
彼女の手から水の入ったグラスが取り落とされ、床に落ちて粉々に砕け散った。
グラスが割れるまでのその刹那の間に、グレーティアは自身が有する速度ステータスのすべてを動員し、一瞬で王座から飛び降りてネグロの前に移動し、平伏の姿勢をとっていた。
やや遅れて、グレーティアと相対していた翅の女性も同様に、ネグロの前に跪く。
「ね、ネグロ様ッ!! わ、わた、私は、なんというご無礼を……!
我らが偉大なる創造主様のご来訪に気づきもせず、御身を蔑したこの大罪、申し聞きのしようもございませんっ!!
この身一つでは到底償いきれる罪ではございませんが、どうか!
どうか……このグレーティアに、罰をお与えくださいッ……!!」
「えっ」
必死の形相で陳謝するグレーティアを見て、ネグロは面食らったような心地だった。
自身に向けられる忠誠心の大きさは知ってはいたが、まさかこれほどとは思ってもみなかった。
彼はただ、自身が手塩にかけて作り上げたキャラクターが生き生きと動いている様子を微笑ましい心持ちで見ていただけだったのだ。
「あー……いや。
グレーティア……お前が謝る必要はない。
本来ならこの部屋に入ってすぐにお前に呼びかけるべきだったが、俺はお前が働く姿に見とれて、声をかけあぐねていたのだ。
お前の職務への真摯さを褒めることはあっても、無礼を罰するなどしようものか」
「ネ、ネグロ、様……!!」
顔を上げたグレーティアの顔は涙に濡れていたが、それでも太陽のような美貌は微塵も色あせていなかった。
ネグロは静かにグレーティアのもとへと歩み寄り、膝を折ってその顔を覗き込む。
「お前は――お前たちは、俺にとっては、我が子のようなものだ。
そのように悲壮な顔をされると、俺まで辛くなってしまう。
どうか、笑顔を見せてくれないか。……な?」
ネグロにそう言われてしばらく呆然としていたグレーティアは、やがてその目に大粒の涙を浮かべ、声を上げて泣きだした。
視線を横にやれば、グレーティアと並んで平伏していた翅の女性も、感極まった様子で目に涙を浮かべ、ネグロを熱い視線で見つめている。
そんな二人を宥めながら、ネグロは内心でため息をついていた。
……後で全部署に、俺への接待よりも仕事を優先するように通達しとこう。
◆
「さて……落ち着いたか? グレーティア」
「は、はい……お見苦しい姿をお見せして、申し訳ございませんでしたわ」
赤らんだ顔で、すんすんと鼻を鳴らしながら、グレーティアは恥ずかしげな笑みを浮かべた。
彼女よりもいち早く泣き止んだもう一人の翅の女性は、ネグロの指示で既に持ち場に戻ってもらっている。
余談であるが、この翅の女性――養蜂プラントの現場監督が一人である『ノーブル・ワスプ・コマンダー』のロレーナは、後に、ネグロがグレーティアにかけた優しい言葉をあちこちに語って聞かせ、それはやがて口コミによって月光殿全体に伝播し、ネグロへの信奉心をさらに増大させることとなる。
「さて、そもそも俺がここに来た理由なんだが、お前の眷属を数人、借り受けたくてな」
「私の……眷属……で、ございますの?」
首をかしげるグレーティア。
「そうだ。月光殿が極魔界でない謎のフィールドに転移したことは知っているな?」
「え、ええ。聞き及んでおりますわ。
私は実際に外をこの目で見たわけではありませんが……」
「そこでここ数日、月光殿の周辺を調査させていたんだが、コボルトに似た生物が集落を作っているのが発見された。
その集落の調査と制圧に、お前の眷属を使いたいと考えている」
「わ、私の、眷属を……!?」
グレーティアは目を見開いた。
前例のないことである。
彼女のような生産隊に所属する者が、戦闘行為を命じられることは、まずありえない。
戦いを生業とする防衛隊と比べると、あまりにも弱いためだ。
しかし、他ならぬネグロの命令である。
グレーティアは瞬時に、自身の眷属のうち、最も戦闘能力の高い者の算段をつけ始める。
「……かしこまりましたわ。
戦いに関しては非才の身ではありますが、私の力の及ぶ限り精強な眷属をご用意して――」
「いや、その必要はない。
俺が望むのは、初期レベルの『ワスプ・ワーカー』を3体ほどだ」
「ええっ!?」
先ほどとは比較にならない驚愕がグレーティアを襲う。
ワスプ・ワーカー。
『ノーブル・ワスプ・ワーカー』の下位種であり、グレーティアの眷属の中でも極めつけに最低クラスのステータスを持つ種族だ。
足は遅く、力は弱く、頭もさほど良くない。
使い勝手が悪いために、プラント内でもそうそう見かけることはない。
月光殿全体から見ても、その強さは最低位に位置する種族といえた。
「ネ、ネグロ様……私に、質問の許可を頂けませんでしょうか……?」
「ん? 何だ」
「僭越ながら……ワスプ・ワーカーは、我が眷属の中でも、最も無能な種族でございますわ。
ともすれば、ネグロ様から賜った命令をまともに遂行できないことも……」
「だからこそ、だ」
「えっ……?」
ネグロは、愉快そうに、いたずらっぽい笑みを浮かべて答えた。
「奴ら――コボルトもどきのステータスと数はおおよそ分かっている。
単体での戦闘力はワイルドボア程度、数は100に満たないだろう。
俺の予想では、奴らと戦闘になった場合、ワスプ・ワーカー2体であの集落を落とせる確率は五分。
3体居ればおそらく成功するだろうが、それでもギリギリの戦いになるはずだ」
「で、でしたら……何故……?」
ネグロは、わざと実力が拮抗するようにしたのだ。
コボルトもどきは極めて弱く、生産隊や参謀隊の下っ端ですら圧勝できてしまうほどの戦力差があったにもかかわらず。
月光殿内でも弱すぎて逆に珍しいワスプ・ワーカーをわざわざ引っ張りだしてまで、である。
「俺はな……グレーティア。
元いた世界と、この世界では、果たしてステータスの数値が同じ意味を有するのか。
それを確かめたいんだ」
ゲーム時代であれば、NPC同士の戦いは、ステータスの差でほぼ全てが決まる。
なにせ、互いのNPCは決まったAIで動いており、不確定要素が極めて少ないのだ。
プレイヤー歴の長いネグロは、NPC同士の戦闘において、そのステータスを見ただけで、どちらのNPCがどれほどの差をつけて勝つのか、おおよその見当をつけることができた。
そこで今回、ネグロはコボルトもどきの行動ルーチンがCoCのコボルトと同じであると仮定して、勝敗を計算した。
その結果、ワスプ・ワーカーを3体送り込めば、7割ほどのダメージを受けつつも、こちらが勝利するだろう、という結論に達したのだ。
だが、果たして計算通りにいくだろうか。
例えば、優れたプレイヤースキルを持つものは、たとえ全てのステータスで完全に負けていようとも、先読みや戦術を駆使することで格上相手に勝利を得ることができる。
この世界では、ネグロ以外のキャラクターも、AIではなく確かに生物としての意思を持って動いているのだ。
今までのように、AIで動いているという前提での戦力計算は、危険であった。
そこで、検証のために今回のような人選を行ったのだ。
もしネグロの計算通りに勝利することができれば、相手の知能レベルは――少なくともコボルトもどきの知能レベルは、ゲーム時代のAIと大差無いと言えるだろう。
だが逆に、ワスプ・ワーカーたちが敗北したのなら。
敵は、AIよりも高度な思考を持って動いていることになる。
そうなると、今までステータスが低いと侮っていた生物群の危険度は、一気に上昇する。
今はまだ、コボルトもどきを含めて、レウコン。イーリスの戦闘要員であれば瞬殺できるような弱さのものにしか遭遇していない。
しかし、今後ステータス上ではこちらに匹敵する存在が現れないとも限らない。
そんな時、相手をAIで動くNPCと同格に見て油断するようなことは避けなければならない。
たとえ相手の知能がいくら高かろうと、力のみでねじ伏せられる今のうちに、この世界の生物がどれほどに頭が良いかを確認しておく。
それこそが、ネグロの目的であった。
「なるほど……! なんという深謀遠慮……!
このグレーティア、感服いたしましたわ!!」
「いや、深謀遠慮という程でもないがな……」
ネグロの計画にはいくつかの欠陥があることを、彼自身も自覚していた。
この実験で分かるのは、あくまでコボルトもどきの知能レベルのみであり、実験結果は参考程度にしかならない点。
相手の知能以外にも、ゲームが現実化したことで様々な不確定要素が生じたため、単純に知能の差のみで勝敗が決まるとはいえない点などだ。
とはいえ、やれるうちから色々な手は打っておきたい。
「まあ、そういう訳だ。
ワスプ・ワーカー3体、用意できるか?」
「はいっ! お任せください!
すぐにご用意いたしますわっ!!」
そして、ネグロがワスプ・ワーカーという選択をしたのは、たとえ任務に失敗して死んだとしても、レウコン・イーリスにとって全く痛手とならないためでもあった。
養蜂部長グレーティア・ブルンスマイアーの種族は、「ロイヤル・ワスプ・エンプレス」。
その種族固有スキルの一つが、自身よりランクの低い蜂系モンスターを、無限に創造する能力である。
養蜂部で働く数千人にのぼる作業員は、全て彼女の能力により生み出されたものだ。
その気になれば、ワスプ・ワーカーとは比べ物にならないステータスを持つ兵からなる億の軍勢すら生み出すことができる彼女にとって、最弱の雑兵をたかが3人差し出す程度、たとえネグロの命令でなくとも、なんのためらいもなかっただろう。
◆
ネグロの執務室にて、赤と白の和装に身を包んだ黒髪の麗人が、ネグロと向い合って立っていた。
「首尾はどうだ」
「はい。例のコボルトに似た種族の言語スキルは、無事にスクロール化に成功いたしました。
現在は量産体制に入っており、参謀隊を中心とする各員に支給する予定です。
こちらがそのスクロールになります」
そう言って、生産隊総督、大幹部リンネ・アルビオルは、黒曜石の机越しに、ネグロへ一枚の紙を恭しく差し出した。
質の良い羊皮紙の上に、円形と線形を組み合わせた複雑な文様が描かれている。
スクロール。
スキルなどの情報を魔法陣に圧縮し、紙面に転写したものである。
単に文章や映像を圧縮して記録するための情報媒体としても用いられる他、スキルを転写したスクロールは、転写されたスキルを一定回数発動できる使い捨ての魔道具としても使用できる。
さらに高位のスクロールになると、転写された知識やスキルを使用者の脳に送り込み、新たな能力や知恵を授けることすら可能となる。
今回ネグロが作らせたスクロールは、使用者にコボルトもどきが使用する言語の知識を植え付ける、極めて高位の魔法が刻まれたものとなる。
しかし、レウコン・イーリスの生産隊にとって、この程度のスクロールを大量生産することなど造作も無い。
必要な材料は高位の錬金術士のスキルによって無限に生み出すことができるし、スキルを転写する魔法師も、ネグロの手によって創りだされた精鋭が揃っている。
ゲーム時代、ネグロはアイテムの収集に関しても異様なやりこみを見せていた。
飲めば神に等しい力を得ることができる霊薬から、世界を滅ぼすことができる魔道具、絶大な力を持つ武具の数々。
アイテム図鑑の空白を全て埋めるべく、彼は気の遠くなるような数のレア素材を集め、生産系スキルを持つNPCを総動員してありとあらゆるアイテムを創造した。
そんなゲームが現実化する以前の経験が、どういうわけかレウコン・イーリスの面々の中には、過去の記憶として確かに存在していた。
三千世界の叡智と技術を知り尽くした彼らからすれば、たかが言語理解のスクロール程度、眠っていながらでも完璧に作り上げることができた。
「見事だ、リンネ。やはり、仕事が速いな。
ビーチェとニコラにも礼を伝えておいてくれ。
……このスクロールは、俺が使ってもいいのか?」
「はい。ネグロ様のためにご用意いたしました」
「なら、遠慮なく」
ネグロはスクロールに記された文様の一点に指を当て、そこに少量の魔力を流し込んだ。
するとスクロールがまばゆい光を放ちはじめ、同時にネグロは、自身の頭の中に、大量の情報が流れ込んでくるのを感じ取った。
ゲーム時代はわざわざメニュー画面からスクロールを選択し、『使用する』ボタンを押さなければならなかったが、ゲームが現実化して以降、ネグロはまるで初めから知っていたかのように、大抵の魔道具の扱いをこなすことができるようになっていた。
やがて発光を終えたスクロールが、ボロボロと焼け落ちるように崩れ、消滅する。
「ふむ。これは……」
一瞬で新たな言語を修得するというのは、不思議な体験だった。
記憶に刻まれた新たな知識をネグロは凄まじい速度で理解・解析し、我がものとしてゆく。
「意外と語彙が豊富だし、言い回しも都会的だな……。
未開の集落独自の言語ではなく、どこかの国で使用されている共通語なのか……?」
コボルトもどきが使用しているというその言語は、原始人のような生活を営む彼らの生活様式からすれば考えられないほどに洗練されていた。
彼らが知る単語の知識を探ってゆくうちに、コボルトもどき達は自身のことを『賢狼族』と呼んでいることも判明する。
存外に高度な言語を操ると分かった以上、彼らは相応に知能も高いだろうことがうかがえた。
ネグロは、彼らが知能の低い野蛮な種族であったなら、問答無用で集落を制圧するよう命じるつもりであった。
しかし人並みの知能を持つ以上、会話などによる交渉も試してみる価値はあるだろう。
とはいえ、あの手の閉鎖的な集落は、えてして外敵に異様に敏感な場合が多い。
貿易など、集落外の存在と交流をしている様子も見られない彼らのもとに、突然知らない者が訪れて交渉をしたとしても、それが上手くいく確率が低いことは明白だった。
「賢狼族……か。
意外と話が通じそうではあるが……やはりそう上手く友好関係は結べないだろうな。
戦いになったら、ワスプ・ワーカーたちは、果たして勝てるかな?」
負けても問題無いとはいえ、自身のギルドの一員がボロボロに惨敗するさまは、ネグロにとってもできれば見たくないものだった。
とはいえ、計画に変更は無い。
後はただ、心を無にして結果を見届けるのみであった。
「さて……。
このスクロールがある程度ギルドに行き渡ったら、作戦開始だ。
参謀隊全員にスクロールが支給されるまで、あとどれほどかかる?」
「30分もあれば。
ネグロ様が急ぎをお望みであれば、3分以内に終わらせます」
「構わん。では2時間後に作戦開始とする。
作戦に参加するワスプ・ワーカーと偵察軍の者達にもスクロールを渡しておいてくれ」
「かしこまりました」
深々と頭を下げるリンネに背を向け、ネグロはその場を後にする。
「……やった♪ お褒めの言葉、頂いちゃった」
背後で、リンネが小さく喜びの声を上げるのを、ネグロは聞いた。
◆




